【45】自らの感情を選択しよう(トマス・アクィナスの感情論の一部)

私はタバコやギャンブルをやりませんが、
酒が身近にあるとすぐに飲み干してしまって大変なことになります。それほど深刻なものではないにせよ、お菓子の類も、手元にあるとすぐに食べ尽くしてしまいます。こうなると、胃がもたれたり、歯を磨いても何となく口が気持ち悪かったりする。
とまあ、こんな悪癖を持っています。

ですが、意外に、そうした品物を身近におかなければ、問題は生じにくいのです。

スーパーに行ったり、街に出たりすると、「ちょっと飲みたいな」とか、「ちょっとこのお菓子食べたいな」と思うこともあるのですが、そうしたものを見ないように動いていれば、ほとんど欲求は湧かない。

目にしてしまうとしても、自分で処分可能なものと、そうでないものの場合は、欲求の持たれ方が変わってくる。
スーパーの棚に並んでいる酒を例え見てしまっても、自分の家にあって好き勝手に開けて飲める酒があるのとはまた事情が異なっている。
お菓子も同じで、ショウウインドウ越しに眺めている場合と、家にあって手に取れる場合では、随分変わってくる。
金を払う手間、持ち運ぶ手間があるかどうかは大きいもので、欲求の対象となりうるものがあっても、それが置かれている場に応じて、生じてくる欲求は随分変わってくる。

抽象化するなら、あるものに対して現実的な欲求が湧いてくるためには、対象が一定程度利用可能なものとして認識される必要があるというわけです。

スーパーなどだと私的な買い物リストがあって、たいていそれに沿って品物を放り込んでいけば買い物かごがパンパンになりますから、酒やお菓子というものは直接的には欲求の対象にはなりにくい。
もちろん、自分の買物袋に入れてそのままレジを通せば、もちろん手元にある利用可能なものに、即ち消費の対象になってしまうわけで、自分の欲求には歯止めが効かず(笑)、食べ尽くす・飲み尽くすことになるのですが、そうしなければ特に問題は生じない。
つまり、買い物のノルマというものお酒やお菓子が入ってこないように、大量に設定しておくことで、いらぬ欲が起きないように事前に予防できるわけです。

あるいは、目下の状況に合わせて今は買い物のために外に出るようなことはなく、全て通販で配送させているわけですが、その時も、カートに酒やお菓子を突っ込むことさえなければ———もちろんヴァーチャルなカートです——、大した欲求も湧かずに済む。
もちろんこちらは、買い物袋とは違って容量の制限が実質的にはありませんから、危険と言えば危険ですが、画面上だと臨場感が薄く、さして欲もわかない。

菓子や酒というものが感覚によって捉えられる範囲にない場合には、記憶に従って欲求が生じるわけです。
とはいえ、記憶に従って生じる欲求というものはごく弱いわけですね。
記憶というものは、言ってしまえば現実の影のようなものであって、現実的な感覚と比べれば、それほどヴィヴィッドに欲求を喚起するわけではない。ですから、より強く現実的な菓子と結びつく菓子屋の看板や、あるいは、現実的な酒と結びつく酒屋の看板・酒屋に吊るされているビールのメーカーの看板などを見るほうが、(少なくとも私にとっては)よほどこの欲求を喚起する力が強いというわけです。

さてここまででぼんやりと見てきたものは、つまりどういうことかと言えば、私たちの感情ないしは感覚的な欲求の運動というものは、もちろん感覚的認識に由来する、あるいは広く言えば認識に由来するということです。

つまり何を見るかによって何を感じるかあるいは・どういう感情を持つかということは左右されますし、そしてこの帰結として言えそうなのが、「何を見るか」という部分を操作することで、自分の欲求、ないしは感覚的欲求としての感情というものは一定程度操作可能だ、ということです。


別の例を挙げてみるのであれば、例えば目下の疫病の流行に対して、いたずらに不安を覚えたくなかったり、いたずらに浮ついた気持ちになりたくないのであれば、信頼のおける情報以外は全てシャットアウトすれば良いのです。

テレビやインターネットを見れば、何の背景も持たない素人が、ある日はひとつの意見を、またある日はまた別の意見を——しかも感情的に——言い立てている。Twitterのハッシュタグなどは最悪で、この機に注視を集めようという底意が透けて見えるようなアカウントもある。

そんなものを見ていたら、気分が悪くなる。
こちらの感情が無事で済むはずがないのです。
ということは、パフォーマンスも確実に落ちる。

先程の言い方に合わせて言い換えるならば、そんな変なものを認識していたら、自分の中にもまた、負の感情がどんどん生まれていくわけです

認識の方を遮断することで——認識というのは別にパラダイムというような意味ではなくて——、感情も遮断することができるということです。私たちは、少なくともいちど認識されたものしか欲することはできませんし、そうしていちど認識されていても記憶の中にぼんやりと残っている像を欲しつづけることは難しいのです。

とにかく見る対象をいじる・設定することで、自分がある感情に身を任せるか任せないかという決定も、事前にある程度自分で下すことができる、というわけです。


もちろん、特に違法な薬物やアルコールの類(先ほどはアルコールの例を挙げていたわけですが)は、私たちの脳の器質的な部分に著しい変化を与えかねないものですし、その部分については私はよく存じません。そうしたものについては、上に示したような姑息な方策は聞きにくいのかもしれない。私は医療の専門家ではないから、この点については申し上げる立場にありません。

しかし、極めて日常的な範囲で言えば、何を認識するかを選択することで感情の方を操作するということは、十分に可能ですし、そのような態度をとるかどうかということは、実践上の大きな差異に繋がってくるのではないかと考えられるのです。


もう少し理論的なところに脇道として入っていくのであれば、これはまさにトマス・アクィナスが挙げた、理性的な選択と判断が感情に先立つ、という理想的な事態の一例として適切ではないかと思われるのです。
(参考例:トマス・アクィナス『命題集註解』第3巻、第15区分、第2問題第2項、小問題1主文。『神学大全』第3部、第15問題、第4項主文)

トマス・アクィナスは、理性と(感覚的欲求能力の運動としての)感情の関係について、幾度かその著作の中で言及しています。
彼の中で一貫している発想は、感情によって理性的な判断が揺るがされる・曇らされるのは例外なく悪いことだが、理性によってある感情を選び取ってその感情に身を晒すことは倫理的な善さに繋がることがある、というものです。
つまり、理性的によい感情をつかみとっていれば、特定の行動をとる際に、より迅速に行動できる場合があるから、そうした感情は善いものでありうる、ということです。

善い行動はそれだけでも十分かもしれないけれど、さらに理性的に選択された感情が加わると、たとえばより迅速に行動することができるかもしれない。そうした場合には、この感情は行為の善さを増大させる、と言われるのです。

トマスの採用した、ある程度単純な図式(を私がいっそう単純化したもの)を受け入れる必要は必ずしもありませんが、これは実践的なレベルにある感情と理性との関係について極めて明快な視座を与えるようでもあるのです。

私たちの日常の判断というものは、例えば目で見たものなどに、そうした感覚的認識に基づく感情に、当然影響されて、曇らされます。寧ろそうした場合が多いことでしょう。

しかし逆に、理性的な判断を元にして、例えば目に入れるものを調整することで、感情のほうを変化させることもできる。
そして、感情と言うもののがわを変化させることができるとすれば、それは例えばある行動を迅速に取ることができるようになるとか、あるものをより素早く避けることができるとか、そういったかたちで善い行動につなげることができるというわけです。

目に入るものをただ受け入れて、それに心を動かされ受動的な態度をとるがままでいるのは——受動的(passivus)というのは即ち感情(passio)に振り回されるということですが——もちろん良くない。
けれども、例えば目に入れるものを選ぶというかたちで、私たちはどのような感情に身を晒すかということを選択することができるのです。


そしてこの、能動的に認識対象を選択して、その結果として生じる感情を選別する方策は、抽象的な話をする時に部分的に既に述べてしまっていますが、何か良くない事態や感情を避けるためだけに採用されうるものではありません。つまり、理性によって感情を選び取るということは、今置かれている状態をより良くするためにも取りうる態度なのです。

例えば高校生が、もっとより高いレヴェルの勉強をしたいとか、より優れた人たちと一緒に研究したいと言うのであれば、大学に行くという選択をとることが考えられるでしょう。あるいはもっと素朴に、いい大学に行かないと将来が危ないから行っておくか、と思うかもしれない。

そうした時にはもちろん、理性的に判断して粛々と頑張っても良いのですが、なんだかやる気がわかないとか、身が入らないということがある。大学に行きたいことは行きたいけれど、何故か身が入らないということはある。

そうした場合の方策として、例えば、
合格体験記を読むとか、
オープンキャンパスに行くとか、
そうでなくても大学のキャンパスを見に行くとか、
あるいはその大学に通っている先輩に会って話を聞くとか、
学校のみならず高い志を持ったレヴェルの高い予備校に通ってみるとか、
することが考えられるはずです。

こうした行動の果実は、きっとまさにこの点、つまり「身を入れる」ことに存するのではないでしょうか。

もちろんそういった場所や機会において、良い教え、理性的な良い戦術というものを教えてもらえることもあるでしょう。
過去問はいつから解き始めたとかいう経験談、この大学はこのタイプの設問を出しがちだから対策をしておかねばならないという知識とか、あるいは場所によっては、良い仲間・友人も得られるかもしれない。
しかし、オープンキャンパスで得られる知識などというものは、それ自体は実のところ大したことがありません。大学の教員の研究の成果を聞いたって、高校生がそれをきちんと理解できることは稀でしょうし、理解できたとしたって、すぐに活かすことができることはまずない。

だからこそ、寧ろ、自分の感情を揺さぶることができることにこそ、そうした機会の果実が期待されるのではないでしょうか。臨場感のある体験談に触れれば感情が湧き立つ。よくわからなくても何か気持ちが燃えるような研究があることを知れば、勉強をする気になるかもしれない。抽象化するなら、自分の感情を奮起させて、その感情でもって、さしあたって善い行為であるところの勉強を、より迅速に・より集中して行うことができるようになるかもしれない。

こういったかたちで、理性によって目に入るものを選び、そうして特定の感情が生じることを狙う、そうした、理性の選択に基づいて特定の感情に身を晒すということが、十分に可能なのです。


今は大学受験の例を出しましたが、別にどんな例でも構いません。
起業だろうが株式投資だろうが、なんでもいいわけです。

どんなことであるにせよ、たいていのことをやってモノにするには、教えられる知識だけでは足りませんし、結局のところ自分で勉強したり自分で実践してみたりという、或る種孤独なプロセスは絶対に必要になる。しかもかなりの量、必要になる。その際にネックになる最も大きなものは、たとえば面倒臭さや無力感ですが、これを克服するためには結局のところ、より強い感情が必要です。

たとえば、ドイツ語会話を身につけたいという漠然とした願いがある場合には、これはこれでもちろん欲求の運動であり、感情かもしれません。そして、より迅速に・より集中して・より効率的にドイツ語を学びたいという思いがある場合には、しかるべき感情に身を晒す、しかるべき感情が発生するような環境を自分の理性でもって判断し、そして選択していくということが可能ですし、必要でしょう

ドイツ語学校に通ってみるとか、短期休暇を利用してドイツ語圏の語学学校に行って現地で教育を受けてみるとか、あるいは新しい教材を買うとか、そうした小さなことでも良いのかもしれません。いろいろ方法はあります。

こうした選択はもちろん、良い教材(内容)を得る・良い教育を受けに行くという極めて平板な理性的選択であるのはもちろんのこと、そこには同時に、しかるべき場所に身を置いて、新たな刺激に身を晒して、そこで感情が(良い方向に)揺さぶられることを期待する、という意味合いもあると考えられるのです。

語学学習なんてものは、よほど暇な場合は別ですが、ふつうは退屈でやめたくなる。その割に長い時間がかかるし、力がついているかどうかも分かりにくい場合がある。よくわかっている人ほど、単語テストや熟語テストでは深いレヴェルの能力を測り切れないことを知っているから、どうしても霧の中を進むような感覚に襲われる。

それでもやりたいなら、勉強自体が楽しくなるということもちろん大切ですが、「勉強のプロセス自体はそこまで楽しくないけれども、どうしても身に付けたい」、というアンビヴァレントな気持ちを持つ人も確実にいるのです。

そうした人が、確実にドイツ語学習へと自らの身を縛り付けるには、やはり環境を選びつまり自らが味わうべき感情を選択することが必要になってくるのではないでしょうか。

これもまた、理性によって目に入るものを選び、そこで何らかの感情が賦活されることに期待する方策のひとつの使い方だと言えるでしょう。


以上に見てきたのは、おかしなこと・突飛なことではありません。

抽象的な概念で言い直すと周りと持って回ったような言い方になりますし、実際トマス・アクィナスの議論というものは、(特に問題となっている箇所においては)基本的に現実的な具体例を持たず、複雑ではないにせよどこか空論めいている。
感情と理性の関係について述べている箇所は、しかし、以上のような具体例をフックにして見ることが許されるなら、私たちの実践においても非常に示唆するところがあるように思われるのです。
そして、具体例は抽象化された文言のもとに捉えなおされて初めて教訓として生きるのであってみれば、その意味でトマスのテクストはおおいに実践的な意味を持ちます。
(そして英米のトマスの感情論に関する研究では、純粋に歴史的な研究というより、刑法学等の持つヨリ現実的な関心にひきつけたものもわりと多く出ています。)

もう一度最後に言い直すのであれば、
私たちは認識に落ちてくるものを選択することで感情ないしは感覚的欲求というものを変更することができる。もちろん医療的な問題に直接的に関わってくる場合については私は知りませんし責任も持ちませんが、少なくとも日常の卑近なレベルではきっとそうである。

この発想はたとえば、避けなければならないものを避けたいものを避けるというかたちでも、もちろん使える。つまり、
酒を飲みすぎてはいけないからそもそもスーパーのお酒の棚に近寄らないとか、
お菓子を食べすぎてはいけないからそもそも菓子屋のある道を通らないとか、
そうした「避けると」いうかたちで、感情が喚起されないように振舞う、という選択を行うことができる。

そして同時に、ある感情が生じることを積極的に期待し、特定の場に身を投じたり特定のものに触れたりすることも、十分に出来る。
つまり理性によって、意識的かつ戦略的に特定の感情を捨てたり選んだりすることは、間接的な形であるにせよ、できるということなのです。

ご存じの通り、感情というものは非常に強力で、自分の今後の活動を良い方向にも、もちろん悪い方向にも賦活しうるものです。
だからこそ、適切に自分の感情を引き起こすような場や、認識対象(目に入るもの)を選ぶという基本方針は、我々の生活全般において大きな意味を持つのではないかと思われるのです。