【106】「異端」なき時代?
「異端」という言葉があります。お聞きになったことはあるでしょう。
この「異端」という言葉はもちろん、宗教的な文脈で主に使われる言葉ですが、それが転用されて、学問の世界や、ビジネスの場面で使われることがあると言えるでしょう。
「異端」というと、「突飛なことをやっている連中」 「外れ者」のような漠たる印象を受けるかもしれません。
とはいえ、これで満足せず、「異端」なる語の来歴を振り返ってみると、単純な知的興味が満たされる ばかりでなく、様々なイメージが得られて、そこから私たちの行動に対して何らかの示唆が得られるようでもあります。
異端という言葉が扱われるのは、ふつうはキリスト教神学の場面です。キリスト教神学において不信仰・不信心のありかたを区分する際に、いくつかその形態が挙げられますが、そのうちの一つが「異端」というものです。
それ自体あやうい区別で、歴史的にッ見ても一定しているわけではないとはいえ、トマス・アクィナスが『神学大全』第2の2部第10問題第6項で示している不信仰の段階区分は、わりとわかりやすいものかもしれません。
そもそも一神教を信じていないのが異民族(paganus)です。ギリシャ-ローマ以来の多神教を奉じるなど、聖書文化圏にない人々が、概ねこう呼ばれます。「異教徒」とも訳されます。
旧約聖書に対する信仰があるけれども、福音(イエスの教え)を全く受け入れていない者、これを異教徒(gentilis)と言います(だからこそ上出のpaganusとは訳語を分けたというなりゆきです)。
ユダヤ人の宗教に対しては、また別の地位が与えられています。どういうことかといえば、ユダヤ教はなるほど旧約聖書をベースとした信仰を持ち、しかし福音信仰を受け入れていません。とはいえ、旧約において福音の比喩的形象を受け取ってはいる、とされます。 その比喩的形象をうまく理解していないだけなのです。この点で、「異教徒」よりは福音に接近している、ということになります。
以上がキリスト教からみた不信仰の形態であるとすると、(当時から見て)普通のキリスト教を特徴づけるのは、新約聖書の福音、つまりイエスの直接的な教えを信じているかという点です。
では、異端と(普通の)正統な信仰を区別するものは何なのでしょうか。
異端者もキリストを、福音を信じている。そうした限定的意味においては、正統と同じく「キリスト教」と言える。ユダヤ人などよりは、異端は正統なキリスト教に近い。しかし異端者は、その範囲において、正統と異なる学説を選択している。正統とみなされていないある種の学説に固執している。そうした形態での不信仰が、異端と呼ばれるのです。
こうした、正統でないものへの固執という観点は、実に語のなかにあらわれているものです。異端という語はラテン語だとhaeresisで、これはギリシャ語のほぼ同じ音の語からきています。このhaeresisという言葉は、つかむ、掴み取る、選択する、ということを意味しています。
どういうことかと言えば、異端というのは第一義的には、単に宗教的に誤っている、ずれている、突飛である、ということではないのです。あるいは、それ以上を含意します。一定のベースは共有しているのに、伝統に支えられた教会の権威が与える正統な教えを聞き入れずに、ある学説・ある見解を自分の考えと意志にもとづいて選び取り、それにしがみついて、自らの誤りを修正しようとしない。その説に固執している態勢が「異端」として説明されます。
異端者は福音を信じるという点において正統な信仰と通じているものの、どこか決定的な点で正統な信仰から隔てられており、この一点で罪だとされるのです。
(haeresisという単語からは、勘のいい方であれば、例えばadhesionなどの英語を連想するかもしれされるかもしれません。adhesionは接着であり、粘着であり、こだわり、くっついていることを意味する語であって、adは方向を示す接頭辞ですから、-hesionに「しがみつく」意味があるということは容易に推測されるとおりです。)
■
言い換えるなら、異端とは、単に「誤っている」「ずれている」ことではありません。誤っているということでいえば、そもそも福音を受け入れていないユダヤ人とか、あるいはキリストをあらわす比喩的形象に着目しない異教徒とか、一神教信仰を受け入れていない異民族とかのほうが、程度は甚だしいと言えるかもしれません。
異端は或る種の誤りとして想定されるにせよ、簡単にまとめるなら、
1.ある程度は正しい対象(福音)を信じていて、
2.しかし決定的に重要な点で正統からずれたものを選び取りそれに固執する(「ずれ」のありかたは異端によって様々)、
という、或る意味では微妙な態度です。
もっと簡単に・粗雑に言うなら、異端者というのは、大筋では合っているけれども最後の最後でめちゃくちゃ間違っている人、といえるでしょう。
キリストの福音が、正統と異端の共通の信仰の対象ないしは根拠になるでしょう。正統だろうが異端だろうが、キリストに対する・福音に対する信仰はある。その対象に対する、こう言ってよければ具体的な考えに応じて、異端であるか正統であるかが決まる、という次第です。
その具体的態度というのも、簡単ではない場合がよくある。というよりも、(聖書に照らして)簡単に正しいか間違っているかを判定できる内容であれば、 聖書を信じている者の間で見解が異なってくるわけがない、ということは容易にご理解いただけることでしょう。 異端は困難な・微妙な問いの周辺に、或る種権威的な介入があって(つまり純粋な理屈によらない、「正統」な決断に応じて)生じるものです。
たとえば、初期の異端の代表的な姿は、アタナシウス派が示す三位一体論に一致しない論者、ということになりますが、これは神学的に極めて高度な議論に関係します。三位一体というのは、(ざっくり言うのも難しいのですが)父なる神、子なる神(≒キリスト)、聖霊という3つの「位格(persona)」がみっつでひとつだということです。(3つの)位格がどのように分節され、どのように一致するかについては、極めて繊細で難解な議論が展開されます。こうした複雑な議論は即座に受け入れられるものではなく、イエスが持っていた人としての性質と神としての性質の関係(あるいは関係の無さ)などの主題とともに、伝統的な一個のトポスを形成し、異端なるものが出来する重要な苗床になりました。
こうした議論には各時代の神学者があらゆる手を尽くして取り組んできましたが、どうしたって難しい。それぞれにそれぞれの言い分があり、熱心に読んで考えている人にさえよくわからないところがある。いわゆる三位一体論はなるほど正統の地位を得ているけれども、そこまで知的な議論に慣れていない多くの信徒はこの点にかけては、異端信仰に傾きうるものです。権威による承認がないところからフリーハンドで考えていれば、当然そうなる。
このようにあるベースを受け入れたうえで生じる、極めて難解であるはずの諸点に関する見解の差異が正統と異端を分けている、と言うことは、少なくとも事態の一面において正しいと考えられます。
■
もちろんこれはキリスト教神学上の見方ですし、語源などに遡って見るとしても必ずしも正しい・万能なことばの使い方が照らし出されるわけではありませんが、少なくとも現実の語用とは異なる(かもしれない)イメージを喚起する、という点で一定の価値があるものです。
より実用的な、ないしは日常的な場面に、やはり気儘に・恣意的に帰ってみるならば、そもそも(伝統的意味での)「異端」が発生しうるほどに同質性を希求する(「正統」を求める)、しかしきわめて豊穣な(≒不分明な)土壌があるのか、と問わずにはいられないでしょう。そもそも「正統」であるか否かが特に争われない、「正統」であることが求められないところにあって、「異端」がありうるのか、ということです。
なるほど、日本においても、マルクス主義に影響されて生じた20世紀の諸政治団体の成立と分裂の過程を素人ながらに追いかけてみると、なるほど、一定の均質性を持った集団の内部における主張の差に応じて、「異端」が分かれていったり、袋叩きにあったり、といった事件が見られるようです。「異端」と呼ばれうるかどうかは別にして、どういった主張を掴み取るか・どういった方針を選択するかに応じて、自分を正統と信じ、相手を異端と看做す、という営みがありえたようです。
しかしこれは、かなり例外的な事態であるようにも思われます。
内心の自由が公的に認められた社会に育ち、多様性や寛容に対するひらかれた心を概ねよく身につけた私たちにとり、いったい正統か異端かを争いうる場面は、そう多くないように思われます。相手を異教徒として遇する、つまり殆ど何も共有しない相手として敵視し排除することはありうるにせよ、ベースを明確に共有したうえで態度の差異を問題にすることは、多くないように思われる、ということです。「それもいいよね」で済んでしまう。あるいは全く別の相手だと思って、それで済んでしまう。譲れない憧れは自分だけのものでよい、というわけです。
なるほど、何歳ぐらいまでに結婚して何歳ぐらいまでに子供を産んで云々、という家族計画の類は、弱くなりつつも依然「正統な」信仰の一部を成しているかもしれません。大企業に一生勤め上げるとか、強い資格を手札に安定した生き方をするというモデルも、揺らぎつつあるとはいえ、ある程度「正統」な信仰としての地位を保っていると言えるでしょう。
しかし、異端でないような価値観を、現代において私たちは強烈に信じているでしょうか。なんとなく受け入れて、なんとなくそれに従っている、ということはおおいにあるかもしれません。しかし強烈に信じている、強烈に意識を向けている、という人はごく少ないはずです。無意識の強固なパラダイム、あるいは呪縛、を構成しているという例もあるかもしれませんが、多くの場合には、もっとふんわりとした考えしか持っていない。疑ってみようと思えばたやすく疑うことができる。何より、実際に行うことが必ずしも容易ではない・全員が達成するということが現実的でないからには、「正統」な信念となることは難しい。
いつ結婚して子供を産んで云々といった未来像があるとして、それに本当に強くしがみついている人というのはなかなかいないように思われるのです。 大体の青写真を描いてはいても、柔軟に現実に合わせて対応してゆく、というのがふつうではないでしょうか。寧ろ現代にあって、そうした家族を実現するために本気で血道をあげていたら、それはそれで奇妙なオーラを放つようにも思われる。大企業モデルにもそういうところがある。
■
私たちはかなり多くのものを選び取ることができる。なんとなく「正統」はあるけれど、誰かが権威を持って、どれが「正統」であると断言してくれるわけでもない。 これこれこういったことを選び取ると「異端」だ、と責められるわけでもない。
そう思う時に、「異端」なる語の元にある、「選択」ないしは固着の観念を瞥見することは、時宜を得ないわけではないように思われます。うっすらと正しいと思われていてなんとなく受け入れられがちな見解や、うっすらとダメ出しされがちな見解しかないときにあって、そうした不分明な状況に抗して選択するという所作そのものが、まさに選択であるという意味において「異端」的振る舞いといえるのではないか、と思われるのです。異端の概念は、脱宗教家された瞬間に、正統と変わらぬ地位を持ちます。「可能な立場のひとつ」と言うわけです。そのうちのひとつを選び取って強く胸のうちに抱くとすれば、語のもともとの意味においてhaeresisが成立する、というなりゆきです。
さてこのように考えてみると、「異端」もなかなか悪いわけではありません。正統のない、あるいは、あるとしても希薄で、尺度としての機能を満たさない時代には、何かを信じて、何かにこだわるということそれ自体が、そもそも稀で、異様である可能性はあります。
果断に富むこと、何かを信じ抜くことこそが、「異端」でありうる、と思えるなら、その意味においては異端でありたいものです。
異端であれ、とは言わずまでも、そもそもはっきりとした「正統」がかたちをうしないつつあるこの世界において、少なくとも様々なもののうちのひとつを自由に選びとることができるからには、仮置きでいいから何かを信じ、譲れないあこがれを抱いて、強烈にしがみついて生きていくような姿勢を、自らのために作り上げていきたいものだと思われます。