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文章あるいは創作の動機付け

 一般的に創作は人に見せたい、見せた人になにか思わせたいという欲求からされるという認識がある。自己顕示欲と言ってもよい。でもそれだけじゃないよね、というお話。ここで言う創作はゼロから1を作るがっつりとした創作だけではなく、日記から写真まで広い範囲を指しているけれど、多分言うことは変わらない。

自分のため

 ひとつは自分に向けて、自分のために作るという気持ち。自分で読み返したり、見返したりしたい。創作って言うとちょっと変に感じる向きもあると思うけれど、写真やプラモデルを例にすると理解してもらえるんじゃないかと思う。

 私にとって文章というのはそういう手段で、人に読ませたい、というよりは自分で読み返したい、というほうがやや比重が高い。とはいえ前者が皆無ではないのでこういうnoteなどでネットで公開している。皆無な人もたくさんいる。一番メジャーな自分向けオンリーの創作は日記だ。

 そういう感覚でいる私にとって、自分の私の文章は恥ずかしい過去ではあるし下手だなあ、とも思うけれど消すに消せない存在だったりする。いや、見るたびに「消そうかなあ、せめてローカルにだけ移動しようかなあ」とは思うのだけれど、実行するまでには至らない。

それ自体

 創作動機にはもう一つある。創作という形で出力することが目的になる場合だ。人に見せるか、とか自分で見返す、というのとはこれは全く異なる概念だ。
 前段でも出した例だが、「自分で読み返さない人の日記」というのはこれに属する。私もそういう日記をつけていたことがある。たまたまデータという形式だったから手に取りなおすこともできるけれど、実際に手に取ることはない、そんな日記。

 オリジナル小説とかそういう創作度の高いジャンルでもそういう傾向の方もいる。今でこそインターネットはあるが、ローカルディスク保存だったり、そもそも紙媒体だったりして埋もれている創作はたくさんあるだろう。

 匿名掲示板への書き込みもこれに属するんじゃないかなあ。公開こそされるけれど、残るとは限らないし残っても通常人格とは紐づかない。
 ああ、いや、これはちょっと違う概念だ。「匿名」という文字通り、創作と創作者を紐づけるかどうかの選択であって、匿名でも「人に見せる」という目的は変わらない。

まとめ

 大雑把に創作の目的に3つのベクトルがあって、「他人向け」「自分向け」「それ自体」となる。「内輪向け」といったベクトルも思いついたがまあそんな感じで。2つに分けると「見せる対象がある」「見せる対象がない」となる。
 それとは別に創作と創作者を「リンクしたい」「したくない」「どちらでもいい」という選択がある。
 いずれにしても、消費する側に立つとその質はどうあれインターネットで公開される確率が上がったのはいい時代だと思う。
 そしてこの文章そのものが3つのベクトルすべてを意識した短文になっている、という記述は多分後で見ると恥ずかしい奴だ、と思いながら残しておく。

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