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もっとやさしく
なんだかんだとありながら、母との暮らしが来月末で1年になる。早い。
母を保護した当初、とにかく傷ついた母に安心して暮らしてほしいと願ったけれど、毎日緊張感のある状況が続いて3ヶ月くらいは怖くてたまらなかった。仕事で家を出る日は、不安で走って帰ったものだ。6~8月、元凶の父がパフォーマンス的に自殺未遂をするなどもあり、地獄で焚火してるような気持ちで過ごす。
いったん元凶がおとなしくなってきた頃から、母と暮らすことのストレスで私が常にいらつきを抑えられなくなる。第一にこれまで母が自分の家でふるうことができていた自治が、ここでは私の自治下になるわけなのにうまく折衷しない。できない。生活雑音の大きさで睡眠が阻害されたり、静けさが守られないことでいらいら。そして今も続く最大のいらいらは、親が好き勝手に生きてきた結果、年金もほとんどもらえない状態のままうちに転がり込んできたことで、突然私が2倍の生活費と母の暮らしを支えるお金を丸ごと背負うことになったこと。
母はせめてもということで、家事をすべてやってくれている。けれどそれにおいても料理すらもう自分ですることのできない自宅になったこと、洗濯や掃除といった生活をつくる雑事をすべて自宅にいながら他者の手に委ねなければならない漠とした虚無。自宅なのに、家賃を払っていながら自分のうちではなくなっていく感覚がした。2DKの住まいは、生活する場(たまに仕事)と眠るところを分けたかったからなのだが、どうにも生活雑音のうるさい母と寝室を同じくすることが限界になって、秋口にリビングを母に明け渡した。そこで布団を敷いて寝てもらうのだ。私は自分の寝室に寝る。
そうなると、たとえば入浴後の就寝までのもっともリラックスした時間帯にテレビをぼんやりとみるともなしに観る、ということができなくなった。年よりなので21時半にはリビングに布団を敷くからだ。そうなると、お風呂から出たらダイニングで顔を整えて寝室に直行するしかない。ゆっくりリビングで一日の終わりの時間を過ごす自由が自宅にいながらなくなった。
年末にかなりの大喧嘩をし、私の溜めに溜めてきたいらだちとストレスが我慢の限界を超え、出て行ってもらおうかと一瞬だが本気で思った。行くあてもなく、お金もない母をもちろんそんな目に遭わせることはしない。翌日母が珍しく謝ってきたため、これを機会にしないとならんとして話し合いをした。これで一気に何かが前進したとかはないが、ほんの少し何かの変化はあった気がした。
自宅が自宅でないような暮らしの小さな積み重なるストレスは、新たに生まれるストレスですぐ許容量が目いっぱいとなる。
かわいそうな母と思う自分と、それでも文無しになる生き方をしたことは別問題だろう、と非難めいた思いを持つ自分とがいる。姉と妹が一銭も送ってこず「悪いねぇ…ごめんね」と毎度言うだけで援助しないことにもいらだっている。しかし、姉も妹もそれぞれの家族がおり、消去法で考えてこの現実しか選択肢がなかったことを誰よりも知っているので、このいらだちも解消する策を持たずに内部に蓄積されていく。
ごくたまに、母とうちとけた時間を持つこともできる。残念だけど長くは続かない。とても残念だ。離れて暮らしているころ、一番仲が良かったのは自分なのに。
育ててくれた恩、老いの暴力から生き延びてくれた感謝、そうしたものといらだちやむかつきは同居できてしまう。なんと自分勝手な人間だろうと日々自己嫌悪を抱いて生きることに飽きたし疲れもする。
母もばかじゃないからきっとこの状況がつらいだろうし、生きていることを呪っているかもしれぬと思うと気の毒でならない。この1年は本当にしんどい時間だった。自分の残り時間だってもう折り返し地点に入り、日々に忙殺される生き方に不安をおぼえたり、新しい発見に胸躍ったり。
このところ4社の契約をまわしつつ、新たに学校に通い始めてしまったので(どれも一気に始める予定ではなかった…)、日々忙殺という言葉が象徴する生活なのだが、きちんと心に向き合って自分自身を癒していかないと人にやさしくできないよな、と思う。
誰よりも母にもっとやさしくしたいので。