【29】拘束は最大の自由(cf.高橋弥七郎『灼眼のシャナ XXII』とトマス・アクィナス『霊的生命の完成について』)

人はひとつのことをまっすぐに望むことができない、ということにこそ、極めて多くの問題が根ざしているように思われます。

ある技能を手にしたいと思って教材を買ってみても、届くまでには気持ちが冷めていることがある。あるいは、やってみてもすぐにつまらなくなって、もっとちゃんとつづけていれば楽しくなっていくことが予想されるのに、放り出してしまう。
新しく趣味を開拓すると言うレベルの話であれば、別に大きな問題は生じないかもしれません。単に、精神的に挫折感が発生するだけです。

あるいは、若い頃から将来の夢を漠然と思い描いていた方もいらっしゃるかもしれません。
達成しましたか。
あるいは、達成するように全力を捧げていると言えますか。
胸を張ってそう言える人は、本当に凄いと思います。複数の意味で凄い。第一に、自らの夢や欲望に確信を持っている点で凄いでしょう。さらに言えば、やはり、願ったことをやりきった(やりきろうとしている)のは、凄い。
自分の夢や欲望に確信を持っていても、やりきることができないいということは本当に多い。もちろん欲望は表現の問題でもあって、その限りで、やり切らないということは欲望がそもそもなかったのだ、本気でなかったのだ、と言い切ってしまうことは不可能ではありませんが、残酷でしょう。やらなかったからと言って、彼女の/彼が自分の欲望に対して持っていた(再帰的な)確信が嘘だったと言うことはできない。
なんにせよ、自分はやりきることができなかった、という思いは、心にそれなりにダメージを与えるものになるでしょう。

もっと日常的にやっている仕事や勉強についても同じようなことが言えるかもしれません。

なるほど、企業の小さな小さな歯車のひとつとして働いているのであれば、ほとんど義務のように、機械的に働くことができるでしょう。やる気など出さなくて良いし、淡々とやるだけで、何も望むことなく生きていくことができるかもしれない。気を抜いて働いて、ひとつくらいミスをしても、大したことはないかもしれません。
しかし、幸か不幸か、自分で自分の人生のイニシアチブを握って行かなくてはいけない立場にある場合、そうも言っていられない。究極的にはすべての人間がそうではあるのですが、わかりやすい範囲で言えば、自営業者や、ほとんどひとりで作業が完結するタイプの物書きは、こうした類の人間だと言えるでしょう。
昨今で言えば、リモートワークになって、多かれ少なかれ同じ状況に放り込まれた人も多いかもしれません。職場であれば、ゆるやかな(ときに厳しい?)監視の目があるので、自動的に集中することができるのでしょう。しかし自宅だと、いくらテレビ電話をつけていたって、緩む。下手をすると、下半身が裸でもバレない(長年のリモートワークの中で、下半身裸とまではいかずとも、下半身パジャマでミーティングに参加したことは幾度かあります)。猫や子供が乱入するかもしれない。それは仕方ないことではあっても、つまるところ緩みが許容されてしまう。こうしてみると、緩んでしまうことは、仕事が本来嫌いだからと、いうことには還元できないと思われます。いくら好きな仕事で、やりたくてやっていると本人が確信しているとしても、環境が悪いなどの理由で、なかなかできない、腰が重い、ということはあるでしょう。(できないということは好きではないのだ、と言い切ることはもちろん可能ですが、この点に関する議論の無意味さについては上で触れた通りです。)

人間は放っておかれると、ひとつのことをまっすぐに望むことができない。行為のレベルで言えば、気が散って、集中したいものに対する集中を持続させることができない。理由はどうあれ、実態としてそうなのです。
ひとつのことをまっすぐに望むことができないということは、そのひとつのことの下に属する諸々のことにも真剣になれないということです。以って物事がナアナアになる。
本当にどうしようもない状況にならなければ、必死になることができない、ということが多い。そしてしばしば、そうしたどうしようもない状況になってしまったときには、既に手遅れなのです。

問題はもちろん、「ひとつのことをまっすぐ望むことができない」ことを人間の変えがたい本性と認めたうえで、どうするかということです。
自らの欲望を掘り起こしていって、自分が脇目も振らずに専念できるものが(仮にであっても)見つかれば、それは幸いでしょう。しかし、「専念できないということは、自分がやりたいことではないのだ」と言うシンプルで分かりやすい言葉には、何の意味もありません。なぜなら、自分が脇目も振らずに専念できるものなど、本当にあるかどうかわからないからです。あるいは、順調に進めていってある程度の段階にならなければ、専念したいという心的態勢など発生しないようにも思われるからです。
であれば、専念すべきとさしあたり思われること、専念したいとさしあたり思われるものに——繰り返しますが、欲望の表現はどこまでいっても「さしあたり」のものでしかないはずです――、必要とあらば専念できる、そうした環境を整えておくべきではないでしょうか。つまり、大切なことを願い実践するよう自らを拘束する、自らの自由を制限する環境を作るべきだということです。

物理的な環境で言えば、ある時間にはインターネットの回線を全て落とすとか、スマホを捨てるとか、ゲームを全て土中に埋めるとか、ブラウザの拡張機能を使ってYouTubeやTwitterに時間制限をかけるとか、そういったことが考えられるでしょう。つまり気をそらす要素を隔離する。
人と会う時間を必ず設けるとか、あるいは各々勝手に勉強を行う会を行うのも有効でしょう。人と会うというかたちでの拘束は、とても強いものです。人だっている間は少なくとも気を抜かずに済みますし、人が近くにいるとなれば、その相手が特に尊敬に値する人であれば、立派であろうとすることでしょう。つまり、決して怠けたりはしない。
自己啓発めいていて好きではありませんが、目標を紙に書いて貼るのも、人によってはあっているかもしれません。目と心を拘束する手段にはなるでしょう。
実のところ、例えば大学受験の時に予備校に行くのがあって、そうした面があると言えるでしょう。大学なんて、多くの場合、落ちても死ぬわけではありません。しかし、一定時間教室に閉じ込められて、周りの連中がどうにもこうにも勉強に邁進しているとなれば、自分もやはり邁進してみないと落ち着かない。予備校のスタッフと面談して、励まされたり、叱咤激励を受けたりすれば、家に帰っても何となく体が机に向かう。……

拘束というと、その言葉そのものに対して極めて強い抵抗を示す人もいるかもしれません。一体日本人に限らず、自由の概念について何らその歴史も内容も知らないのに、漠然と不決定であることを「自由」とみなし、その自由を至上の価値と感じる人が多いのです。もちろん、何かをする可能性もしない可能性も持っているという状態は、非常に好ましいものかもしれませんし、何かをしないという決断をとれることこそが自分の能力を開示すると言うことはできます。しかし、ごく世俗的なレヴェルで、不決定のままでいることが常に明るい未来につながるかどうかはわかりません。なるほど、刹那的に生きる自由も勿論あるでしょう。それが愚かだとは思いません。反省の末の決断だとすればそれは実に尊いものだと思います。しかし、刹那的に生きることや、強いて暗い未来を受け入れることをよしとしないなら、ダラダラするきっかけになるものを戦略的に抹消する、という決断を下す自由、自らに拘束を課す自由を行使した方が良いのではないかと思われるのです。
そして、重要な場面・根っこにあたる部分のみでそうしていても効果が薄いから、日常の所作のひとつひとつに対して拘束を設けていく必要があるのです。

こうした拘束は、いったい不自由でしょうか。
日常の細部に至るまで、生活を拘束し行動しようとする試みは、自らを投獄するような試みなのでしょうか。
私はそうは思いません。
寧ろそうした拘束が、我が身を豊かな未来へと確実に結び合わせている(と信じられる)のであれば、その拘束は寧ろ最大の自由ではないか、と思われるのです。
しかもその拘束は、自分で課したものです。自分で決めたルールで自分を縛ること、ときには破ってしまうかもしれないけれども、そのルールを守り抜こうとすること、これほどの精神的自由が果たしてあるのでしょうか。



今回の内容を産む際に触媒として機能した書物のひとつが、タイトルにも挙げたふたつの
テクストです。これらのテクストに触れて終わりにしたいと思います。

ある少女——名を吉田一美といいます——は、魔神(のようなもの)からマジック・アイテムを受け取っていました。少女は、そのアイテムが、自らの「存在の力」つまり命を犠牲にして魔神を呼び出すためのものだ、という説明を受けます。
一美は物語のクライマックスで、自分自身の何にもならない願いを叶えるために、魔神を呼び出しました。自分が愛する少年と、自分の親友であり恋敵である少女が、互いにどうしようもなく愛しあっているというのに、激しく火花を散らして、お互いの理想の世界を作るために激しく戦っている、そうした状況をひっかき回すために、何の能力も持たない自分が唯一できること、それが、強大な力を持つ魔神を呼び出すことでした。
しかし、少女は死ぬことがありません。実のところ、魔神を呼び出すために命を捧げる必要はなかったのです。死を覚悟させるのは、人間の煩雑すぎる精神がせめてひとつのことを念じられるようにする——このことで、魔神を呼び寄せる「自在法」(極めて大雑把に言えば、魔法みたいなものです)を使うことができる——ためだった、と言うのです。魔神は一美が死ななかった理由を、次のように説明します。

この「ヒラルダ」は、人間に自在法を使わせるため生み出された宝具。起動条件は、使用者の“存在の力”ではない。そんなものは、予め宝具に込めておける。必要なのは、命を捨てることなどより逢かに困難な——“徒”(注:魔神やその眷属を指すと思ってください)と同じように自在法を使う——というもの(…)人間の意思総体は、私たち“徒” にとって呼吸同然な自在法を使うには、良くも悪くも煩雑すぎて——真っ直ぐに念じる——‚ただそれだけのことができない。だから普通、これを託すときは、自らの存在という雑念最大の根源を払うため、命が代償、と伝えられる(高橋弥七郎『灼眼のシャナ XXII』電撃文庫、2011年、pp.22-23)

死というのはみずからを抹消することであり、それは存在者にとっては根源的な喪失であるといえるでしょう。であるから、命がかかっていてこそ、人間の心はひとつの方向を持つことになる。みずからの存在を抹消してでも叶えたい何かがあるときにこそ、思念がどこまでも真っ直ぐなものになり、魔神を呼びよせることができるようになる、というのです。

…………………

もうひとつのテクストは、ドミニコ会士であるトマス・アクィナス(c.1225-1274)が、托鉢修道会の地位を弁護するために残したものです。
13世紀初頭に成立した托鉢修道会は、トマスの時代には、教皇の認可を受けていたとは言え、依然理論的な支えが少なく、しばしば苛烈な攻撃にあっていました。新興の勢力であるだけに、既存の人びとからの反発が強かったのです。これはもちろん権力闘争でしたが、テクストを繁茂させその解釈を争う、思想史のスリリングな一幕でした。

そんな中で書かれた作品のひとつが、『霊的生命の完成について』です。1世紀にわたり続いた論争の中でも、トマスのこの著作は極めて特異な地位を得ています。その特異さについて書くだけで30000字は必要になるので避けますが、とまれトマスの主張の核を損なわずに言うなら、修道士と司教に、単なる司祭や単なる信徒や単なる聖職者と異なる特別な身分(status)が割り当てられるのは、神への愛と隣人愛とを実践することを誓うからです。つまり2つの愛の掟、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟に従うことを誓うからです。この掟を守ると誓うことで得られる地位が、完成への準備としての、「完成の身分」でした。完成の身分においては、愛の実践に加えて、必須ではないものの有効な、完成への道(via)としていくつかのことが、誓われます。則ち財産・性的関係・自由な意志です。

修道士と司教はこうして、2つの掟という、或る種外的な言葉にして固定化された唯一の意思決定基準に、自らの生命すべてを永遠に従わせ、現世においては隣人の救済のためにすべてを賭けることを誓う。誓いは拘束にほかならないもので、それゆえ『霊的生命の完成について』にはobligareという動詞も、名詞obligatioも頻出です。司教や修道士は拘束のうちに、報いを求めるかどうかはともかく、霊的な完成への準備を見て、その拘束に則って愛を実践する――かんたんに言えば、ときに生命を賭して信徒の霊魂を健康に保ち、救済に導く――ことで、完成されるのです。

我々にとっては重要なことに、特に司教の聖別は「荘厳な(solemne)」ものでなくてはならないとされます(19章、23章、25章)し、荘厳さはそもそも「拘束する力(vis obligandi)」をもたせるために必要で、修道誓願においても望まれます(『命題集註解』第4巻第38区分第1問第2項第2小問第2、第4異論解答)。この「荘厳さ」の概念は、実のところ西洋でもあまり研究の進んでいない対象なので、深入りできませんが、ともかく誓いをたてるときには、「荘厳さ」によって付与される「拘束する力」が必要であって、自分ひとりの心の中で誓うとだけでは足りない、とされます。

結局のところ修道士や司教の場合であれば、拘束そのものの目的は教会全体の善ということになるはずですが、或る種の任務への誓願が、拘束力を持つために「荘厳さ」を必要とする、ということは、極めて啓発的な発想であるように思われます。実際トマスは、修道誓願や司教聖別といった或る種神的な場面とは異なる、世俗的場面にも言及します。曰く、

人間の契約において、契約がより強固なものとなるように、人間の法に則ってある荘厳さが付与されるのと同じく、何らかの荘厳さと祝福とともに、高位聖職者の身分が受け取られ、修道士の信仰告白が祝われるのである。(トマス・アクィナス『霊的生命の完成について』第19章)

ここから自由に変奏することが許されるなら、私たちの個人的な誓い、私たちの個人的な望みというものもまた、何らかのかたちで(狭い範囲であっても)公表したり、あるいは少なくとも(内心でうねうね回すだけでなく)言葉に落とすことで、「拘束する力」を持つのではないか、という主張をたてても良いはずですし、この主張はかなりの程度正しいといえるのではないでしょうか。もちろんそれは個人的であるが故に、いきなり公表してしまう事は難しいことも多いでしょう。しかしちょっと書いた通り、少なくとも言葉に落としたりすることで、こう言ってよければ、あなたの誓いは「荘厳さ」を持つのではないでしょうか。

(しかし、修道士に関する一次文献がほとんど日本語に訳されていないということには驚きを禁じえません。トマスの『霊的生命の完成について』くらいは訳す人があってしかるべきでしょうが、背景を成す論争の複雑さゆえに手を出さないだけの誠実さが保たれているということなのでしょうか)。


………………

私たちの場合は、彼らとは事情が異なります。
私たちは、吉田一美ほど決定的な状況に置かれることは(ふつうは)ありません。
私たちは、どうしようもない信仰に駆られて修道士になる誓願を立てたり、司教位にまで上り詰めたりすることは(ふつうは)ありません。
しかし、そうした或る種極限的な環境に置かれていなくても、どうにかしてひとつのことを望み、ひとつのことに向かって邁進することが戦略的に必要になる。というのは、そうしなければそもそも生きていけない可能性があるし、のんのんと生きていけるとしても、そうした生き方はしたくなかったりする。あるいは流されて生きているとジリ貧である。しかし、何かに邁進したいと思ってはいても、雑念が多すぎて集中できない。ならば、生存戦略の一環として、そもそもひとつのことを望み、ひとつのことに向かって邁進できるように自分を拘束するのがよいのではないでしょうか。具体的な方策は勿論個人の状況に依存しますが、例えば物理的な手段をとるのであれ、人を巻き込む(陰に陽に監視を依頼する)のであれ、手段はそこかしこに、きっと転がっているのです。