【129】「言わずもがな」を言いつづける理由
どんな領域であれ、守り抜かねばならない原理原則は、案外少ないものです。
極端に言ってしまえば、人生全般においても重要なきまりとか、守り抜かなくてはならないことの数は極めて少なく、そうした当たり前の、言わずもがなのきまりをきちんと守っていれば、それだけで幸せになるとは言わぬまでも、かなり良い生活を送ることができるように思われます。
もちろん、人生のステージも様々であれば、専門や重点を置いている領域も違うはずですが、基本的に守らねばならないことは概ね共通するようですし、そうした基本的なことをきちんと守っていれば、おかしなことにはならないように思われます。
簡単に言ってしまえば、ごく小さい頃に誰でも教わる、というよりはなんとなく言われながら育つような、「言わずもがな」——ここでは、「言うまでもない」の意です——の道徳的な事柄を全て守り抜いていれば、割と幸福な人生を送れるように思われますし、そうして守らなければならない道徳的なお題目の数というものは少ないのだと思われます。
しかし実際には、それらを守るのは極めて難しいものです。
「だから戦争がなくならないのだ」などと、絵に描いたような短絡的な主張を振りだすつもりは全くありませんが、ごく個人的な水準で言えば、人間の不幸の割と多くの部分は、言葉にするのは簡単な、ごくあたりまえのお題目を守ることができない、ということに由来するのではないかな、と思われるのです。
ごく小さい頃に、例えば砂場で、例えば保育園や幼稚園で、あるいは小学校で、友人と遊んだり、あるいは先生や保護者との関わったりする中で、はっきりと言われることもあれば、はっきりと言われないこともあるにせよ、大体どこでも平均的に教えられるような道徳的なきまりというものを守っていれば、概ね幸せに生きていけるはずなのに、実際にはそれらを守ることすらできていないように思われる、ということです。
「お題目」の例。……
人それぞれ事情はあるにせよ、次のようなことには概ね同意されるのではないでしょうか。
人の物を盗んではいけない。
人の悪口を言うのは良くない。
人が嫌がることをやってはいけない。
人がやりたがらないけれども誰かがやらねばならないことは、積極的にやろう。
人は騙してはいけない。
自分がした約束は守ろう。
こうしたお題目の類は、ひねくれている人であれば別かもしれませんが、おそらく99.9%の人は、そうした方がいいよね、と思われるものではないでしょうか。つまりすべて当然のことのように思われる、ということです。
しかしよく考えてみると、これら全てを実践している人がいるとすれば、ほとんど聖人君子に見えるのではないでしょうか。当然のことしかやっていないにも拘らず、です。
なるほど、人のものを盗んだことがない、という人は、多数派かもしれません。もちろん窃盗や強盗の概念を狭くとれば、ということですが、人の物を盗んだことがないという人は、そこまで珍しくないでしょう。
しかし、悪口を一度も言ったことがない人はいますか、という話です。本当に全く言わずに済んでいますか、ということです。
あるいは、人の嫌がることをするな、ということだって、知らず知らずのうちに誰かに対して嫌な思いをさせている可能性が全くない、と言い切れる人はあまり多くないでしょう。
人を騙してはいけないという格率についても、「嘘も方便」というこれに対立するような言葉もありますが、本当に方便でしかない嘘しかついたことがない(つかない)、と胸を張って言い切れる人はどれくらいいるのでしょうか。「体調不良」を理由に予定をキャンセルしたことがある人は少なくないでしょう。私はやったことがありませんが、課題提出の締め切りに間に合わないために親族の不幸を偽装する人の話も聞いたことがあります。こんな例を挙げるまでもなく、嘘をついたことがない人は珍しいはずですし、周りを見ても、「この人は嘘をついたことがないのだろうな」と思わせる人は、まあ、いません。
約束を守るということに関しても、もちろんそうです。他人との約束を守るか否かということはもちろんですが、特に、自分で自分に課した約束、自分のと自分との間で守らねばならない約束、自分に課しているはずの格率(意思決定基準)に忠実である、という意味での「誠実さ」を守り切れている人はごく少ないように思われます。
自分で自分に課した行動基準を守りきるという意味での「誠実さ」は、特に前批判期のカントに言わせれば、或る種道徳的な主体としての人間の出発点であって、最低限度のことですが、実はこれこそが難しいのではないでしょうか。
たとえば、ダイエットをするぞと決めて、一定の量の運動なり、食事制限なりを我が身に課してみても、守れない。勉強しなくてはならないし、その分野に関する知識や技術を身につけたいと思っていても、怠けてしまう。二度とパチンコなどしないぞと思っても、目を閉じればまぶたの裏にはスリーセブンの赤い文字が浮かぶ。禁煙しなくてはならない事情があるのに、なんとなく口寂しいなと意識するより先に、指先がタバコを求めている。脳が器質的に変化してしまっているとか、そういうことがあるにせよないにせよ、ともかく、自分で決めたことすら守ることができない。遺憾なことです。
実に、人間は自分で自分に課した約束を守ることができるほど強くない、ということを、私たちは経験上よく知っています。
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このように人間は壊れ物で、欠陥品です。
小さい頃から何度も言われていて、自分でも正しいよね、と納得している行動の基準さえ守り抜くことができない。自分で自分に課した約束さえも守ることができない。
それぐらいに人間は弱く、どこかが壊れた、不完全を極めたような存在であるということです。
そんな中でも、私たちはともかく生きてしまっていますし、生きている限りにおいては、不完全なままにどうにか歩んでいかなくてはなりません。いたずらに悲観していても仕方がない、というか、現実を見据える限りは一定程度悲観的になるのは当然だけれど、嘆いてばかりもいられない。
であればこそ、重要なこと、「言わずもがな」のことは、躓きながら、失敗しながら、自分で繰り返し、様々な角度から学びつづけて、身体に染み込ませる必要があるのではないでしょうか。一度学んだだけではダメで、同じ角度からの学びをぼんやりと反復していてももちろんダメで、様々な角度から・様々な仕方で繰り返し叩き込む必要があるということです。
これはもちろん、道徳的なお題目に限らず、それぞれの専門分野において必要な行動の基準にも関わるものです。そうした個別の文脈においても、何度も何度も角度を変えながら、様々な言葉で、様々な文脈の中で学んでいかなくてはならない。そうした行動の基準を学んで、身体に染み込ませなくてはならない、ということです。
外国語の単語を、単語と意味だけ対応付けて覚えていても何も意味がないのと似ていますね。様々な文の中で実際に用いられているのを確認しながら、あるいは様々な文章の中でどのような意味を背負わされているのかを確認しながら学んでいかなくては、単語そのものを使えるようにはなりません。辞書に用例が載っているのは、取りも直さず用例の側からこそ意味を定める必要が生じているからですし、実践的には、少しでも用例を見ていかなくてはどう使うのかがわからないからです。
「言わずもがな」のことを、私はずっと言いつづけるわけですが、それは様々な角度から、様々な言葉で、様々な文脈において言われなければ、そうした「言わずもがな」のことが本当に「言わずもがな」にはならない、という確信を持っているからです。
強い言い方をすれば、人間は馬鹿だから、何度も、いろいろな仕方で言われないとわからず、できるようにならない、ということです。だからこそ私は当たり前の、「言わずもがな」のことばかり、様々な例や引用を重ねながら、書いているということです。抽象化したら全く同じになりうるところのものを、ガワを替えてポンポン出しているということです。
カンタンな、ラクに流された、粗製乱造チックな振舞いに見えますか。
そうかもしれません。その見立てが全く間違っているとは言えません。
しかし、仮に「粗製乱造」なのだとしても、「粗製」なのは寧ろ人間の精神のほうです。一度・ひとつの仕方で言われても身体に染み込ませることができない、そうした人間のあり方に合わせる必要があるからこそ、何度も何度も、手を変え品を変え、書いているのです。
もちろん私も、そうした愚かな、壊れ物としての人間です。偉そうに上から目線で語ろうという気はさらさらない。自分自身ができていないからこそ自分自身に言い聞かせている(だから語調が強くなる)、という面があります。
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翻って皆さんは、ご自身が専門とされている領域や、あるいはもう少し広くとって、人生に対して、どのような「言わずもがな」をお持ちでしょうか。そして皆さんは、本当にその「言わずもがな」を正確に実践できているのでしょうか。できていないとすれば、戦略的な学び方を構築する必要があるのではないでしょうか。
こうしたことを一度は振り返ってみるのも、悪くないのかもしれません。