【142】一目惚れ幻想に別れを告げ、惚れるための努力をする(スタンダール『恋愛論』から離れて)

自分が何かに、誰かに一目惚れをするとか、あるいはされるとかいう幻想をお持ちの方は、それほど多くないでしょう。私がどうか、ということについて述べる必要はないので述べませんが、とんでもないイケメンに一目惚れをして幸せな恋をするとか、あるいはどうしようもないぐらいの美女に胸を打たれてアプローチをかけるなどといったことは、あまり現実的なことではないでしょう。実のとところ、そんなことを本気で求めている人は少ないのではないでしょうか。

もちろん全くありえないことではないにせよ、外見とか、あるいはほんのわずか性格が発露するようなきっかけが、いわゆる——「いわゆる」とつけますが——恋愛感情のようなものに即座に結びついて燃え上がる、ということは珍しいように思われます。

実際には、何となくいいなと思ったり、あるいはそんな気持ちもないままに交友が深まって、その中で関係や感情が徐々に生成し変質していくというのが、一般的なルートでしょう。


スタンダールの『恋愛論』が思い出され、かつ疑義に付されます。

同作は、恋愛論の一個の古典として知られているものの、情念(passion)としての、つまり心理の内部で展開される愛ないしは恋心に重きを置いているがゆえに、ある種の愛が持つ社会関係の中で構成されていくものとしての側面を、おそらくは戦力的に、ないしは時代や分野の制約ゆえに避けがたく排除している、と見ることもできるでしょう。

彼に先立つ(特にデュクロ『クレーヴの奥方』のような)ある時期の心理小説を参照しつつ、寧ろある種の典拠としつつ行われる心理分析としては面白いものの、そこまで現実的なものではないようにも思われる、ということです。

(私たちが今生きている、社会という)現実に照らして言えば、「なんとなくいいな」と思うとか、あるいは全く何とも思っていない状態からスタートして、徐々に徐々に関係が醸成されてゆくものです。

その中では、スタンダールがこだわったような、愛が生まれる瞬間(詳しい方のために言えば、スタンダールが提示する7段階のうちの第4段階です)などというものは、なかなか見定め難いものだと思われます。愛が生まれたというそのときには、愛が生まれたことを識ることなどできはしないでしょう。

はっきりと相手に希望を抱く瞬間(第3段階)もないでしょう。希望というのは、これこれこういった快楽を相手が与えてくれるだろうとかいう希望のことですが、そうしたものを抱く瞬間というのは、明確な・言語化されたかたちでは訪れないでしょう。

(寧ろこの両者は、第5段階と第7段階にある、いっそうリアルな「結晶化」のプロセスの周辺にある論理的な項として想定されているのかもしれません。)

なんとなくいいなと思う瞬間、というのももちろん、あるいは過去のことについて逆算したからこそ現れる分析的なものです。

愛(の前身)が兆す瞬間を突き止める(ないしは捏造する)ことは、分析を行う者の分析への欲望を満たすという点にしか意味を持たないようにも思われる、ということです。


小難しい話をしましたが、抽象化するなら、一目惚れをして、あるいはほんの僅かなきっかけで一気に強度の高い(現代的な意味で「愛」と名指しうる)感情が生じる、ということはあまり現実的な説明ではないように思われる、ということです。

寧ろ対象と関わっていく中で、徐々に相手を好きになったり、あるいは嫌いになったり、尊敬の念を強くしたりするのですし、この「徐々に」深まっていくというプロセスを無視してはいけないように思われるのです。

言い換えるならば、ある種の一目惚れ幻想にとらわれる人、あるいは一目惚れを描いた無数のフィクションないしは神話というものは、なんとなくいいなと思う瞬間と、一意専心・強い感情をもって相手にコミットしている状態との間に何があるかということをあまり考えず、その両者を縫い合わせてしまっているように思われるのです。

もちろんこれは悪いことではありませんし、フィクション上の、あるいは一個のパラダイムにおけるギミックとしては当然ありうるものです。

とはいえ私たちは避けがたく現実に生きてしまっていますから、この間の隔たりを無視してはならないでしょう。つまり感情が兆したばかりの、あるいは感情がそもそも何も生じていない段階から、対象に対して極めて強くコミットしている状態というものが、時間的・論理的ななラグなしに生じ得ると思ってはいけない。

その間には、対象・相手との関係を少しずつ深めていくという、漸次的な(おそそらくは長い長い)プロセスがある場合がほとんどだ、ということをはっきりと知っておく必要があるように思われるのです。


もちろん恋愛について言えば——恋愛は具体例にすぎません、念の為——、これはどこまでいっても人生のほんの一部ですから、どんな幻想を持っていてもよいでしょう。

恋愛において、「白馬の王子様」幻想を持ち続けるのはもちろん結構なことですし、いつか一目惚れできる相手が目の前に現れる、見た瞬間に激越な恋に堕ちることができる相手が現れる、と思ってももちろん良いでしょう。

心ごとすべて投げ出してしまえるような、母であり姉であり女神であるような女性がいつか現れる、という幻想を抱いていても別に良いでしょう。

本当に現れるかもしれませんし、現れないとしても、別にその幻想は人を不幸にしないかもしれませんから、良いのです。

運命のみならず、自分の能力の側についても、「自分はある種の対象が現れさえすれば一気に感情を傾けることができるのだ」という幻想、つまり「私には一目惚れをする能力があるのだ」という幻想を持つのも、大いに結構なことでしょう。他人に押し付けるのでもなければ、誰も困らないからです。結構なことです。


とはいえ、他の領域、あるいは生きていくという状況一般においては、自分が一目惚れできる相手や対象がいつか現れるという幻想や、然るべき相手や対象が現れさえすれば自分は即座に全精力をかけて取り組むことができる、などという淡い幻想には、さしあたって別れを告げた方が良いように思われるのです。

例えば安藤忠雄のように、木造長屋の改築作業を見て一瞬で建築の世界に引き込まれたというような人は、まあもちろんいるかもしれません。これはもちろん彼の自分語りであって、フィクションであるにせよ、ある種の一目惚れ体験かもしれません。

しかし、私たちが誰しもそんな一目惚れ体験をできるわけではない、と思っておいたほうが良いということです。

これはなかなかに悲壮な覚悟です。

というのは、好きになるために努力をしなくてはいけない、という観念を自然に生じさせるものだからです。

とはいえこれは、皆さんの多くが現実世界の「恋愛」で、規範通りにやっていることです。相手に対していきなりフルコミットできるわけではありませんし、普通はそうしません。寧ろ徐々に距離を詰めながら、じわじわと相手に対して心を傾ける量を増やしていくのでしょう。

人生の中でやっている仕事とか、あるいは夢や目標といったものについても、同じことが言えるのではないかということです。

たとえば、学者になりたいという奇特な夢を持ちはじめた人がいるとして、初めのうちはその夢というものは固まっていないし、さほどの熱意もないのです。安定しない、ふわふわとした気持ちでしょう。なんとなくいいなと思って、勉強をはじめるくらいでしょう。その段階では、めちゃくちゃ好きだ、ということにはなっていない、ということです。つまり、一目惚れをするには至っていないというわけです。もちろん一目惚れをする人もいるかもしれませんが、多くは違うでしょう。

しかし勉強していく中で、徐々に抜け出せなくなってゆく。徐々に、心理的な関係が深くなっていって、抜け出せなくなってゆく。この、徐々に抜け出せなくなっていく過程を経ずに何かに身を捧げるということは、なかなか難しいように思われるということです。

絵を描くということにしたって、プロの絵描きが皆、描きはじめた頃からめちゃくちゃな熱意を持っていたのか、全身全霊を捧げていたのかと言われると、どうもそうは思えない節があります。

なんとなく小さい頃からずっと絵を描いていて、その頃は激越な惚れ込みはないのに、気づいたら一意専心して頑張っていた、というケースの方が圧倒的に多いように思われるのです。

であれば、(永遠に若いとはいえ)ある程度年を重ねた私たちが何か新しい事業をはじめようというときには、初めから全精力を傾けられる、とは思わない方がよいように思われるのですね。

これはつまり、即座に全精力を傾けられる対象を見つけるまで待つ、というのを辞めて、なんとなくいいなと思われた対象に、多少辛くてもどんどん意図的にコミットしつづけるということが必要になるのではないか、ということです。

そうしたプロセスを経ていかなければ、全精力を傾けられる状態に至ることはなかなか難しい、というのが現実的な判断であるように思われるということです。

もちろん一目惚れをして、今すぐに〇〇に全精力を傾けたい、ということになれば、それをやれば良いのです。それはそれで幸せなことでしょう。惚れっぽい人は幸せです。

しかし、一目惚れできる対象が現れるまで悠長に待っている必要はありませんし、悠長に待っていたら、きっと何もできないという人の方が大半なのですね。

であれば、なんとなくいいなと思われたものに対して、今すぐ全精力を傾ける気にはならないのだとしても、つまり、雷に打たれるようにして一目惚れすることができないのだとしても、惚れてゆくための努力を行ってみることが必要になるのではないでしょうか。

きっとそうすることで、広がる世界というものもあると思われるのです。きちんと惚れることができれば御の字ですが、もちろん結局のところそりが合わなくてお別れをするということであっても、よいでしょう。その経験の中でも沢山のことを学べるでしょう。

何かにいきなり惚れ込むことができればよいけれども、なかなかそういうわけにはいかないから、なんとなくいいなと思われたものには、意図的にリソースを割いて、接触回数を増やしたり、深く付き合ってみたりすることが必要になるのではないか、ということです。

自分が一目惚れをする能力を持つという幻想を捨て、いつか一目惚れできる輝かしい対象や(王子様のような、麗しい姫のような)相手がでてくるという幻想を捨て、なんとなくいいっぽいと思われたものとか、好きになったほうがよいものについては、寧ろ積極的に関与してみる、つまり惚れ込む努力をするのもよいのではないか、ということです。


人であれ、事業であれ、夢であれ、仕事であれ、一目惚れすることができればよいけれども、現実的にはなかなか一目惚れすることはできない。

一目惚れできたら、ある意味ではラクですよね。もちろん、惚れっぽい人にはそれなりの苦しみはあるのでしょうが、惚れられれば、後は方針を立てて突っ込んでいくだけなのですから。

しかし、惚れっぽくないのであれば、それはもう仕方ないから、戦略的に惚れにいくことが必要な場面もでてくるでしょう。

なんとなく良いなと思われた対象に対して、あるいは惚れたほうがいい相手に対しては、多少の抵抗はあるかもしれないけれども、意図的に触れる時間を増やしていくという作業が必要になるのではないかということです。

そうする中で、本当に惚れ込んでゆくということがあるかもしれませんし、お別れをするということもあるかもしれませんが、いずれにせよ自分が一瞬で惚れ込むことのできる対象が現れるのを最初から待っている、というのは、そもそもそんなものが本当にあるのかどうかもわからず、あなたにそんな能力があるかどうかもわからないからには、得策ではないと思われるということです。

——本当にワンフレーズでまとめるのであれば、一目惚れ幻想にさしあたって別れを告げて、惚れるための努力をすることは大切でしょう、ということでした。