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さよならが約束になる
最後の会がつつがなく終わり、途中まで電車で帰ったあとで最寄りの駅からタクシーに乗り込んだ。ひとりきり、後部座席に深々と身を沈めながら心地よい充足に満たされているのに気づく。少し窓を開けて風を入れたかったけれど、その断りを運転手に告げることが憚られた。まだ、余韻を大切に味わっていたかったのだ。
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ひとりは今年29歳になるというし、もうひとりは26歳になったのだという。出逢ったのはまだ彼らがそれぞれ大学生の頃で、私の仕事先にインターンでやってきた。どういうわけか年の離れた彼らと仲良くなり、インターンを終えてそのまま正社員として就職したM、Nにおいてはインターンを終えると業界2位の大手企業に就職を果たした。それで、Nの就職祝いを3人でやってから、以降毎年この時期になると3人で集まるようになった。ということは今年で5回目になるのか。
大抵の場合はMもNも社会人として誰もが味わう洗礼に葛藤や苦悶を感じながらも、その季節特有を生きる若々しい青年らしさでもって対峙していた。それを旨い酒と肴でぐいぐいと流しこむようにして、それらの苦い潮を飲み干しては輝くような笑顔にすり替えているのだった。かつて自分も通り過ぎてきた試練ともいえる日々に想い馳せつつも、今こうして彼らがその渦中で生傷の絶えない心でいることに胸が痛む。と同時に、そのように考えられるもっとも真摯なかたちで彼らが仕事に臨んでいることが我がことのようにうれしくてならないのだった。
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時が過ぎ、今回で自分が音頭を取って会を開くのはやめよう。ある朝唐突にそう決めた。これはこの会だけでなく、これまでいくつかの定期的恒例の会や習慣となったものすべてを今年終わりにしようと決めたのだった。ただひとつ例外は、これもまた5年ほど前から始まった新しい習慣の、過去の仕事先の元上司と年に2回飲むこと。これは、まったく安全地帯にあるからである。
恒例となった催しは危険を孕んでいる。始まりがどんなに胸躍るものであったとしても、いつか知らぬうちに意味を失い誰かひとりでも義務のように感じ始めたらあっという間に腐臭を放つ。
私はどれひとつをとっても、そのように終わりたくないものばかりなのだ。それであれば、まだみんなが楽しいと感じている間に終わりにするのだ。本当に会いたいならば、もっと気軽に、そして忘れたころにでも声をかければいいのだから。
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去年のMとNとの会は、私がインフルエンザになってしまったことでご破算になっていた。それなのでみんなとても楽しみにしてくれていた。4時間、仕事談義に明け暮れてとても美しい時間が流れた。会の終わりに、私から声をかけて集まる恒例化したこの会の散会を告げた。みんな理解してくれて、これからは気軽に自分から声をかけます、と言ってくれた。それは嘘ではないかもしれないが、きっとそれはなくなるだろう。
彼らがまだこれからたくさんの経験をし、経験が彼らをさらに強くしていく日々に私はもう立ち会っていない。せめて職場が同じなどあればまた違うけれど、もう彼らの成長を見守る立場ではなくなったのだ。そんな私が彼らになにを言うことができ、なにを聞かせてもらう価値があるだろうか。
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訪れた店は20代の頃つれてきてもらった店で、その後ミシュランの星も獲得するなどしたが、そんなことと関係なく素晴らしい店だ。彼らと最後に会うのはここがよい、と思っていた。
ご夫婦で切り盛りする小さな店だが、店中にご夫婦の気概とぬくもりが満ちており、エアスポットのように静謐でやさしい。店を出るときお二人で見送ってくれたなか、私たち3人は楽しさとうすらさみしさを抱えながらも、それでもそれを上回る幸福に満たされていた。
こういう感情を味わうことができること、こういう体験ができること。
私は本当に幸せものだと思った。