【136】リスになりたかった少年と、不労所得で暮らしたがるあなたの共通点

子供の頃の夢というものをそのまま叶えている人は稀でしょう。子供の頃の夢を叶えていない人も、挫折した記憶を明確に持っている、ということはおそらく珍しいと思われます。

成長していく勉強していく中で自分の世界が広がって、元々持っていたはずの夢が色あせたとか、

あるいは自分の持っている夢があまりにも非現実的であったため、周囲の環境や自己認識に合わせて妥協し、もっと現実的な夢を持ち直すに至ったとか、

そうした事情が背後にあるのかもしれません。

しかし、寧ろより適切に事態を言い当てているのは、きっと「そもそもそんなものは夢ではなかった」ということであり、つまり夢だと思っていたものがその実大したことのないものとであったことに、意識的にであれ無意識的にであれ気づいて、持っていたはずの夢を本当に忘れてしまった、という言い方であるような気もするのです。


奇妙なことに、就学前の私はいっとき「リスになりたい」とよく言っていたらしいのですね。

これは後になって、親に言われて初めて知りました。「知った」のであって、「思い出した」のではありません。失われていたものが再び見いだされたのではなく、失われていたことさえ思い出すことができませんでした。当時よく飲んでいたココアの香りで記憶がまざまざと喚起されたわけでもなく、単に新たな知識として「知った」のです。

私は、幼い頃の記憶は割とはっきりしている(と思っている)ほうです。なるほど、生まれたときの記憶があるとまで自伝(的小説)に託して主張する三島由紀夫ほど明晰なものではありませんが、3歳の頃であれば、人よりは覚えている断片的な記憶の量はかなり多い方だと思います。幼稚園の階段も、廊下も、送迎バスの色合いも、運転手さんの顔も、教室の間取りも、置かれていた本のタイトルも、わりと覚えています(それにしたって、人の名前は殆ど覚えていません)。

が、リスになりたいと言っていたことは、全く覚えていませんでした。ことによると、親が私をからかうために捏造しているという可能性もなきにしもあらずですが、とりあえず信じるのであれば、私は3歳頃には、「リスになりたい」という夢を抱いていて、確かに言葉によって、「リスになりたい」という表現を振り出していたのです。

しかし、すぐに忘れている。小学校に入った私は、求められれば、また別の「夢」を表明していました。


思えば、おそらくは実物のリスなど一度も見たことがないというのに、そんな夢というものを、あるいは夢に関する表現を持つことができたというのは、実に興味深いことです。

よく考えてみれば、リスになりたいとか言っていたのが、具体的な経験に基づいていないというのは、このき夢の表現の薄弱さを示しているようでもあります。

図鑑やアニメでちらっと見たリスがなんとなく心に触れたのかなんなのか、もう分かりませんが、ともかく極めて断片的で、それほど真剣になって摂取していない情報から、なんとなく、本当に考えもなしに、半ば機械的に、リスになりたいと言っていたのでしょう。

リスになりたいということに寄せて言えば、現代日本の最高峰の小説家である松浦理英子の作品である『犬身』において——松浦理英子ならもっと別にいい作品がありますが、『犬身』は入り口としては良い小説のひとつでしょう——、主人公である房子が大人になっても執念く犬になりたいと願いつづけたのとは異なり、リスになりたかった少年は確たる姿を持った望みを持ってはいなかったわけです。

謂わば「そんなものは夢ではなかった」のです。だからこそ、完全に忘却されていたという面があるでしょう。

先日散歩をしているときに目の前をリスが走るのを目撃して、漠然と興味深いな、と思い出されたという次第で、それでも「リスになりたい」と言っていた頃の記憶は、全くよみがえりませんでした。


さて、私たちがもう少し年をとってから持つ夢や淡い目標の類に関しても、極めて薄弱な根拠ないし動機にのみ基づいて表現されるものが、極めて多いように思われます。

こうした夢をきちんと忘れて、そのうえで別の目標・よりソリッドな到達地点を想定しているという人は、実は少数派なのではないか、という気が最近はしています。

殊に、こういっては言い過ぎかもしれませんが、私の目から見れば軽薄にしか見えない金儲けの方法をTwitterやnoteなどで盛んに宣伝している人々の謳い文句を見ると、どうも南の島に住みたいとか、不労所得で悠々自適とか、ラクしてスマホひとつで云々とか、高級外車がどうのこうのとか、あるいは内容の不明確な「自由」といった概念を掲げたうえで、そうした(空疎な)目的地にたどり着きたい人は私の持っている金儲けの技術を学んだらどうですか、それにお金を払ったらどうですか、というタイプの売り方を仕掛けている人が割と多いように思われます。

そうした売り方がある、ということは、買う人がいるということだ思われるのですね。

ですが、私からしてみれば、これは意味が分からない。

お金はもちろんあったほうがいいわけですが、私は南の島に住みたいとは思いません。暑いのは無理です。もちろん南の島が好きな人はそれはそれでよいのですが、「南の島」と聴いてなんとなく「いいなぁ〜住みたいなぁ〜」と、全く具体的に想像力をはたらかせずに、思ってしまう人もいらっしゃるのではないでしょうか。

おそらくは、広告や、フィクションや、人と触れる中で、目標=南の島、不労所得=万人が目指すもの、等といった、テンプレ的な「幸福」像を、軽率にも受け入れてしまっているのではないか。——そんな疑いが持たれます。

「不労所得で悠々自適」というのもそうです。本当に不労所得がほしいんですか。そのためにも或る種の労働が必要ですが、その覚悟はお持ちですか。ひょっとすると、働いてバリバリ稼ぐほうが向いていると思いませんか。まあ、不労所得があるならあるでいいかもしれませんが、あまりにも緊張感がなさすぎて、かえってよくないことになってしまう可能性はありませんか。不労所得——不動産や株式が一般に想定されるのかもしれませんが——への志向は、労働が嫌だからこそのもので、寧ろ「労働は辛く嫌なものだ」という発想を一度は疑うことのほうが必要ではありませんか。

高級外車など私は乗りたくもなく、そもそも免許を持っていないので、転売するのでもなければ価値がありません。よし免許を持っている人も、本当に高級外車を運転したいのですか。そもそも左ハンドルは日本では不便ではありませんか。

高級住宅街も、実際に(家庭教師の仕事などで)行ったことはありますが、私はあまり好きではないから、住みたくない。プール付きの豪邸にも住みたくはない。本当は家事手伝いのために他人を家に入れるのも嫌で、となると掃除が大変です。もっと小さな土地で落ち着いて過ごしたい。皆さんが高級住宅街に・豪邸に住みたいと思うのは別にいいのですが、リアルに想像してみたことがありますか。

「自由」と言われても、「自由」の概念について思いをいたしてしまって、この人の言う「自由」に関する観念と、私が持っている観念とでは、どこまですり合わせが可能なのか、と疑われてしまうことがしばしばです。自由という語は、そういえば西洋中世の哲学にはかなり空虚な形でしか存在していない——libertasという現在のlibertyのもとにあるラテン語は、スコラ学ではほとんど使われません——ということに鑑みて、「自由」ということで何が想定されているのかということが全くわからないな、と思ってしまって、もう私などはそうしたものには手を出す気には全くならない。私は頭でっかちですし、それはそれでよいのですが、ともかく、哲学的に負荷の強い言葉をあえて使っておきながら、そして語自体の曖昧さ・なんとなくの「イイ感じ」を武器にしておきながら、その内実に気を配っていない人の言葉には、あまり価値を見いだせない。

……翻って皆さんは、南の島に住みたいとか、不労所得で悠々自適とか、高級外車とか、高級住宅街とか、庭付き豪邸とか言われて、なんとなくそうしたものが欲しい、と思い込んでいませんか。

そうした夢を、例えば友人との雑談や、例えば飲み会や、例えば同窓会などで、どれだけ真剣であるかどうかは別にして、掲げているような素振りをすることがあるのではないでしょうか。

こうした「夢」は、明確に忘れるべき夢だと思うのですね。

はっきり言いますが、持っていても叶いませんよ。

であれば、さっさと具体的な、より納得できる目標を立てたほうがよくはないですか、ということです。

極めて漠然としていて、しかも自分のものであるかどうかがわからないような夢とは縁を切って、自分がまっとうに欲しいもの、より納得できるもの、納得してとりくんでゆける目標というものを掲げる方が、まだ建設的ではないかと思われるのです。


もちろん、欲望は言語で記述されるからには、そして言語というものは究極的には私たち自身が発明することができず周囲から借り受けて使っているものであるからには、「本当に」内発的であるような欲望などというものは、それこそ幻想で、全くありえないものです。

しかし、それはそれとして、自分が振り出している欲望の表現に対して、それがどのような言語で振り出されているのか・どのようなメカニズムに基づいて振り出されているのか、ということを確認することは、極めて重要であるように思われます。

先程挙げた、「南の島」とか「高級外車」とか「不労所得」とかいうものでもなく、皆さんが今お持ちの、より具体的な夢や目標についても、一度は疑う必要があるということです。こうして疑う作業は、必ずしも今の目標を捨てるためではなく、精緻化し、具体化し、より効率的に進んでいくために有用でしょう(もっともこの場合には、それまでの夢を「忘れる」必要はありませんが)。


どんな欲望も、言語的表現である以上は他者の欲望であり、皆さん自身の純正な欲望であるということは絶対にありえません。

が、それはそれとして、こうして考えている私たちがより納得できる、納得できるということはそれに向けて具体的な方策を立てて邁進しうるような目標や夢というものを持つことが、できるのではないでしょうか。

そしてこの作業は、とりもなおさず、「そもそもそんな夢はなかった」というような、周囲からなんとなく持ち込まれた極めて浅薄な夢——南の島だとか、不労所得だとか、高級外車だとか、そういったものです——を忘れ去るということと、対応して現れることになるのではないでしょうか。

子供の頃に抱いた淡い夢を忘れるように、大人になってから皆さんが抱えるようになったかもしれない淡い夢を忘れましょう、ということですし、既にそんな淡い夢を忘れている人も、現在の夢や目標をより精緻にしてゆくためにこそ、疑ってゆく必要があるのではないかということです。