
すまないが大島弓子が好きなのだ
川上未映子が大島弓子について書いた『大島弓子を読めないで今まで生きてきた』(『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』ヒヨコ舎・所収)が大変な名文なのですが(こちらでも読めます → http://www.mieko.jp/blog/2006/03/post_e7fb.html )この中に出てくる川上未映子に「大島弓子を読め」と強いる男の人がまるで僕のようで(苦笑)気恥ずかしいったらありゃしない。
『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』
川上未映子
講談社
僕もことあるごとに、大島弓子はいいよ〜、読んでないなんてもったいないよ〜とか言いまくってて、川上未映子の文中でもかすかにこの男性への揶揄が感じられるように、周囲の女の友達からは相当にウザがられていたのではないかと思う。
申し訳ない話である。
「大島弓子が好きな男」
に感じる鬱陶しさ、というのは、まぁわからないわけではない。
僕がウザがられていた(多分)のは「まだ大島弓子を読んでいない女性」からだけれども、大島弓子を心から愛する女性たちは、どうやら「大島弓子は女にしかわかりっこない。わかりもしないくせに擦り寄るフリしてウザい」と思ってる人も多そうで(Amazonのレビュー等からコメントを拾い読みした結果の推定です)、もちろんそうじゃない人もいるんだろうけど、それもなんだかなぁと思うのだった。
たとえば『バナナブレッドのプディング』など、「男には絶対にわからない!」という賞賛の仕方で語られる。
ああそうですか。わからないかもしれないが、全部わからなくたって僕は大島弓子が凄い人だということは知ってるし、君たちが「男にはわからない!」と囲い込むその姿勢がかえって何かの理解を妨げてるかもしれないぜ、とか誰に愚痴ってるのか僕は。
いや、すみません冷静になろう。
少女が思春期に恐れる自分の中の性的なものがどうたら、とか、当たり前だが、字面でわかっても、僕には残念ながら十全の意味ではわかるわけがない。だって少女じゃないんだもん。
わからないから男にとって『バナナブレッドのプディング』はつまらない話なのかと言えば、そんなことはないのであって、そもそも作品世界を100%完璧に理解することがその本を読む上で、絶対に必要なことなのかな、とか思ってしまう。
『バナナブレッドのプディング』は、我々オトコにとって異世界の話である。想像は及ぶ。そんなに遠い異世界ではない。隣の異世界だ。
隣の異世界の、重大な話が語られている。その核心の部分のいちばん濃いところは、「隣の異世界語」で語られるので、ネイティブではない僕らには何ごとか翻訳されたレベルの情報しか入ってこないだろう。
しかし翻訳小説にその訳文の美しさから賞賛される本があるように、その世界をどう受け取るかは読む人の自由である。僕はちょっとだけ遠い隣町の重大なお話を、美しいと思って読んでいる。そして、その話が隣の住人にとって大変センシティブな、それゆえに切ない話であることも(翻訳なりに)理解しているつもりだ。
なので、どうか寛大な心で大島弓子好きな男を遇して欲しいと思うのだ。
男にだってこの「切なさの百科全書」たる大島弓子の世界に身を浸す自由を認めて欲しい。
男が読もうが女が読もうが『夏の夜の獏』や『夢虫・未草』や『つるばらつるばら』や『ダリアの帯』や『金髪の草原』や『裏庭の柵を越えて』やあれやこれやが大傑作であることに変わりはない。
「バナナブレッド」の後くらいから、あすかコミックスで刊行されてるあたりの作品(昔の選集でいうなら8巻以降、最近の自選集なら5巻以降)って、なんかもう少女漫画だとか女だとか男だとか、そんなのどうでもいいくらい突き抜けちゃってて、もう人類の宝じゃん、くらいに思ってるのですがねぇ。
どれが一番好き、みたいな話になるとむずかしいけれど、『夏の夜の獏』のような、漫画というジャンルでしか表現できない世界(登場人物の姿が全員そのときの精神年齢で描き出される。たとえば小学生の主人公は精神が大人びているので立派な青年として描かれるが、幼稚な精神しか持たぬ両親や学校の教師などは子供の姿をしている)を成立させている話は本当に凄いと思う。
『夏の夜の獏』で最後に○○○○○○○○(ネタバレ自粛)するとことか、『夢虫・未草』の、五月くんがだだっぴろい草原で爆弾のスイッチを構えてる大コマなんか、日本漫画史上に残る名場面だと思う。
男女関係なしに、この素晴らしい大島弓子世界に浸ればいいじゃないですか。
仲間に入りちくりっ!
(シミルボン 2017.1)