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”美術館を楽しむ”とは?ーー「マーク・マンダース」展を通じて

先日東京都現代美術館の「マーク・マンダース」展に行ってきた。展覧会の内容は実に充実していた。(展覧会の感想は下記の記事をご覧ください。)

展覧会自体は素晴らしかったのだが、その周囲の事において疑問に思うトピックが2つあった。その2つに関する究極の問いが、今回の記事のタイトルにしている「”美術館を”楽しむとは?」という事になのだが、まずはその2つのトピックについて書いていく。

1.キャプションのない展示は是か非か

「マーク・マンダース」展では会場内でほぼ一切ない。詳しく言えば、メインフロアとなる3階は、冒頭の「ごあいさつ」の他に文字情報は一切なく、2階の《3羽の死んだ鳥と墜落する辞書のある小さな部屋》という作品にのみに解説がついている。鑑賞者はA3用紙を二つ折りにしたハンドブック(フロアマップと作品タイトル・素材・所蔵のクレジットが記載)を頼りにするほかない。このハンドブックも、1Fのもぎりとエスカレーターの間のわずかのスペースに置いてるのみで、気づかない人も多いだろう。一緒に行った私の友人も気づいていなかった。しかも3Fには設置されていないので1階まで戻るか諦めるしかない。このアクセスの悪さも問題だ。

 この会場内に一切のキャプションを掲示せずハンドブック形式にするのは「オラファー・エリアソン展」でも同様だったように思うが、この方針は作家の指示によるものなのか、キュレーションする側の考えなのかが知りたいところだ。というのも私が疑問に思うのは「公共施設である美術館において、”知りたい”という知的好奇心・探求心に対して、できる限りの情報を開示しないという姿勢はどうなのか」という事なのである。
 時折、芸術鑑賞において「知識なんて必要ない!見たいように見よう」とか「あなたなりに考えながら見ればいいんだよ」という趣旨の事を見聞きすることがある。もちろんそういう鑑賞の仕方もあっていい。あるいは、美術館の敷居を下げるために積極的にそういった鑑賞体験イベントをする施設もあるだろう。そのこと自体は否定しない。ただ、その一方で「作者がどうしてこうした作品を作ったのか知りたい」と思い、知ることで自分の感想や考えを深めようとする人もいるはずだ。その者をないがしろにしてないか、という事なのだ。
 社会において芸術の価値が何なのかを一言で説明することは容易ではないが、作家それぞれの感性・思考・人生すべてをかけて制作された作品は、この世界の美しい事、愛おしい事、醜い事、課題、、、あらゆる様相を浮き彫りにし、問いかけることだと思っている。作家の研ぎ澄まされた感性や技術、思考を通して、今まで見落としていたものに気づくことができ、鑑賞者の一人一人の思考や世界が更新(あるいは更深)されることに意義があると思う。だからこそ「便器」はアートになったのだ!
 私はそういう考えなので、「(鑑賞者の思考の範囲で)見たいように見る」だけでは「見た」ことにならないと思っている。もちろん自分なりに考えるというプロセスは大事だし、文字情報に溺れて作品自体をちゃんと見ていないという状態に陥る危険性は常に孕んでいることは承知だ。しかし、だからと言って情報を出さないで良いという事にはならないはずで、美術館側は鑑賞者に対してその「選択肢」を与えるべきではないかと思うのだ。

マーク・マンダース展の場合、展覧会のコンセプト(会場全体が1つのインスタレーションでもあるという構造)ゆえに1つ1つの作品の傍に作品解説を置くのは野暮というもの、というかコンセプトが崩れるというのは分かる。しかし、それでもやり方はあるだろう。ハンドブックにQRコードを付けてそれを読みこめば、作品の概要、あるいは作家について、制作方法、作品のコンセプトなどについての解説を読むことができるようにする。あるいは音声ガイドだって有効なはずだ。

 これが、個人のギャラリーで開催される展覧会ならキャプションがなかろうと文句は言わない。しかし、美術館(特に国公立の施設)においては、市民に対して開かれた状態でなければいけないと思う。この「開かれた」とは、決して「見たいように見ていいよ」という態度ではない。「見たいように見ていいよ」は、裏返せば「見方が分からなくても分からないままでいてね」というコミュニケーション放棄ではないだろうか。
 そういう事を言えば「解説が書いてあっても小難しくて結局理解できないのでは」という意見もあるだろう。そうした解説のレベルをどこに合わせるかは展覧会ごとに依るし、よほど平易でなければ多かれ少なかれ「理解できない人」が出るのは避けられないだろう。そこは主催者側も鑑賞者側も努力し、互いにアップグレードさせていくことで、次第にそのギャップが埋まるようになっていくことを目指すのが本来の在り方ではないだろうか。(こう言うと会場内の壁などに安易なキャッチコピーがついたりしがちだが、安易なキャッチコピーも甘すぎるキャンディーのようなtoo much感があって辟易するので、くれぐれもそこに堕しないでほしい)

 例えば、小さな子供が「どうしてお空は青いの?」と聞いて誰も答えてくれない、あるいは「青いから青いのよ」「いつか大きくなったら分かる」「私にも分からないね」などの返事しかなければ、その子の好奇心はどうなっていくだろうか。あるいはめちゃくちゃ専門的な説明がされている本だけ渡されて理解できるだろうか。理解できなかった時、自分の疑問が解決できないと思った時、その好奇心・探求心を持ち続けてくれるだろうか。
 あるいはこういう譬えはどうだろう。グループで会話している時、自分以外の人間が、理解できない言語で話していると想像しよう。その会話は楽しいだろうか。他の人たちは決して自分を阻害する素振りはないし、そのコミュニティは開かれている。しかし言語は理解できない。まるで自分の頭上で言葉の空中戦が交わされているようだろう。年長者のキャッチボールに一人だけ背丈の小さい子供が混じっているようなものとも言えるだろう。そうした状態でその人は”楽しい”とは思えないのではないか。
 美術館において解説情報を極端に掲示しないという事は、鑑賞者に対してそういうことをしているようなものなのではないかと思うのだが、如何だろうか。それで「美術を好きになってほしい」「美術館にもっと気軽に来てほしい」なんてどの口が言うのか。

2.展覧会コラボスイーツの絶望的なネーミング

今回、東京都現代美術館の2つのカフェでそれぞれ「マーク・マンダース」展にちなんだ限定スイーツが出ていた。

●赤と灰が交錯するパフェ
https://twitter.com/MOT_art_museum/status/1379328605088403468/photo/1
●静謐と混沌のパフェ
https://twitter.com/mi_tsu1006/status/1388103712959172608/photo/1

私が特に違和感を覚えたのは「静謐と混沌のパフェ」だ。美術館内のカフェの案内板でこのパフェの名前と画像を見た時は「めっちゃ作品タイトルいじっていてるな」という感じだったのだが、展覧会の感想を書き終わった後から沸々と静かな憤り、不快感が沸き起こってきた。

「あの時は”いじってる”とかで済ませちゃったけど、結構”醜悪”では?」

ちなみに私は展覧会のコラボスイーツは好きな方だ。同じお茶代を出すなら、美術館の応援の意味も込めて展覧会限定スイーツに手を出すことは多い。現に『石岡瑛子』展では、まさにこちらのお店が出していた〈赤を纏った果実のパフェ〉(以下、赤のパフェ)をいただいている。

『石岡瑛子』展の時は良くて、なぜ今回は引っかかるのか。その理由を探してみて、下記の2つの理由に至った。

①展覧会のテンションとスイーツのテンションが合っていない。
 『石岡瑛子』展と〈赤のパフェ〉は、その赤というカラーが合っているし、果肉たっぷりのパフェも、瑛子のマグマのように内に秘めた創造性、あらゆるイメージをその内に取り込んで、石岡独自の作品にするバイタリティとマッチしている。そして〈赤を纏った〉というネーミングも、そのバイタリティで独創的な衣裳を次々製作した石岡瑛子へのリスペクトを感じられる。展覧会の要素が上手くパフェに変換されていたと思う。
 しかし、今回の場合、展覧会全体の雰囲気は静かで内省的だ。私は(冒頭の展覧会の感想の記事中で)廃墟と表現したが、マーク・マンダースの作品記述で度々用いられる「静謐」さとは、痛みや脆さという身体的苦痛を常に伴った上で表されているものだ。それに対して、そもそもスイーツの中でも割と賑々しいビジュアルのパフェというのが個人的にはピンとこない。しかし、とりあえずそこは目を瞑ったとして、ネーミングがひどい。”静謐”は作品記述でキャッチーなフレーズだったから用いた気持ちは分かるが、”混沌”は展覧会(作品)のどういう点を以てして言っているのか分からない(私の鑑賞理解が至らないだけなのか、マーク・マンダースの作品における”混沌”についてぜひ知りたいところだ)。
 展覧会、作品自体の事をあまり深く考えず、パフェの名前にするには観念的なフレーズを組み合わせました!感が否めない。”静謐”や”混沌”という言葉を知って使いたがる中学生(中二病)的こっ恥ずかしさがある。

②キラキラコーティングされたマーク・マンダース 
 この問題は、私がこじらせている可能性も大いにあるのだが、マーク・マンダースの作品の静謐さとは、母親の心の病、青春時代の思い出など、作家、彼を取り巻く環境の暗い部分が根源にあり、そうした暗さ、葛藤、思考、思考、思考‥‥そうした作家の内の中にグルグルと渦巻くもの(それは《ドローイングの廊下》でもわかる)を突き詰めて突き詰めていった結果の表現だ。そうした過程を経て生まれた「静謐さ」に対して、そう安易にパフェのネーミングに持ってくるところに、薄ら寒い嫌悪感を覚えたのだ。だから同じパフェでも「赤と灰が交錯するパフェ」の方はそれほど気にならないのだ。恐らく《青と黄色のコンポジション》のようなタイトルをもじっているのだろうが、「赤と灰が交錯する」には事実の記述のみだ。しかし「静謐」はちがう。マーク・マンダースにおける「静謐」は、作家の人生、環境、思考、葛藤、人生、実在、不在…全てを含んだ上で現れるものである。パフェの名前に易々使っていいほどの軽さではないのではないか。
 この違和感に一番近い問題が、最近noteで日雇い労働者の町として知られる大阪の新今宮地区に対して、人気ライターが書いたPR記事で(詳細は各々検索していただきたいが)、ホームレスの人・状態を観光資源とし、消費していることが問題となった記事だ。記事の体裁は「新今宮で特別な体験をした」というキラキラした素敵な物語に仕立て上げられている。この記事を批判した方の言葉を借りれば「キラキラコーティング」ということだ。そしてマーク・マンダース展のパフェにその「キラキラコーティング」を感じてしまったのだ。あるいは「美術館女子」問題の再来と。

 本展の2階のフロアには《3羽の死んだ鳥と墜落する辞書のある小さな部屋》という作品が展示されており、柔らかい床の下に3羽の鳥の死骸があると言うが、ふかふかしているためにどこにあるのか、そもそも本当にあるのかを感じることはできない。言葉による理解の限界と、「言葉で認識できないモノは”無い”に等しい」と知覚する人間の認識の脆さ、不確実さ、不誠実さを問う作品だ。そうした作品を展示している一方で、作品の根幹であり総てを象徴するような「静謐」というフレーズを、賑々しいパフェにつけることが、考えれば考えるほど気持ち悪く思えてくるのだ。どうも作品(作家)に対するリスペクトを感じられなかった。

3.二極化する施策の中で中間層のことはどこへ…。

 2つのトピックについてようやく説明し終わり、ここからが本題の「美術館を楽しむとは」という事だが、この問題の前提となるのは、美術に対して「専門家でもなければ全くのビギナー層でもない」層に対しての事だ(と今気づいた)。つまり「見たいように見る」状態から、もう1歩2歩踏み込みたいけど、その踏み込み方は専門家のように上手く思考できない(そのための知識がまた乏しい)層の事だ。
 今回展覧会の図録が¥3,850 (税込)だった。ほぼ4000円だ。大体2000~2500円、高くてもギリギリ3000円位が、(私の体感として)展覧会図録の相場だが(※東博の「鳥獣戯画」展図録は税込3000円)、この世に図録に約4000円を気軽に払える層がどれほどいるのだろうか。
 その一方で、SNS映えを意識したスイーツには力を入れるという状態が、今回「??」と思ったところなのだ。キャプションがないことと、展覧会スイーツの問題は本来別の事であるし、恐らくそれぞれの問題しかなければ私も引っかかってもいなかったと思う。ただ今回、その2つが同時に起こっていることで、美術館の施策が二極化していっているように思えたのだ。踏み込んで理解するためにはどんどん高額化していき、そこまでの金額を投じることができない(そこまでのモチベーションがない)層に向けては「スイーツ」を提供するしかないのか…。美術館を楽しむって、それでいいんだっけ?それって「美術館女子」問題と根本的なところ同じ過ちを犯してない?

4.会場内で魅了するからこそ図録もスイーツも売れる

 限られた予算の中で鑑賞者は美術館体験を最大限楽しみたい。そのための一番の施策は、「展覧会で満足させる」ことだ。一見当たり前の事であり、日々学芸員をはじめ関係者はそのことに苦心しておられる事だろう。しかし以前の「美術館女子」問題で顕在化したように、本質的な満足度を高めることから離れ、表面的(消費的)な満足度で美術ファンを増やそうとしていないだろうか。そういう節がないとは言い切れないのではないだろうか。

どれ程スイーツやミュージアムグッズに力を入れても、満足度の低い展覧会にお金は落とさない。

この原則は絶対だと思う。実際私は石岡瑛子展では図録も買ったし、展覧会スイーツも頼んだ(今回、正直図録が2000円台だったら買っていたかな)。その魅了するためには、SNSで拡散してもらう用の写真エリアを設けることではない(それ自体は有難いが)。作品に深くアプローチし、単に作品を目で見るのではなく、「出会う」ことができるようにすることだ。(これは私なりの「良い展覧会」の定義なのだが、「見て楽しい」というのではなく、「●●という作品(作家)に出会った」という感覚になるようなもので、そうした出会いにおいて、作品解説などの文字情報は何ら妨害はしない。むしろ作品と私たちの手と手を取り持ってくれる仲介人になってくれるはずなのだ。

長々と書いたが、私は東京都現代美術館が大好きで、これまで多くの出会いをもたらしてくれた場所だ。これからも通いたい(という程頻繁には行けていないが)場所だからこそ、この胸に広がったモヤモヤを吐き出させてもらった。



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