見出し画像

レチノールの人魚

 ふと思ったのだが自分は長く慣れ親しんだ頭痛を、まるで相棒のようにある種愛しているのかもしれない、と。そんな馬鹿な話があるはずはないものの、こういう言い方をしたら理解してもらえるだろうか。たとえば、少しずつ少しずつうららかな陽気が気づくと日中、ほのかに汗ばむようになって「そろそろ半そでを着る季節かもしれない」などと思う。あるいは真夜中の寝床、しんと静まり返った驚くほどの孤独のなかで布団から出た鼻先が痛いほど冷え切っていることに気づくとき、「もう一年が終わるのだ」と思う。
 そうした、体の感覚としてなにかの事態がひもづいている場合に。

◇◇◇

 そんなふうにして頭痛に気づく。目覚めても休日を味わうために幾度も目を瞑り睡眠世界に逃げ込んだあと、過剰な睡眠は痛みを連れてくる。つまりは惰眠を貪った証しなのだから。無論、低気圧の前触れや只中にいる証としてもそれはやってくるが、なんとなく体調の低空飛行を裏付ける確かな兆しのようでもあり、決して風邪をひいたための痛みではないのだ、と安心する部分がなきにしもあらずなのである。

 そんなことって他にあるかしら、と考えてみる。ちょっと話がそれるかもしれないが、いつものバス乗り場でバスの到着を待つ時間などに、ふと涼風を感じて季節の移ろいに気づくときに、夜明けと夕暮れの違いを分かつのは、その前後の時間感覚が確かな場合のみであろうと思ったりする。だから、その涼風が「5月の最初の風」なのか、「9月の終わりの風なのか」を判断するのも「今が何月なのか」が確実である場合にしかわかり得ない。

 それで思わず9月の終わりであるのにあえて「5月が始まるのだなぁ」と思ってみて、そこに感覚を没入させていくという遊びを時折するのだった。そうした目で周囲を見渡すと、空の色と雲の配置、ゆったりと流れるように動く雲群に秋の気配でなく夏の気配を探そうという気分になって面白いのだ。自分の体感だけで判断できることの心細さ。周囲の温度、風の色や冷たさ、肌にあたる空気、そういった感覚だけを頼りに思い込むだけでどこまで自分をだませるか。そんな遊びをよくする。

◇◇◇

 特定の香りを嗅いだとき、その香りに紐づいた過去の記憶や感情が無意識的に呼び起こされる現象を「プルースト効果」というのだというが、それはあまりにも人に強くなじんだことであろう。私がそれを初めて知ったのは、高校時代に英語教師として来日していたアメリカ人青年の香水によってであった。彼は白くまっすぐな歯列が美しくいかにも真面目な青年であったが、つけている香水はシャネルの「エゴイスト」であった。

 そのあまりの蠱惑的でくらくらと酔うような香りに、私たち生徒はみな夢中になった。これまで香とはフローラルな甘く愛らしい香りでしかその世界に受け入れてこなかったいわば未熟な香り体験において、突如としてエキゾチックで不穏に淫靡、立ち入ってはならないようなひどく抗いがたい香りを識ったのだった。多くの女生徒は彼にあこがれを持ったが、その理由の半分以上は知らぬうちにこの香りに幻惑されたのではないかと、私はうすうす思っている。

 しかし後年、あの「エゴイスト」は、彼独自の体臭と相まってあのように素晴らしく芳香したのだと知ることになる。だって、同じ香りを求めてもどの百貨店カウンターにも彼の香りはなかったのだから。そしてつまりは、街角でエゴイストを鼻先に嗅いだとしても、彼を思い出すことはない。だってまるきりそれは違うのだから。不思議と、「違う」ことで彼を思い出すという工程を踏む。

◇◇◇

 一杯900円もするクラフトビールとかでなく、最低価格350円ほどの冷え冷えの生ビールが金曜の夜にとりわけ旨いのは、同じような理由からで
その一週間耐えて駆け抜けた日々に労働に、ひといきに解放をもたらすからであろう。口中を喉を、走るその爽快さが欲しくて理由なぞ不要で生ビールを飲むのかもしれない、などと思う。

***
タイトルは、半年ぶりにレチノールを塗布したら恒例の皮膚がめくれて皮むけをおこしている。その様がまるでうろこのように見えるから。

 

いいなと思ったら応援しよう!