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尊き「普通」

 「特別」という概念は、「普通」という概念があって成り立つ。「普通」のなかで特別にするという行為でそれが「特別」となるからだ。私はこの「特別」にしていく過程がことのほか好きで、その後に無事に「特別」にできたらそれは大切に慈しむ。
 
 たとえば秋が深まったら昔の上司を飲みに誘う。
 これは数年前に自分が始めた仕事で元上司がターゲットになるな、と思って何年もご無沙汰していたのに連絡をしたことがきっかけ。上司といってもいろんな階層があって、この方は本部長だったのでほぼ執行役員のような立ち位置で、当時の自分からすると業務をご一緒することもなく雲の上の方だった。しかし、退職後に距離が近くなってごく稀にご一緒することはあったのだ。
 この偶然にお誘いした会が非常に楽しいもので、上司もそう思ってくれたみたいで二軒目を誘ってくれた。最初は昔のように「●●(私の苗字)くん」と呼んでいらしたが、二軒目になると「おまえ、コノヤロー!」となっていて、それが私にはとてもうれしかった。お互いに思いのほか楽しかったもので、「またお誘いしていいですか?」と聞くと「もちろん!また飲もう」と言ってくれ、それから10月か11月に毎年お誘いして飲むようになった。何がいいって、割り勘にしてくれるのだ。昔だったら私に一銭も払わせなかった方が、割り勘に応えてくださることが、いい年になった自分を立ててくださっているように思われ、しみじみといい。

 誕生日月に「11月会」と呼んで食事に行く会もそうした「特別」になった関係、イベントのひとつ。たまたま仕事場で仲の良かったメンバーが同じ誕生月であったこと、ちょっとしたプレゼントをそれぞれ買うのが面倒になったので一挙に終わる食事会を開催したところ、時期になると毎年誰かが「今年の11月会はおれ幹事やるんで!」と言ってくれるほどにルーティン化した。これは残念ながら当初に比べて人数が激減。理由は簡単。その会社を辞めた人間、残った人間が少し会いたがらなくなったため。それでも今年も開催される。

 物で言えば高級チョコレート。最近はル・ショコラ・アラン・デュカス一辺倒、これはあえて「特別」にしたものだ。英国駐在をなさっていたご婦人がエッセイで「イギリスではディナーに呼ばれたらチョコレートを買っていく。他の何かではいけない。チョコレートだからいいのだ。相手もチョコレートを持ってきてくれると信じていて、それに暗黙で答える文化が良いのだ」といったようなことを書いていらして、「なるほど、それは素敵だ」と思った。世のなかにあるたくさんの素敵なもの、素晴らしいものの中で、決まってチョコレートを贈る、という行為の継続によってチョコレートが他の素敵なものの中から「特別」になるのだ。
 それ以来、特別な贈り物の意味を込めて高級チョコレートを選ぶ。もちろんそれは、特別なシーンにおける手土産として。

 ある方とは、連絡が気軽に取れる手段を持ち合わせているが、会うことはしない。あ、色っぽい話ではない。心の師と仰いでいるビジネスの大先輩がおられるが、知己を得たのは取材によってであった。その取材で自分が聞き得たことは、心臓と脳に大打撃となり、瞬間的に思ったのは「これは大変なことになった。この話を聞いてしまった人間としての責務をどう果たすべきか」ということだった。実際、その記事を書くのに私はおおいに苦しんだ。

 基本的にただ録音を書き起こして、そのまま並べるのは自分のスタイルではない。過去のその方の仕事、発信内容の表に出ているものはすべて目をとおし、現在に至るまでの思考の遍歴を理解する。そして、最終的にひとつのメインメッセージを選び、それを伝えるために再構成を組みなおすのだ。だから、録音の順番になることはないし、本人が言った内容の前提に含まれる割愛部分への理解もいちいちし直す必要がある。
 そこでやっと、その方が言いたかったことをほとんどすべての人が理解できるような原稿にすることができる。

 けれどその工程、作業が本当につらく重い。原稿は仕上がりご本人にも皆さんにも大層喜ばれたが、何より自分が数年経って心が弱くなったとき、その記事をWeb上で見ると否が応にも奮い立つものがある。この方との出逢い、話を聞いたことが自分の「特別」となったのだ。

 考えてみると、生きるなかでいくつもの「特別」が生まれた。ブルックス・ブラザーズのシャツ、セルジオ・ロッシのパンプス、たくさんのクッションの係累を築いてする読書。仕事中のBGMはアストラッド・ジルベルト。寝る前の音楽はバッハ、原稿を書く日には大量に沸かしたコーヒー。靴を履くときは必ず左から。木曜日のタクシー。

 「特別」をつくっていく、あるいは生まれゆく過程にたくさんのささやかな試行錯誤がある。偶然にポーンと「特別」がやってくることは本当はない。気づかないだけで積み重ねが必要だからだ。体験の数と価値。
 これが生きている醍醐味と言わずしてなんという?くらい、素晴らしい発見だし、その「特別」を堪能するために尊い「普通」を生きるのだ。

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