【138】前提を疑い、第三の道を見つける(武田綾乃『響け! ユーフォニアム』の冒頭近くの滝昇の姑息な問い)

フィクションに、現実に対して求めたくなるのと同じように高い倫理を求めるということは、的外れなことかもしれません。なぜなら、フィクションはそれぞれ固有の内的な法・規則を持つからです。

とはいえ私たちは、現実に身を置きながらフィクションを読むのですし、現実はフィクションに幾分似ているものですから(フィクションが現実に似ているのではありません)、フィクションに我が身を投影するまではいかなくても、フィクションを現実の尺度で測ろうとしてしまう、あるいは現実の基準をフィクションに持ち込もうとしてしまう、ということは珍しいことではありません。


この観点から言って思い出されるのは、アニメ化もされて、比較的有名になっている、武田綾乃『響け! ユーフォニアム』(宝島社、2013年)の第1巻です。話自体は、北宇治高校の吹奏楽部に入部した黄前久美子(おうまえ・くみこ)を主人公として展開されています。

久美子が入学すると同時に、吹奏楽部には新しい顧問の教師が就任していました。滝昇(たき・のぼる)というその教師は、1年間の部活動を始めるにあたって、まずは部全体の目標を設定することを求めます。

吹奏楽部では、久美子が入学する前年度には、コンクールで全国大会に出場するという目標が掲げられていました。滝はこの目標を黒板に書き出し、では今年の皆さんはどうするのか、と問います。

これに対して、部長の小笠原は次のように述べています。

いやあの、先生、(…)それは目標と言うかアレですよ。単なるスローガンというかなんというか……みんな本気で行こうと思っていたわけではなくて……(p.52)

この小笠原のセリフを聞いて、滝は「全国大会出場」という黒板に書かれた文字にバツをつけました。

こうしたパフォーマンスを経て、滝は「達成する気のない目標ほど無駄なものはありませんよ」と述べます(p.53)。

これ自体はよくわかるものです。目標を立てるからにはコミットしなくては意味がありません。   

とはいえ、滝の次のようなセリフは、読んでいた私に非常な違和感を感じさせるものでした。

私は目標を決めた以上、それに従って動きます。もしも皆さんが本気で全国に行きたいと思うならば当然練習を厳しくなりますし、反対に、出場して楽しい思い出を作るだけで充分だと思うなら、ハードな練習は必要ありません。私自身はどちらでもいいと考えていますので、自分たちの意思で決めてください(p.53)

私はこれを読んで、はっきりと申し上げて、嫌な気持ちになりました。というのは、大した理由もなしに、選択肢を二つに絞っているのですね。

目標を定めてそれに向かって練習する、というのは良いとして、「本気で全国に行く」という目標を据えるか、あるいは「コンクールに出場して楽しい思い出を作る」ことで十分だと思うか(つまり無目的にコンクールに出るか)という二択に絞っているわけです。

この二者択一には、いくつかの前提があります。

一つは、コンクールには絶対に出場する、という前提です。そもそもコンクールに参加するということは義務ではありませんから、吹奏楽部自体が行なっている定期演奏会や、その他のイベントでの最良の演奏を目指す、という可能性もあるわけです。

また、コンクールに参加するならば賞を目標に据えなくてはならない、という前提がなければ、こうした選択肢の立て方はありえないでしょう。コンクールを、賞など関係のない単なるひとつの演奏の機会と捉えて、そこに向けて「ハードな練習」を行って最善の演奏を行う、ということは可能な目標ではないでしょうか。

賞を取るために頑張るか・賞を取ることを目標しないか、という目標の二項対立(あるいは目標の存在と目標の非-存在の二項対立)には、練習の方針に関する対立が紐付けられています。つまり、賞をとりたいと思うということには厳しく練習をするということを紐付け、賞を取らなくてもいいという態度にはハードな練習が必要ない、という対応が紐付けられます。これもおかしな話です。

コンクールに参加するということは、先ほども申し上げた通り必須ではありませんから、コンクールを単にひとつの演奏の機会として捉えるのであれば、ハードな練習をしつつ賞の獲得を意識しない、ということはありうるわけです。もちろん、賞を目標にすることを私は否定するわけではありませんが、賞など関係なく、いわば垂直的な義務に殉じて音楽を行う、ということを言語化された目標としてすることだって可能なはずなのです。この差は見過ごしがたいものです。

というのに、顧問である滝は、「自分たちの意思で決めてください」と言いながら、こうした前提は部員たちの「意思」に委ねられません。その意味で、部員たちは予め選択権を奪われているのです。

しかも、問いの立て方によって、答えはあらかじめ決まっているのです。全国大会を目指すことが「本気」と結びつけられて積極的に認められていること、賞を意識しない態度は、思い出を作る「だけ」と否定的に解釈されていることを、確認しておきましょう。

さらに滝の問いは、小笠原によって次のように言い換えられ、より「答えの決まった」感じが強調されます。

どちらを今年の目標にするか、自分の希望に手を上げてください。全国大会に行くか、のんびり大会に出るだけで満足するか、です(p.55)

こんな問いかけをされたら、全国大会に行くというほうに手を挙げざるをえない。

そもそも私がコンクール制度というものにあまり大きな信頼を置いていないということは別にしても、これはあまりにも限定的な観点に基づいた、卑怯な問いかけであるようにも思われるのです。実質的には、「意思」など問題になっていないというわけです。

実際にそんな言語的策略に——意図の有無はともかく、用いられている策略に——主人公である久美子は気付いています。おそらく他の生徒にも、気付いている人は多いと思います。次のように地の文で述べられるとおりです。

小笠原の言葉に久美子は頬杖をついた。こういうとき、じつは何を選ぶべきかはすでに決まっているのだ。大人がいるなかで提示される選択肢、子供はそのなかでもっとも正しいものを選ばなくてはならない。世間的に正しいもの、社会的に正しいもの。それらは自然に淘汰され、各々の胸の中で選ぶべき答えは絞られる。(p.55)

事実、部の目標として多数決で決せられるのは全国大会出場というものであり、これに向けて、久美子の入学した北宇治高校の吹奏楽部は練習に励んでゆくことになるのです。詳しくは述べませんが、反対したのはひとりだけでした。

選択肢それ自体というものに罠がある、という観点は、もちろん久美子≒語り手も、作者である武田綾乃も持っているのでしょう。しかし、その選択肢自体に対するオルタナティブを久美子≒地の文は示していないので、この点をどこまで作者である武田が意識していたのかは不明確です。つまりコンクールに出ないという選択肢や、コンクールに出つつも別に賞を目指さず単に良い演奏を目指すという選択肢を、久美子や著者が意識していたかどうかは不明確です。

ともかく私は、この箇所を読んで、よくもまあこんな卑怯なパーソナリティを部の顧問に背負わせるものだな、と感心したものです。

なるほど、後の巻まで読めば、滝が亡き妻の遺志を継ぐかたちで、吹奏楽部を率いてコンクールにおける受賞を目指した(だからこそ高校生たちを罠にはめた)、ということはテクストから読み取ることができます。音楽に関して専門的教育を受けた人間の発想としてはそもそも一般的なものではないように思われる——滝昇は音大をでています——、ということを捨象すれば、受け入れてもよいでしょう。

とはいえ、教師がそれをやるのか、という強い反感を(フィクションとはわかっていても)覚えたものです。


とはいえ少し時を置いて読み返してみれば、こうした滝昇的な問いかけを、我々もしてはいないかということは気になりますし、実際気に留めておいて良いかな、と思われました。

本来提示しなくてもいい二者択一——三者でも四者でもよいですが——にとらわれてはいないか、本来持ち込む必要のない前提を持ち込んで自ら問いの範囲を狭めていないか、日頃から問うてみても良いということです。

前提というものは疑われないからこそ前提です。他者が持っている前提にはわりと気づくことがあるかもしれません。しかし、自分が持っている前提となると話は難しくなります。

例えば私を通っていた高校では、(浪人しようが何をしようが)大学に行く人がほぼ100%を占めていたので、大学に行かないという選択をするということは現実的な選択肢としてあがってきませんでした。せいぜい私たちが考えるのは、文理の選択であったり、あるいはどの大学どの学部にするかという選択でした。大学に進むことはある種の前提だったわけです。

あるいは、大学で2年3年と過ごしていくうちに、就職するしないとか、大学院に進学するしないとかいったことが可能性として出てくるわけですが、少なくとも私が観測していた範囲では、就職も進学もしないという人はいませんでした。たとえば起業するという選択肢を持っている人はそもそも私の周りにはいなかったということです。

あるいは、私の同級生はわりと職場にも慣れて一定の役職や重要なタスクを任されているケースが多いのですが、彼らもキャリアに当然悩んでいるわけです。そんな彼らの言葉遣いを見てみると、頭の中にある選択肢というのはせいぜい、がんばって働きつづけて上を目指すか、同業種間で転職するか、という程度のものでしかないことが極めて多いようです。

一般企業に勤めたことのない私のような人間が言うと「世間知らず」と思われるかもしれませんが、少なくとも「世間知らず」であるがゆえに、私はより広い選択肢を構想することができるわけです。

土俵を降りるということは、思考実験としては十分にあるわけです。選択肢を狭めているのはある一定の場に身を置いているからです。なので、まず降りてみる、たとえば会社を辞めることを少なくとも考えてみるのもよいでしょう。あるいは、別の業種に移るということを考えてみても良いでしょう。年収が下がるとか、そういうことはもちろんありえますが、そうした条件も込みで降りるという可能性だって絶対にある。なのに誰も考えようとしない。

あるいは人生を生きていくにあたって、彼らは職業・仕事という観点からしかものを見ていないわけです。そうした前提を持っているわけです。それはそれで、「仕事」ないしは雇用されて労働することで人生の大半を過ごすことに魅力を感じているのであれば良いはずです。

しかし、他にやりたいことをやるという観点とか、個人事業主になる(そしてゆくゆくは法人化する)とか、副業をやるとか、起業するとか、そうした観点はすっぽり抜け落ちているわけです。そういう意味で、選択肢が最初から限定されてしまっているわけです。

もちろん私がこんなことを言うのは、彼らの喜びも苦しみも家庭の事情も何も知らないからです。それは認めざるを得ませんし、認めるべきでしょう。しかし彼らが、自分の持っている認識上の前提をすっかり意識しているようには思われません。少なくともひとつかふたつくらいは、彼らには見えていない、しかし私が気づいている「前提」があるものでしょう。

逆もまた然り。私だってもちろん、自分の将来にせよ何にせよ、強固な前提を持っているからこそ限定された選択肢しか持っていない、というのも確かでしょう。周りから見れば、なんであいつは意味不明な二者択一で自縄自縛になっているのだと思われるかもしれません。

こうしたことは、万人に当てはまると言っても過言ではないでしょう。


つまり、そもそも何で自分がそんな選択肢を提示してしまっているのか、なんでそんな選択肢の中から選ぼうとしてしまっているのか、ということを、まるで考えることもない。こうした無自覚の前提というものが、自分の心に課されてはいないかということは、一度振り返ってみても良いと思われるのです。

先ほど引用してきた小説の部活の顧問の台詞という形で提示された、私から見れば無茶な二者択一は、非常に啓発的であるように思われるのです。 

もちろん作中では、部活は全国大会出場という目標に向けて邁進していくわけですし、この目標を含む二者択一がレレヴァントなかたちで問われるということはないのですが、私たちは、こんなであるとは言え、問うことができるわけです。

自分自身でいろいろな観点を仕入れてみたり、書いたり話したり他人に見てもらったり他人と話したりする中で、自分が持っている前提を疑う。「そもそも」どうなの、というところを見直してみる。或る種の困難は、こうしたが作業によって克服される面があるのではないでしょうか。


みなさんにとっても、他人事ではありません。

余計な二者択一というものに、縛られてはいないでしょうか。あるいは一定の前提を、無意識に据えてしまった前提を、一度は疑ってみてはいかがでしょうか。

そうすると、様々な選択肢の中で対立しているように見えたものが、実はしょぼい対立だった、ということに気づくかもしれません。

あるいは、実は両立可能なもの同士が対立しているように見えているだけだった、ということに気づくかもしれません。

もちろん、前提というものは問われないからこそ前提なのであり、この前提を沈思黙考して問うのは、難しいことでしょう。

誰かと話したり、自分で言葉を紡いだりする中で気づいていくものかもしれませんし、他者に指摘されて気づくのかもしれませんが、いずれにせよ、そうした罠があるということは想定しておく必要があるはずです。罠がある、という構造の方を理解しておかなくては、罠の方に気づく可能性は極めて低くなってしまうからです。

今回見たことはごく簡単で、悩まれたときにはその前提という罠を、「そもそも」を疑う必要があるということです。少なくとも、一般に「前提が間違っている可能性がある」と思っておかなくては、個別の場面において、見かけ上の矛盾や困難を克服するのが難しくなる場面もあるでしょう。

こうした気づき以前の気づき、応用すべき抽象論を念頭に置いておくことは、我ながら重要であるように思われます。