【150】身体(を取り巻くものども)に配慮しよう
私たちが割と普遍的に持っている資源を列挙するのはさして難しくありません。そのひとつはもちろん時間ですし、あるいは多寡は強弱はあれど、精神的なエネルギー
もそうでしょう。
そうした資源を、個人がどこまで支配できるのかはともかく、どのように配分していくかということが重要になってくるわけです。
同じように重要な資源として、身体というものは極めて重要です。少なくとも体を持たない人間はいないと考えてよいはずですし、もちろん身体的条件についてはそれぞれ大きな差があるとはいえ、重要です。
実在性に関する信念を問題にしなければ、身体が死ねば精神は死にます。遺憾なことです。少なくとも他の精神に働きかけてくることは、ある種のレトリックなしに想定しえないことです。
また、身体の調子は精神のそれにおおいに随伴します。身体の調子が悪ければたいていは精神も調子が悪くなりますし、身体の調子が良ければ精神の活動もおおいに捗るものでしょう。
世界にアクセスするにしても、精神だけでは無理でしょう。我々の精神は互いに結びつくために身体という媒介を必要とします。それ自体は極めて遺憾ですが、事実です。
この文章を読んでいる人であればおそらく大半は目を使って読んでいるのだと思われます。目を使わずに音声読み上げソフトなどを使って読む方もあるかもしれませんが、多くの場合には目を使っていらっしゃる。とまれ五感を通じして世界に関わっているわけです。
ですから身体に対する配慮というものは、身体が精神の道具に過ぎないとしても極めて重要ですし、あるいは身体は精神の基体であるからには、重要でないわけがないのです。
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そうした重要性に鑑みて、身体はトータルで配慮されることのそう多くない要素であるように思われます。
いや、運動不足はよくないとか、栄養バランスのとれた食事をとらなくてはならないとか、そういったことはみんなわかっていて、きっとやっているのですが、具体的にはどれくらい、自分の固有の文脈にあわせて身体に配慮していますか、という話です。
私たちはとかく——ビジネス書とか自己啓発とかで——時間管理ということをよく話題にします。あるいは横文字を使ってタイムマネジメントなどということもありますが、同じことです。そんな本を読んでれば、時間は希少な資源であるだからきちんと管理しなくてはならない、ということから始まって、心構えとか、具体的にとるべき施策とかが説明されるのです。
同じようにして言われるのが認知能力です。つまりの変なものに認知能力を取られるのは大きな喪失である、と。おかしなものを目に入れてしまって、それに対応しなくてはならないときに使われるのは、時間ばかりではありません。認知能力あれは精神的なエネルギーというものも非常に希少な資源であって、これも無駄にしないように管理しなくてはならない、ということはまあよく言われることです。誰も表立って反対するものではないでしょう。
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これに対して、重要であるにも関わらずしばしばさらっと流されがちなのは、私たちが身体に与えるべき配慮です。どんな職業についていても身体が最大の資本のひとつであるにも拘らず!
人によってはまったく無頓着です。本当に驚くのですが、テクストを扱うタイプの研究者も身体が資本であるにも拘らず——目と腰と手がいかれてしまえば研究は続けられません——、ディスプレイや椅子やキーボードやポインティングデヴァイスを慎重に選んでいる人は稀です。
もちろん、「まったく気にかけない」というのもそれはそれでひとつの選択ですが、ある仕事を継続的にやっていきたいのであれば、そのために身体をどうすればよいかということは、考えるほうがよいでしょう。
あるいは多少気にかけるにしても、しばしば行き当たりばったりに、ばらばらな知識を集めてきて対応する、というケースが多いかもしれません。各人の身体には共通する部分と相違する部分があるのですから、多少はそうした面が出てくるでしょう。
しかし、固有の文脈にあわせて、身体を守り、あるいは伸ばしてゆくための統一的な指針は、考えておくべきでしょう。
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私の例で言えば、文章を読んで書くということはおそらく今後もつづけることで、その観点から、「いつまでも読んでいられるように!」という指針を設定し、これに基づいて日常の行動の多くが決定されています。
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現代社会に生きている人間であれば、普通はかなり目を使います。それも人間の体が本来予定されていない仕方で、目を使いつづけることになります。
お分かりですね。皆さんはまずスマートフォンを非常に長い時間見ているはずです。皆さんはひょっとしたら1日100回、200回という単位でスマートフォンの画面をつけたり消したりしているのではないでしょうか。
決して大げさな推測ではないでしょう。私も昔は正常にスマートフォンを使っていましたが、ことあるごとにポチポチしていました。
これは注意力を削がれるという点でも大きな問題ですし、また、設定などによっては画面から出ている光がいかに目を傷つけているか、ということもまた重要になってくるかもしれません。そもそも近い距離にある光源を見ているわけですから、目によくはないでしょう。
まずこの点を解決するわけです。
はじめは、スマートフォンを捨てるという抜本的な対応を取りました。これはこれでよいことです。
後に、現代人としてはまずかろうと思いなおして1台買いましたが、外でわざわざポチポチしないように、回線の契約はしていません。それゆえ、せいぜい目覚まし時計・音楽プレーヤー・カメラ・諸々のものの見え方の確認のためのインターフェイスとしてしか使っていないことになります。自然、触れる機会はごくわずかです。効果のほどは知りませんが、フィルムも貼って、目に良くないという余計な光はカットしています。
スマートフォン以外でも、ディスプレイに向かう時間は減らしたく思っており、だからこそこの文章も含めnoteの文面はほぼ全て音声入力ですし、また目に負担の少ない電子ペーパーも積極的に導入しています。
……別に私のマネをする必要はありませんし、それほど偉いことをやっているわけでもありませんが、特に目をつかいつづけるタイプの仕事をされているかたは、スマートフォン(を初めとしたディスプレイ)にどのように向き合うか、身体を襲う光からいかに身を防ぐかということを、一度考えてみてもよいのではないでしょうか。
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夏特有の事例について見てみましょう。
日本では依然、真夏であってもサングラスをかけて外出する人が少なく、この間(といっても2年前ですが)一時帰国した折には驚かされました。
私はかれこれ7、8年前にサングラスを購入して以来、ずっと使いつづけていますが、もはやサングラスをかけずに出歩くということは難しくなっています。
外だけではなくて、コピー機を使うにしても、光がやたら鬱陶しいので、必ずサングラスをかけます(つまり真冬でもサングラスを持ち歩いています)。
これは慣れの問題なのかもしれず、また寧ろ目が弱っているということなのかもしれませんが、目は筋肉のように鍛えることができないからには、できる限りいたわるべきですし、これでよいのだと思っています。
文字の利用が記憶力を損なう、とするある種の哲学的信念がもはや(実践的には)お笑い草であるのと同じで、サングラスで目を守らないというのは、私からすれば考えられない事態です。
特に1日のうち1時間でも2時間でも出歩くことがあるという人は、サングラスを買うだけで随分疲れが減りますよ。
……などと私が請け合う必要はありませんが、試してみても良いものですし、少なくとも眩しさによる不快感は減少する、というくらいのことは保証したいなと思います。
もちろん、買うからにはそれなりの質のレンズを買うほうがよいはずですが、良いものを買ったところで、(よほど特殊なフレームを選ばなければ)トータルで10万円にも満たないのです。お得だと思いませんか。
もちろん、何に価値を感じるかということはもちろん人それぞれですから、数万円を高い出費だと思って永遠に夏の日差しを直に浴びるのか、あるいは数万円ぐらいならと思ってパッと買うのかは、個々人が決めるべきことではあります。
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夏の装いついでに、そして目を守るということにも関連させてもうひとつ言うのであれば、私は日傘を愛用しています。
片手がふさがるのはもちろん不便なところがありますが、日傘なしでどうやって夏の厳しい日差しを乗り切れ乗り切ればよいのでしょうか、という気持ちなのです。
日傘はサングラスなんかよりもずっと安いですし、もちろん遮光性という点からは高品質なものを選ぶ必要がありますが、それでも1万円から2万円ぐらいで買えるはずですし、とりわけ外に出かける機会があって、外に出かける時に片手でも開いているというのであれば、買わない選択肢はないかなと思われるのです。
もちろん個人の問題ですから、特に男性の方については、日傘を差すなんてのは笑い草であると思われるのであれば、差さなければ良いわけです。
あるいは現代ヨーロッパだと日傘を差す人は(性別を問わず)ごく稀ですし、好奇の目に晒される機会も多いのですが(話しかけてくる人とかもいますね)、そもそも外ではイヤフォンを耳につっこんでいるから人の声は聞こえませんし(聞こえないふりをしますし)、問題ありませんね。
仮に日傘を差しているくらいで意地悪く笑ってくる人がいるとすれば、私はそんな妙な関心を示してくる人間よりは、どうしたって付き合っていかなくてはならない自分の体の方を気遣ってみたいと思うのです。
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とりわけ目について、また季節柄のことについて、健康を気遣うための道具に言及してきましたが、健康を気遣うということはもちろん体の部位を問いませんし、問題になるのは目ばかりではありません。例を挙げればきりがありません。
腰を守るということで言えば、良い椅子は必須でしょう。座る時間を確実に短くすることは必要ですが、ゼロにできないなら、金をかけてでもよい環境にすべきです。1日のかなり長い時間を椅子に座っているような職業の人間であれば椅子に気を遣うのは当然です。スポーツ選手が日常の食事に気を遣うのとだいたい同じですね。
腱鞘炎を防ぐためには、キーボードもポインティングデヴァイスもきちんと選ぶ必要があります。
それに付随して、机をどうするかということも熱心に考えるのが当然のことでしょう。
いや、そんなことに限られないのです。
あるいは1日のうち少なくとも4分の1くらいは触れることになる寝具は? 衣服は? 冷房の温度は? 風呂のタイミングや長さは? あるいは日焼けが身体によくないなら、男女問わず帽子をしてアームカバーを身につけるべきでは? 運動は何をどれくらいの頻度で演るべきか? 食事の量と質は? 飲酒の頻度は?
……などという莫大な量の問いが、継続的に自分のやりたいことをやる(あるいはすべきと思えることをやる)という観点を強く持ったとき、そして身体的健康があらゆることがらのベースになりうるということに気づいたとき、泉のように湧き出してくるはずなのです。
そうした問いに適切に答えつづける努力をしなければ、将来にわたって大きな損害が生まれることになるはずですし、当座の仕事の効率にも大きな影響が出てくるのてはないでしょうか。
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皆さんは日々意識的に体というものを反省して、体というものを大切に扱っていますか。
日々がどれだけ忙しいとしても、体はあなたを逃してはくれないのですから、この夏、できれば今から、身体に対する、健康に対する配慮を巡らせてみてはいかがでしょうか。
特に何に配慮すべきか・配慮したいかを言語化し、配慮のために必要な道具を買い揃えて試行錯誤してみる。その中で、自分が求めている「健康」の姿を明晰にしていく。
そうしてゆくことは、じわじわと人生を上方修正していくための基礎の一つを構成するのではないかと思われるのです。
体を健康に保つということは、人生を捨てている人なら別ですが、これからとにもかくにも生きていくのであれば、すべての活動の前提になるのですから。