河口俊彦『大山康晴の晩節』(ちくま文庫)解説

以下の文章は、2013年12月にちくま文庫から再刊された河口俊彦『大山康晴の晩節』の解説である。ウェブに掲載するにあたり、刊行後に気づいた間違いを一か所訂正している。

解説を引き受けた経緯などについては刊行当時に書かれたブログエントリを参照いただきたい。

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 先日実家に帰省した折、自室の書棚に残る棋書を久しぶりに眺める機会があった。心酔していた米長邦雄を中心に、中原誠や内藤國雄などの本が並ぶが、実はその中で私がもっとも読み込んだ本は、大家による戦法書ではなく、本書の著者河口俊彦の『プロ将棋ワンポイント講座』(力富書房)だった。

 それらの棋書を買ったのは主に私が中学生だった頃で、それは私がもっとも真剣に将棋に打ち込んだ時期でもある。結局はプロ棋士はおろかアマ強豪にもなれなかったが、当時は同級生をはじめ身の回りに相手になる人がいなくなり、自分がどの程度やれるのか知りたくて地元の将棋道場に通った。今年(二〇一三年)第二十六回アマ竜王戦で優勝を果たした(当時高校生の)伊ヶ崎博さんにも何番か稽古をつけてもらったのは良い思い出だが、将棋の強いおじさんたちに天狗の鼻をへし折られるまで時間はかからなかった。

 しかし、その将棋道場で個人的に大きな出会いがあった。道場に置いてあった将棋雑誌に連載されていた「対局日誌」を通じ、河口俊彦の文章に触れたことである。

 上位から下位まで棋士たちが一斉に戦う様を同じプロ棋士の目線で追いながら、対局者のちょっとした所作から感情の変化を読み取り、控室における検討陣の遠慮のない形勢判断を交え横断的に解説することで、深夜に及ぶ対局の興奮と勝負の酷薄さを時にドキリとさせる筆致で描くその文章に私は魅せられた。対局に現れるのは棋士たちの思考のごく一部、言うなれば氷山の一角であり、指されなかった読み筋のせめぎあいにこそプロ将棋の面白さがあることを教えてくれたのも河口俊彦だった。

『プロ将棋ワンポイント講座』は私が初めて買った氏の著書で、昭和六十一年一月一日号から昭和六十二年二月二十八日号までの「週刊現代」の連載をまとめたものだが、本書『大山康晴の晩節』の第一章の冒頭に書かれる昭和六十年度のA級順位戦、プレーオフを経て大山康晴が十二年ぶりに名人戦挑戦者となり、一方で奇跡のプレーオフ進出を果たしながらそれに敗れた米長邦雄はタイトルをすべて失い、「花の五十五年組」が棋界を席巻するも、羽生善治が四段となりデビュー早々にテレビ棋戦で谷川浩司や米長を破るなど天才ぶりを示し、先輩らを追い抜くことを示唆するあたりまでをカバーしている。

 私自身は高校に入ると将棋道場から足が遠のき、実戦からすっかり遠ざかってしまうが(当然ながら当時はインターネット将棋サービスなど存在しない)、A級からC2級にいたる順位戦のヒエラルキーや仲間うちの格付けがその棋士総体の評価につながる唯格論が支配する将棋界を、河口俊彦の文章を中心に追い続けた。梅田望夫の表現を借りれば「指さない将棋ファン」だったわけだが、私だけでなく少なからぬ昭和からの将棋ファンは、将棋の指し手は会話であり、人間に対する洞察力と人生経験の厚みが将棋の強さにつながるとみる「河口史観」を通して将棋界に接してきたのである。

 そして、その史観の中心には大山康晴十五世名人がいたように思う。彼こそ人間の総合力で勝負に勝つ見本だったからだ。私がプロ将棋を知った時点で既にタイトル保持者ではなかったが、日本将棋連盟の会長にして将棋界全体の家長であった。

 その不世出の名人の評伝である本書は、著者による大山康晴論の集大成であるとともに、「河口史観」の集大成ともいえる。

 前述の通り、本書の第一章は大山が下行結腸癌による休場から復帰した昭和六十年度のA級順位戦から始まる。かつて熱心に読み込んだ『プロ将棋ワンポイント講座』を思い出し懐かしい気持ちになったが、私がリアルタイムに知る大山将棋は、その「晩節」だけなのにも思い当たった。

 大山康晴という人は、記録だけを見れば将棋に勝つために生まれてきたように見えるが、人生に節なくただ勝ち続けただけの人ではない。何より大山が凄かったのは、逆境における強さがある。対升田幸三戦をはじめとして、その全盛期において大山は悪役視されていた。当人もそれを知りながら、その空気を逆用して平然と勝つことで、やがては対局に際し誰も逆らえないような威圧感を発するまでになる。

 たまに升田が大山に勝つと、作家の五味康祐など取り巻きが対局室にかけつけ、「こんな将棋、中盤で終わってる」と感想戦に水を差して升田を宴席に連れ出す。人一倍プライドが強い大山は、はらわたが煮えくりかえる思いだったはずだが、表情を変えずその終わってると言われた場面を並べ、記録係に声をかける。しかし、記録係も気持ちは宴席のほうに向いており、生返事をするだけだった――「こういうところで河口三段の将来は落ちこぼれと決った」と著者は断じる。大山と盤を挟んで一時間でも研究する気持ちがあれば、もうすこしましな棋士人生になっていただろう、と。河口俊彦の著書において何度か描かれてきた状景は、まさに当時の河口青年の実体験だったのだ。大天才の将棋が当人も意識しないところで周りに刻印を与えることの恐ろしさと、それを刻まれる側の哀切には心打たれるものがある。

 そして、升田との勝負づけが済んだ後は、山田道美(本書を読めば、彼の将棋に対するイメージが大きく変わるはずだ)、加藤一二三、二上達也など第一人者の地位を脅かす可能性のある新鋭が登場すれば、ときにいたぶるようにして徹底して叩きのめし、また盤外においても相手を軽んじるそぶりを見せつけ、この人には敵わないという拭いがたいコンプレックスを植えつける。大山康晴にとって将棋界全体が盤上のようなものであり、その日常すべてが将棋で勝つことに直結していたのだ。

 本書において著者が強調するのは、名人位を失った後、とうに全盛期を過ぎたはずの五十代に大山がまったく成績を下げなかったことである。そして東京将棋会館建設の尽力を認められ連盟会長となり、名人戦の移籍問題を経て棋士たちの大きな信頼を獲得し、棋士として下り坂どころか新たな黄金期を迎える。

 それは升田大山に続いて一時代を築き、将棋史において歴代十傑に入るほどの大天才である中原誠と米長邦雄さえも五十代に入ると気持ちよく勝てなくなり、A級の地位を守れなかったことと比較するとどれだけ大変なことか分かる。

 穿った見方だが、これは谷川浩司や羽生善治などこれからその年代を迎える大天才たちに対する叱咤激励にも思える。私自身同時代人である羽生善治こそ史上最強の棋士だと思いたいし、また「将棋は技術あるのみで、人生経験など関係ない」とする五十五年組とそれに続く羽生世代は、「河口史観」を部分的に否定したと考えている。

 しかし、円熟期以降人間の総合力で勝ち続けた大山将棋の強靭さを、著者はその反証と見ているのではないか。チャイルドブランドと言われた羽生世代も四十代に入り、名人位経験者である佐藤康光や丸山忠久さえもA級から陥落したのをみると、デビュー以来ただ勝ち続けてきたように見える羽生世代の天才たちにとっても、本書に書かれる「男の厄年」は無縁でなかったのが分かる。

 大山康晴はいかにして規格外の勝負の鬼となったのか。著者はその原点を出征直前の対局にみる。出征のはなむけに昇段させてもよいところを大山は断り、残る四番を全勝して実力で昇段しようとした。出征兵士には気持ちよく負けてやるのが当時の常識であり、そうでなくても実力を考えれば四連勝してしかるべきだったが、現実には一番敗れ、大山は六段のまま出征している。

 この敗戦により大山の人生観は変わり、勝負における冷酷さと終生変わらぬ棋士仲間に対する蔑視が培われたと著者は想像をめぐらす。ここには「バラのつぼみ」の意味が分かる映画『市民ケーン』のラストシーンに似た興奮を覚えた。その真偽は私には分からない。現実には戦後においても、例えば、初めての名人戦挑戦の際の無礼不遜な態度や年相応のウヌボレを坂口安吾が「九段」において指摘しているが、年を経るにつれ大山は自らに甘えを許さず、悪役視されてもめげず、逆境にこそ力を発揮するよう自らを鍛え、また「人間必ず間違いをおかす」という観点からほぼすべての棋士に対して優越感を持てたことも確かである。

 どんな稀代のファイターであれ、その最後は全盛期の輝きを失い、追われるようにして勝負の舞台を去るものだ。しかし、大山康晴はその人生の最後において、身体を再発した癌に蝕まれながらも、一流棋士の証をかけたA級順位戦の戦いにおいて、彼らしい精緻にして相手の力を押さえ込む受けの力を発揮し、見事な快走を見せる。

 この不世出の名人を越えるとすれば、やはり羽生善治だろうが、その羽生をもってしてもA級在籍期間で大山に並ぶのは四半世紀先である。その頃この大天才が果たしてどのような「晩節」を見せるのか私には正直想像もできない。

 大山康晴が死去した平成四年の年末、彼を追悼するNHKラジオの「巨人追想」に出演した河口俊彦は、番組の結びに「百年後のファンは、升田対大山戦の棋譜を並べて楽しんでいるかもしれません」と語った。大山の没後二十年が経つが、私は八十年先といわずもっと早くにそうなる日が来るのではと本気で思っている。

 今年行われた第二回将棋電王戦は、人間側から見て一勝三敗一引分という結果に終わった。この結果をもって将棋においてコンピュータが人間を越えたと見なすのは早計に違いないが、コンピュータ将棋がトップレベルのプロ棋士と競えるところまできたこと、そして極端に遠くない未来に人間を凌駕する日が来るのは認めざるをえないだろう。

 その日にいたるまで、そしてその後も人間の将棋とコンピュータ将棋は共存共栄してほしいし、それは日本将棋連盟会長のまま鬼籍に入った米長邦雄が将棋界に遺した宿題であろう。ただ「その日」が来たとき、プロ将棋の受容のあり方が変わるように思うのである。具体的には、古い情報と見なされていた昭和の人間臭い将棋にもう一度光があたる日がくるのではないか。

 そのとき、再発見の筆頭に大山康晴の将棋がくるのは間違いない。未来の将棋ファンは、全盛期における対升田戦、円熟期における対中原戦、そしてその晩節において自身の存在証明を賭けて戦ったA級順位戦の棋譜を並べるだろう。そのときに本書が最良の副読本となるのは言うまでもない。

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