【50】付き合いの蔦をどこに伸ばすか

植物をしかるべく育てるためには適切な量の水や光や養分を与えねばなりません。種類によっては、もちろん、気温や風の通り具合に気を配ったり、適切な土を入れたり、あるいは蔦を絡ませるための棒を設けたりすることが必要になるでしょう。

サボテンは水をほとんど要さず、簡単に育てられるようにも思われるかもしれませんが、寒すぎたらだめですし、寒い時間が全くなければ、花が咲かないこともある。

ミントのような圧倒的な繁殖力を持つ頑丈な植物もありますが、ミントとて、地植えをしてはいけない(地域の生態系を破壊するから)とか、交雑を避けたほうがよいとか、配慮すべきことはたくさんあります。

強靭な植物でさえ、このように配慮を要するのですから、ほとんどの植物は、もっと貧弱で、繊細な配慮を求めるものでしょう。


さてこのように、比較的単純に見える植物の生命を適切に保つことさえ難しいのですから、
私たちが自分の身体的な生命のみならず、精神的な生命をも適切に維持し発展させてゆくには、一層の配慮が必要となる、ということは、容易に見て取られるものと思われます。

身体的なレヴェルでももちろん、あれやこれやと配慮をせねば、健康に生きていくことは難しいでしょう。食べる料理に気を使わなければすぐに体を壊しますし、長期的に見れば、適度に運動も必須です。どうしていたって病気になることはありますから、定期的に健康診断の類をうけて、深刻な事態に陥らないうちに、手を打つことが必要でしょう。

精神的なレヴェルでも、普通に生きていくためにさえ様々なことをしてゆかねばなりません。より良く——これはもちろん「快楽」などと一致するとは限らない基準です——、より理想的なかたちで生きていくためには、植物を気遣う時と同様、あるいは植物を気遣うときよりもずっと繊細なかたちで、配慮することが必要になるのではないでしょうか。

自分の身体に関して気を遣う人は、少なくないと思われます。私ももちろん気を遣います。ヨガをやっていますし、筋力トレーニングの類もよくやります。最近はヨガの強度をあげすぎて全身がボロボロになっていますが(笑)、バランスを見ながら、適切な範囲で、身体を気遣っています。趣味で運動をされる方や、あるいは定期的に体を動かす習慣をお持ちの方は、もちろん多いことでしょう。
あるいは攻めの姿勢をとって、単にほどほどに健康であることに飽きたらず、より美しい、強い身体を目指す人も多いでしょう。この点に関して具体例には疎いのですが、身体を美しくしようとする心を持つ人がいると言うのはよくわかりますし、私がやっているアシュタンガヨガも、極めていけばそういった方向に向かうのかもしれません(もちろんヨガに限らず武道であれスポーツであれ、身体は精神無縁ではありませんが、さしあたり両者の相互関係は深くは扱わないことにしましょう)。

これに対して、どれほど皆さんは精神の健康に気を遣われていますか。精神に、水・光・養分というものを与えているでしょうか。あるいは必要な土壌や添え木を与えられているでしょうか。
もちろん、テレビをぼんやり見ている、音楽をぼんやり聞いている、本をぼんやり読んでいる、漫画をぼんやり読んでいるということで精神にエネルギーを充電しているのだという方もいらっしゃるでしょう。果たしてそれが本当に精神の健康に役立つのかはわかりませんが、意識したうえでのことだったのでしょうか?
あるいはそうした漠然たる情報の消費というものがかえって精神を消耗させてしまう、という一定程度戦略的な考えをお持ちの方でも、仕事で疲れ果ててしまってそんなことをやる余裕はないと仰るかもしれません。それは充分に理解できることです。

私も日々のノルマ、すべきことを片付けると、もうそれ以上、精神を富ませるようなこと——根を広げ、蔦を長くし、花を美しくし、実をより大きなものにすること——に、どうしても時間を割けないということはままあります。そうした状況にありながら申し上げるのは大変遺憾なことですが、果たして精神に対して水や光や養分を与えることを明確に意識しているか、いないかでは、非常に大きな差があるように思われるのです。


どのような相手と付き合うか、ということを例にとりながら、もう少し具体的に見ていきましょう。

付き合う相手によっては、自分の精神は大きく回復することもあれば、もちろん大きく落ち込むこともあれば、あるいは何も変わらないこともあれば、養分を得て育っていく可能性もあるでしょう。

愚痴ばかりやるようなコミュニティとか、ばかばかしいおべっかを使わなくてはならない相手がいるコミュニティに身を置き続けるのは、精神的にとても疲れますから、早いところやめた方が良いというのは明らかでしょう。
あるいはどうしてもやめられない事情があるのだとしても、そんなものがないような世界にいずれは生きるのだと思っておいた方が、結局のところは良いに決まっているのでしょう。

それから、一見楽しいように見える会話にも、少なからず罠が潜んでいるように思われます。
例えば当たり障りのない友人との会話というものがあります。
そうした遊びのような、気持ちを緩ませる会話というものは、それはそれで必要なのだと思われます。たとえば私生活におけるパートナーとの会話を進めるときに、思いきり神経を張り詰めていたら、それはあまり幸せではないかもしれません。トマス・アクィナスも言う通り、我々人間というものは弱いから、精神をずっと張り詰めさせることはできない。そういう意味で、精神を束の間弛緩させる、広い意味での「遊び」が必要になる(『神学大全』第2の2部、第168問題、第4項第1異論解答)。それは否定できないことです。豊かに生きていくためには、気を緩ませる瞬間というものは絶対に必要になるでしょう。漫然とスマホゲームなどやる時間も——目が疲れるうえに、さほど面白いと思わないので、私はやりませんが——人によっては必要かもしれませんん。
とはいえ、こうした散漫な会話を余暇の領域に取り置いておく、つまり主たる活動にしないということもまた、心に留めておく必要があるように思われるのです。大抵の人は緩みすぎている。もっと締めてよいところ、易きに就いている。遊ぶのは、様々な意味での豊かさへと差し向けられた行為をもっと尽くしてからで良いように思われるのです。少なくとも、自分が易きに就いてはいないかと一度は疑うことは、極めて重要であるように思われます。

楽しい会話は、必ずしも当たり障りのないものとして認識されるものばかりではありません。たとえば、友人と本気で話して議論を深めているように見えて、実のところ同じことを
ただただ繰り返しているだけ、ということはよくあります。
見抜くのは時に難しいのですが、皆さんにも経験があるのではないでしょうか。おそらく飲み屋やらオンラインやらでだらだらと会話をしていて、収拾がつかず、数時間経てば話題も尽きるのに、沈黙がなんとなく嫌で、申し訳程度の笑みを漏らして、少し前の話題に戻る。別れがたくて、だらだらと同じ話題を繰り返して深夜まで飲み続けてしまう。そこまで長い時間だらだら一緒にいられるというのはもちろん、サルのグルーミングのように相手との親しさを確認する作業にはなるのですが、行き過ぎると時間の無駄ではあるのです。
荘子が「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴(=甘酒)の如し」と述べたのは至言であるように思われるのです。つまり、べたべたと甘酒のようにねばついた氷を持つのではなく、水のようにさらっとした関係を持つこと。……もちろん、交わりを水のように薄くしてしまえばすぐにひとかどの人物になれると言うわけではありませんが、さくっと会話を切り上げて「じゃあまた」と言うほうが、よほどエレガントで、お互いにとって良いのではないでしょうか。そうした方が、余計な身体的な疲れも、気まずい空気も、避けられるでしょう。会話は少し物足りないくらいに留めておいたほうが、双方の心に課題や期待を残すことになります。以って、次また会うときまで、ある種の活力をたたえたまま生きていけるでしょう。水のごとく淡い会話を行っておくのは、無駄に会話の時間を長引かせないということは非常に有効なのです。
我が身を振り返ったときに、粘ついた甘酒のような会話をだらだら反復している、ということは無いでしょうか。それは上に見た「遊び」のような会話のように、心を休めることはあるかもしれませんが、知力をほどほどに使うぶんかえって疲れる、しかも体をも毀損する行為である可能性があります。

少し長く迂回しましたが、ともかく、一見楽しく見える会話であっても、それが自分にとって結局のところ豊かさををもたらすのか、ということは一度考えてみてよいと思われるのです。もちろん、豊かさをもたらさない行為をそれでも選択するのだ、というのは個人の勝手ですし、ときに必要かもしれません。水よりも甘酒だ、という方には、どうぞお好きなようになさってください、としか言えません。

しかし申し上げておきたいのは、上に見た例で言えば、水だと思っていたもの、あるいは甘酒だと覚悟していたものが実はウォッカだった場合、また毒薬だった場合、目も当てられない結果になるということです。即座に悪い効果があらわれてくるのならまだ良いかもしれません。伸ばしていた蔦が絶ち切られたり、樹皮を剥がれたりすれば、すぐに分かるぶん、対策は立てやすい。しかし遅効性の毒物を飲んでしまった・飲み続けてしまった場合には、いっそう悲惨な帰結が招来されるでしょう。精神の根が知らぬ間に腐っていくかもしれませんし、
どういった選択を取るのであれ、トータルでは悪い結果にならないように、注意を払うことが必要であるように思われるのです。


さて、ではどんな人間との関係を結んでゆけばよいのでしょうか。
もちろんこれについては、まったく正解と言うものはありません。

とはいえ可能性を挙げることはできるというものです。

少なくとも論理的に思いつきやすい方策のひとつは、全くわからない場所に飛び込んでみる、というものです。
しかしこれはもちろん、大いに危険を孕んだらやりかたです。オデュッセウスの「狂った飛翔」ではありませんが(ダンテ『神曲』地獄篇、第26歌第125行)、見知らぬ大海に、何の導き手もなしに意気揚々と漕ぎ出すのはかなり危険です。オデュッセウスは海に呑まれて消えました。
もちろん、少しばかり向こう見ずになることで期待される果実はあるかもしれません。しかし、リスクばかり高くて、高いリターンが期待できないような投資に、私は一銭たりとも金をかけたくはないし、精神的リソースも時間も注ぎ込みたくはありません。いや、私のような心配性な人間にとっては、ハイリスク・ハイリターンの投資だって嫌なものです。皆さんも多くはそうでしょう。
「リスクをとれ!」「リスクをとらなきゃ結局うまくいかないぞ!」と囃し立てる人間は、(無駄に)危機感を煽って正常な判断力を失った人間から何かを搾取しようとしている可能性もありますし、そうでなくとも彼らなりの生存バイアスがあって言っているわけですから、即座に信用するわけにはいきません。傾聴に渡するかもしれませんが、話半分に聞いておくのが良いというものです。

であれば、そうした臆病者、慎重すぎるぐらいに慎重な者が選ぶべき中途半端な選択は、おそらく、ほどほどに知らない・ほどほどに勝手のきかない所、あるいは否定的に言うのであれば、「絶対に嫌だ、絶対に避けたい」というわけではない場所に繰り出すことではないかと思われるのです。つまり、中途半端に未知の場所に精神の蔦を伸ばすということです。
肯定的に捉えるか否定的に捉えるかは別として、どちらにしたって精神に負荷はかかります。それまで出会ったことのない価値観を持っている人がいるかもしれませんし、あるいはとんでもない地雷のような人間がいるかもしれません。それはもちろん、ありえないことではありませんし、そうした問題を予期して、注意深く人間関係を構築していく、あるいは既にできている人間関係の輪の中に入っていくことが必要になるでしょう。
しかし、そうして自分が今までになかったところに顔を出してみることで得られる果実が多い、というのも事実でしょう。他の人を紹介してもらえるかもしれませんし、端的に仕事(の場)をもらえることもあるでしょう。あるいは、仕事を離れても、長く付き合って行ける友人を見つけられるかもしれません。卑近で個人的な例を挙げるなら、学会に出たときの懇親会は、懇親会としては苦痛ですが、私の論文を読んでいるという人がたまたま話しかけてくれて、関係が生じると言うことがありました。また単に発表の機会を提示されるということもありました。
こうしたチャンスの類は、自分が慣れきっているわけではない場所に足を踏み出さなければ、得にくいものだと思われます。
 
植物のたとえに戻るのであれば、これまで北の方角に伸ばし続けていた蔦を、北東とか北西とか、あるいは少し高く伸ばしてみる。伸ばしてみることで、日当たりのいいところにたどり着けるかもしれない。そういうところにたどり着けたら、もっとそちらに伸びてゆきたいということになるでしょう。散々日の光を浴びれば、根も強くなって、いずれつける花も実も大きくなるかもしれません。

わりあい抽象的な話をしてきたので、目下の状況についても少し話をすると、
現在の、というか今後の状況にあっては、対面のコミュニケーションと言うものはいっそう難しくなるはずですから、オンラインで自分の交友関係をじわじわと広げていく必要が出てくるのでしょう。
リアルの・対面の人間関係というものは寸断されていて、おそらくは騒動が一区切りついても、これまでよりは希薄になる。そんな中ですから、私たちが今後そうして新しい人間関係を構築していく・開拓していくときにどうしても必要になるのは、オンラインで既存の人間関係を保っていく、あるいは新しい人間関係を構築していくことに関する、技術であり、心構えなのだと思われます。
この点については具体的には立ち入りませんが、各人が方策を立てるべきところでしょう。

ともかく慣れきった場所に安住しないこと、全く知らない場所にいきなりぴゅんと飛び込まないこと、このふたつの振る舞いの間をとったような或る種中途半端な方策——知っているような知らないような場所に恐る恐る足を踏み入れること——は、立てて実行してよいと思われるのです。


少しは面白そうな場所、絶対に嫌ではないけれども今まで足が向かなかったところ、行ってみたことがなかったり、よく知らなかったりする場所に行ってみる。そうして自分が知らないものに触れ続けなければ、自分の価値観や考え方は少しも変わることなく、手近なところの養分を吸い尽くして立ち枯れへと向かうだけでしょう。あるいはそこには既に毒が撒かれていて、気づかずに毒を吸っては吐き出しているだけ、という可能性だってある。

であれば、自分が今根を張っている土壌や、自分が今生やしている蔦の本数や向きを把握したうえで、どこか別のところに蔦を伸ばしていけないかを考える必要があるでしょう。そうして知らないもの、慣れていないものに攻めていくことで、自分の実力が養われ、また自分の実力を発揮する機会も増大していくのではないでしょうか。