【展覧会小説】永遠の向日葵②開花編
17世紀から18世紀にかけて、イギリスでは裕福な貴族の子弟が学業の総仕上げとしてフランスやイタリアなどを旅行するグランド・ツアーが流行した。彼らは現地の文化や歴史に触れ見分を深め、その後のキャリアの糧とした。現在の若者であれば、そうした機会は卒業後に限らず得ることができたであろうし、事実キリトの同級生のほとんどは在学中に留学や海外旅行など経験済みであった。しかしキリトにはその余裕もなく、海外の大学との交換留学の話もあったが、アルバイトを辞める訳にはいかないという理由で辞退した。その話は真利亜にも言っていない。言おうものなら真利亜は無理してでもキリトに留学をさせたであろう。キリトは在学中の留学を辞退した代わりに、卒業旅行として海外に行くことにしたのだ。
初めての海外はキリトにとって驚きの連続であった。イタリア、フランス、スペイン、イギリスを巡る旅は、それまで”生きる”ために生きていたキリトに”悦び”を教えてくれた。
水の都ヴェネツィアでは、ちょうどカーニヴァルが開催されていた。様々な仮面をつけ派手な衣装に身を包んだヴェネツィアの人々の姿は、華やかであると同時に品格に溢れていた。物珍しそうにあたりを見回すキリトに仮面の男や女たちは次々に挨拶をし、初々しい若者の未知なる旅路を寿いだ。
運命の出会いはイギリスで起きた。劇場都市としてアメリカのブロードウェイに並ぶウエストエンドの劇場で、『マクベス』を観劇した時であった。これまでの人生で演劇に興味を持ったことはなかったキリトであったが、シェイクスピアの作品は読んでいた。その中でも特に『マクベス』は好きな作品だったので、本場のイギリスで上演をしているならとチケットを取った。劇場での観劇などほとんど初めての経験であるキリトは、場慣れしていない居心地の悪さを感じながら席に着き、これからシェイクスピアの世界が繰り広げられる舞台を見つめた。
「もしかして、日本人の方ですか?」
不意に掛けられた声にキリトは驚いて右に振り返った。すると自分より2~3歳年上に見える位の女性が隣に座っていた。緊張と居心地の悪さで視野が狭くなっており、隣に人が座ったことにも気づかないでいたことにキリトは一人恥ずかしく思って、そのことで返答が少し遅れた。
「日本人の方ですよね?」
「あっ、はい。すみません、初めての海外で…一人旅だったので誰かに話しかけられるとは思っていなくて…」
「初めてなんですね。学生さんですか?春休みの旅行?」
「はい。あっ、大学はこの春で卒業するので、その最後の休みなので…」
「そうなんですね。卒業おめでとうございます。劇がお好きなんですね。」「いえ、劇場に来るのはほとんど初めてで。シェイクスピアの本は読んでいたので…ちょうど『マクベス』をやってるって知って…せっかくイギリスに来たので…」
「そうなんですね。私も本場のイギリスで舞台を観るのは初めてなので、凄い楽しみなんです。私女優の卵で、今度所属している劇団で『マクベス』をやることになったんで、私もせっかくなので観に来たんですよ!」
「女優の卵…」
「まだ駆け出しだけど。………あ、もしよかったら観に来てくれる?あっ住んでるのは東京?私東京の劇団に所属してて、『マクベス』は下北沢でやるの。それで私はマクベス夫人を演じるんだけど、サラ・シドンズって知ってます?昔の女優で、マクベス夫人で脚光を浴びた人で、彼女がマクベス夫人のキャラクターを創設したと言われていて…」
彼女は自分で話していく内に興奮し始めた。キリトは呆然としながら彼女の話に相槌を打ち続け、遂には彼女の劇団が主催する公演を見に行く約束をした。そして彼女は宍戸サラだと名乗った。本名は”沙羅”と漢字であったが字面があまり好きではないらしく、女優としては”宍戸サラ”と名乗っているらしい。
幕が上がると、サラはまるで初めてのお出かけにワクワクする少女のような無垢な表情を浮かべ、オペラグラスで一心に舞台を凝視した。キリトはもはや舞台よりも彼女の横顔に釘付けとなった。筋の通った鼻筋、キュッと締まった唇、キラキラと光る瞳、瞬きをするごとに揺れる長いまつげ、その整った横顔から目を離すことができなかった。舞台のマクベス夫人の振る舞い、表情、声色に併せて彼女の顔が微かに動いているのが分かった。演劇や演技の事については全く分からないキリトであっても、女優の卵としてマクベス夫人の演技を糧になるものを得ようとしていることだけは十分に理解できた。その美しくひたむきな横顔にキリトは惹かれずにはいられなかった。
舞台が終わると二人は近くのレストランで食事をとった。その間の会話のほとんどはサラが一方的に舞台の感想やマクベス夫人というキャラクターの解釈についてだった。キリトにとって、時間を忘れるほど誰かと一緒の時間を過ごし語らうなど初めてに近く、目の前に美しい女性が居ること、その女性が自らの興奮と悦びを自分に向けてぶつけてくることに酔いしれた。
二人は連絡先を交換し、翌日は共にロンドンの街を観光した。キリトがサラに惹かれるように、サラもキリトの若いのに浮世離れした物腰を気に入っていた。自分が知っている同世代の若者にはないどこか人生そのものに対する諦観を漂わせていること、そんな男がひたむきに自分を見つめ、自分に対してどう接していいか分からずに戸惑う姿が愛おしかった。二人は互いが互いの視線で熱くなるのを感じた。そしてその夜二人は恋人同士になった。
「サラがやるマクベスはいつ上演するの?」
「今年の夏よ。暑い夏の日に私のマクベス夫人が観る者を凍らせるの。」「あんなに純真に舞台を見つめていた君が、権力欲にかられ堕ちていくマクベス夫人をやるなんてね。でもそんな姿も見てみたい。」
「そうね、楽しみにしてて。もし成功したら思いっきり大きな花束を贈ってね。」
「もちろんだ。どんな花が良い?」
「向日葵。私が一番好きな花よ。」
その夏、キリトはありったけの向日葵の花束をサラに贈った。彼女の舞台は大成功だった。誰もがマクベス夫人の狂気に目を奪われ、背筋を凍らせた。彼女は舞台の上でまさしくマクベス夫人であった。帰国してからも恋人としての逢瀬を重ねていたが、その時の彼女はアルバイトと稽古に明け暮れてひたむきに女優としての夢を追い求める素直な女性だった。しかし舞台にはそんなサラはどこにもいない。権力を握るために夫をけしかける一人の強欲な女、そして罪の意識に押しつぶされて狂っていく憐れな女であった。
上演中キリトは何度かサラと目が合い、その視線に恐怖した。自分が愛してやまないサラ、美しいサラ、そのサラの顔であってサラではない。舞台の上で豹変した恋人の姿に、キリトはまるで裏切られたような感覚、自分が立っている地面が脆く崩れ落ちるかのような感覚に襲われた。しかしそれこそが女優としては成功したことの証であり、そのことをキリトは充分に承知していた。向日葵の花束は決して恋人としての労いのプレゼントではなく、一人の観客として最高の舞台を務めた若き女優への最大の賛辞であり、ファンとしての愛であった。
キリトが向日葵の花束をサラに手渡そうと楽屋口の廊下を歩いていると、既に多くの関係者が彼女を取り巻いていた。公演の成功で興奮気味の共演者や演出家らが彼女を労う中、キリトはサラに声を掛けた。彼女はまだ舞台の興奮が冷めやらぬのか恍惚の表情でキリトの方を向いた。その表情にキリトはドキリとした。舞台のマクベス夫人の視線とも、自分の知っているサラの眼とも違う。いやサラであってマクベス夫人でもある、そんな眼に見据えられてキリトは一瞬のうちに自分の内に沸き起こる興奮に気づかぬふりをするのに精一杯だった。
「素晴らしい舞台だった。これ、約束の向日葵の花束。本当におめでとう。」
「ありがとう!!嬉しい。」
そう言ってサラは花束を受け取った。その時キリトの後ろからスーツ姿の男が楽屋に入り込んできた。
「初めまして。演劇評論家の高柳省吾です。舞台を観てぜひあなたにお目にかかりたかった。今日の舞台は素晴らしかった。」
高柳は簡単に自己紹介を、今日の舞台の劇評を新聞に書く予定だと言う。「劇評の中心は君の事になるだろう。なぜなら舞台の間中ずっと君しか眼に入らなかったのだから」と恥ずかしげもなく言いのける高柳にキリトははっきりとした嫌悪を覚えた。今すぐにでもこんな汚らわしい男からサラを引き離したかった。しかし、舞台の世界で部外者は自分の方であった。詳しく話を聞きたいという男の申し出を快く引き受けたサラは、キリトに向って「じゃあ、またね。」と言って評論家の男と廊下を歩きだした。一旦楽屋に入って再び廊下に出てきたサラはもう向日葵の花束は持っていなかった。そして男と二人で廊下の奥に進み突き当りの角を曲がって見えなくなった。その一部始終を眺めていたキリトは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
(開花編おわり)
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この小説は、国立西洋美術館の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー」展から着想を得て考えたオリジナルストーリーです。小説の中には、展覧会に出ている作品や本展のキーワードが散りばめられています。分かりやすく登場する作品もあれば、主題をさりげなく潜ませている作品もあるので、展覧会を観た人は宝探し的に楽しんで読んでいただければ幸いです。
次回、「枯朽」編はこちら。
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