【139】自己紹介をする器物が語らないもの

保育園や幼稚園や小学校に通っていた時分に、あるいはそれ以降においても、自分の持ち物に名前を書くということは皆さんも良くされていたことと思います。社会人として活動していても、そうするということは特段珍しいことでも、恥ずかしいことでも何でもありません。

ものに名前を書いて所有者を明示するという慣習は文字の一つの重要な機能でもあって、初期の文字が開発されて間もない古代ギリシャの遺跡から出土した器物にも、多く人の名前が書かれています。所有者が誰であるか、あるいはそれを作ったのが誰であるか、ということが示されていることがしばしばだということです。

先日買った本——A.Schnapp-Gourbeillon, Aux origines de la Grèce, Paris, Les Belles Lettres, 2020の、特に第5章——を読んでいて面白かったのは、器物の所有者を示すために名前を書く際、単に名前をポンと書くのではなく、「〜のもの」というかたちで書くことがしばしばだった、ということです。

少し専門的に言えば、主格でなく属格で所有者を示すことがあったということです。英語で言うと、単に名前を書くのではなく、所有格ないしはof〜というかたちで書いた、ということです。例を出すなら、ある酒杯がプトレマイオスのものであることを示す場合には、「プトレマイオス」という名詞の属格形「プトレマイオイ」を酒杯に刻むことがあった、ということです。

これだけなら「ふ〜ん」で済むかもしれません。例えば冷蔵庫に入れてあるプリンを家族に食べられないようにするために、自分の名前だけを書くということもあれば、「〇〇のもの」などと書くこともあるでしょう。

しかしさらに面白いのは、このような属格による所有者明示のヴァリエーションとして、器物に自己紹介をさせるかたちで、器物の表面に「私は〇〇のものである」という銘を刻むことがあった、ということです。しかもそれが珍しくなかったというのです。(ギリシャ語で言えば、「私は〜である」というeimiという動詞が用いられていたのです。)

いわば擬人化された器物に自己紹介をさせる、というかたちで所有者を示すというのは私にはない発想だったので、実に面白く感じられました。

ギリシャ史はまったく専門ではありませんが、素人として覗き見るのは、古い時代のことであればあるほど、意外なことが多く、面白いものです。


さて、人間が自己紹介をしているのであれば別に気づかなかったのですが、器物が自己紹介をしているとなれば、いくつか考えが喚起されるところです。

所有者の名前が入るのはもちろん、問題となる器物が多くの場合は飲み会や葬儀で使われ、もとの持ち主が不明確になる可能性のある物だからであって、そうした場面での混乱を避けるためにこそ行われていた慣習であるという推測は付けられています(これは私の推測ではなくて、問題となる書籍で示されているものです)。

考古学の観点から言えば、名前が刻まれているというだけでも大きなことでしょうし、この事実から最大限多くのことを読み取るべきでしょう。

が、門外漢から見ると、所有者以外にも、本来は示すべき、知りたい情報が多数あるように思われるのです。もっと「自己紹介」してくれよ、と思われるのも人情というものです。語られていないものが多すぎないか、と思われてしまうわけです。

どういうことかといえば、器や酒杯であれば、持ち主以上に、作った人のことであるとか(これは刻まれることがあります)、あるいは作られた窯であるとか、作った年代であるとか、作られた事情であるとか、どこの山から土を持ってきて作ったのか、ということが示されていれば(単に持ち主の名前が示されているだけの場合よりももっと)嬉しいよね、ということです。


もちろん、これは後世の人間の関心でしかないわけです。器物が作られたときには、所有者や製作者以外のを示す必要がなかったから示されなかった。それだけのことです。

抽象化するなら、あるものが持つ属性は文脈に応じて明らかにされるのであって、ある一つの文脈において明らかになっている属性は全てではない、ということです。「文脈」は「時と場合」くらいに言ってもよいかもしれません。


器物ばかりではありません。私たちも実に、所属や肩書きや職業や他の人間との関係性によって自己紹介をするのですし、あるひとつの場面において、それら全てを開示することはないでしょう。

もちろん、全く問題ありません。自分が持つ際立った諸点を場合に応じて取捨選択し、「自分」に結びつけて紹介すればよい、という了解は、実に人付き合いをラクにします。他人が自分との接点を見つけるためには、特定の要素をポンポンと出すのが、ラクでしょう。人間関係の円滑化のためには、断片化された情報を小出しにするかたちで自己紹介を行うということは、ほとんど必須になるというわけです。場所や相手によって、情報を取捨選択して提示する必要がある。自己紹介とはそういうものだということです。


この態度が持ちうる避けがたい欠点としては、それ以上のものがある可能性が、一旦は遮断されてしまう、ということでしょう。

私はこれこれこういう企業に勤めていて、これこれこういう肩書きで、職業としてはこれこれこういうものだと言えて、これこれこういう人間関係を持っています……と言ったところで、自己紹介においては示されない人間関係もあるのですし、肩書きをひとつかふたつ提示したところで、あなたは他の場所で他の肩書きを持っているはずですし、所属というのはお金をくれる場所のことだけではないはずです。円滑な自己紹介の背景には、語られていないものが多くあるということです。


自己紹介というのは、言語によって自分を規定することであって、自分の心の中で自分をどう規定するかということも畢竟言語によるのですから、注意しなくてはならない面があるように思われます。

どういうことかといえば、ある他人に見せるための自分を描く言葉が、自分が確かにもっているはずの他の側面を侵食し、その言葉で自分が良くも悪くも塗り潰される可能性がある、ということです。


他人に対し自分の限定された像を見せるのは別に問題がなく、後に見るように有益でさえあるのですが、限定された自分の姿を見せつづけていることから生じる一つの害として、自分にとってさえ自分の限定的な側面しか見えなくなってしまう、ということがあるのではないか、と思われます。

「自分のことは自分が一番よくわかっている」というのは、或る意味では真理ですが、或る意味では行き過ぎた妄想であって、嘘です。自分のことだって言語化しないと分からないのですし、言語化したって捉えきれないからこそ難しい面がある、ということです。

とはいえ私たちは、自分で自分のことを知っていると思い込みがちで、だからあまり言語化しないのですね。

やったことのある人ならわかる通り、なんであれ言語化していく中で初めてわかることも多いというのに、「自分」という不分明なテクストについて、誠実に(≒残酷なものも醜いものも、うまく物語にはまりこまないものも含めて)言語化する努力を積み上げる人は、あまり多くない。

すると、対外的な自分、自己に関する限られた記述が自己の全てになりかねず、ともするとそちらに引っ張られて、流され、全てを侵食されてしまう。

いくら欲望が全て他者の欲望であるとはいっても、わかってやっているのと、わからずにやっているのとでは、予後は変わってくるでしょう。

他者に紹介すべき自分とは異なる面についても一定の言語による記述を積み重ねていかなければ、何の基準点もなく、錨もなく、波間にさらわれてしまうおそれがある、ということです。そのような作業を通じなければ、自分が(謂わば他者のために)展開している言葉の方に絡め取られて、ときには自分が望まないかたちで、自分のありようを規定されてしまうということです。

であれば、言語を繁茂させる言葉を反応させて自分を他人に紹介する時には表に出さないかもしれないけれども、自分の重要な側面であるような事柄を言葉を反応させることによって記述しつづけることが、必須になるのではないでしょうか。


もちろん、自己紹介というものが避けがたく断片的であるということを意識している限りにおいては、そうした断片的な性質を寧ろ良い方向に利用することもできるでしょう。

自分はこういう存在ですと言い張って(ときにはウソやブラフを混ぜながら)、なにかの間違いでそう認められてゆくことで、実際に望み通りの存在になってゆける、というのは、わりとわかりやすい事情です。「心理学」の用語を権威付けのために無節操に用いることを私は好みませんが、単にわかりやすさのために申し上げれば、ピュグマリオン効果を意図的に生むことができるということです。

人は他人から天才だと言われつづれば天才として振舞うようになり、天才になるのですから、その前段階として、他人に天才だと言われつづけるような状況を作ることはでき、そのためにこそ戦略的な「自己紹介」を行うことはできる、ということです。


強調したいのは、ある種の自己紹介が取り逃すものが極めて多いということ、そうしてことがらの一側面のみをとらえた自己紹介はときに自らに牙をむくということ、しかし反対に、「自己紹介」がつねに断片的なものにすぎないことを踏まえて戦略的に用いることができるなら、それはよいことですね、ということです。

私たちは器物とは違い、自らの運命をある程度左右することができるのですし、自分について言語を繁茂させ、以って認識を深めることもできます。

ですから、時と場合に応じて適切に「自己紹介」も行うにしても、そのプロセスは様々なものの繁茂する土壌を利用した戦略的なプロセスにしたいものですし、ある場面において語られなかったことも(あるいは語らないと決めたものも)、一定程度は頭の片隅に置いておきたいものです。