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【展覧会小説】永遠の向日葵①蕾編

 橘キリトの37年の生涯は二人の女性への忠誠によって成り立っていたと言えるだろう。その最初の女性は、彼の母親、真利亜であった。真利亜は21歳の時にキリトを妊娠したが、産むことを決心した彼女に当時付き合っていた(キリトの血縁上の父親に当たる)男はそれを拒んだ。真利亜は通っていた大学を辞め、地方の実家に戻りキリトを産んだ。生まれたが日が12月25日だったこと、彼女の名前が真利亜であることから「この子は神の子だわ!」と喜び、キリトと名付けた。キリトが大きくなり大学の教養科目である西洋美術史の授業で、スクリーンに映し出されたカルロ・クリヴェッリの《受胎告知》を見た時、自分の誕生、そして母の姿を重ねた。
 受胎告知をテーマにした多くの作品がマリアと大天使ガブリエルを大きく描き、神の子を身に宿す慶事に焦点を当てているのに対し、クリヴェッリの《受胎告知》はこの絵が描かれた町アスコリ・ピチェーノが自治権を得たこと記念する意味も込められており、大画面の中で建物や都市の景観が大きく緻密に描かれており、マリアは重厚な建物の中で独り静かにその身に起きた運命を受け止めていた。大画面に大きく描かれた都市に対し、このテーマの主人公であるべきマリアは片隅に追いやられた小さな存在であった。キリトにはそう感じられた。自分を身籠った母もまた”大きな社会”の片隅の中でひっそりと自分を産むことを選んだ”小さな存在”であったことを思い出した。

 女手一つで子供を育てるだけでも大変なことであったが、真利亜はキリトをただ健やかに育てるだけでは納得しなかった。彼に最大限の教育の機会を与えられるよう真利亜は昼も夜も働き通した。キリトは母が夜な夜な出かける仕事先が、人に言えるような商売ではない事を子供ながらに薄々分かっていた。分かっていたが、その仕事を辞めてほしいと言う事も「ありがとう」や「申し訳ない」などの言葉をかける事も、どちらもが母の尊厳を踏みにじるような気がしてできなかった。自分の身を穢してでも子供に不憫な思いはさせないという信念が真利亜を支えていたからだ。
 キリトが中学生になる頃、弟と妹ができた。真利亜が仕事先で知り合った男と付き合い、結婚したのだった。キリトにとって初めて”父”という存在ができた。この時、この”父”となる男が新しくできた家族を大切にできていたら、キリトはその人生を早めることはなかったのかもしれない。新しくできた”父”は、弟と妹ができて数年後、新しい女を作って出て行った。”男の裏切り”というトラウマは何も裏切られた女にだけ宿るのではない。同じ男にも「あんな風にはなりたくない」という強烈な反面教師として強く脳内にこびりつき、本人の意識しないところでその人生を歪めてしまう。
 キリトは歯がゆかった。自分の出産の時には既に真利亜は独り身だったし、自分が物心つく頃には母に男に捨てられた者の不憫さはなかった。しかし、今回は母親の憔悴、裏切られたことへの悲しみ、恨み、それを子供たちに見せないように振舞ういじらしさを知ることとなった。幼い弟たちはそんな母の気持ちなど知る由もなく、無邪気に母にまとわりつき、ごはんだ、おやつだ、遊んでだのと駄々をこねる。不幸と幸せを綯い交ぜにしたようなその光景が、キリトに母親への忠誠心を育んだ。「何があっても自分だけは母を裏切らない」そう誓った。
 高校生となったキリトは、同級生らが青春を謳歌する時間も勉学に費やした。いや、勉学に時間を費やす事が一番経済的だったと言うのが正しいかもしれない。そして入学と同時にアルバイトも始めた。稼いだ金は全て母親に渡した。真利亜は最初受け取らず「自分のために使え」と諭したが、キリトは頑なだった。しばらくの間、7万円の給料が入った封筒を間にして真利亜とキリトは黙って向かい合っていたが、ようやく3歳になろうとする弟のテオが割り込んできて「ママ、ご飯ご飯」と無邪気に言うので、真利亜はようやくお金を受け取った。キリトは生まれて初めて自分の存在意義を知った心地だった。ずっと心の中で「自分は生まれてこなかった方が良かったのではないか」という思いを抱え続けてきた。「自分さえいなければ、母はもっとまともな男と出会い、まともな家庭を築くことができたのではないだろうか」と。母が自分の稼いだ金を受け取ったという事実は、彼が”子供”ではなく”男”として母を支えることができているという自負となった。その後、キリトはアルバイト代を母親に渡し続け、おかげで暮らしぶりは少しばかり楽になったし、毎月の給料日は外食するささやかな贅沢をすることもできた。真利亜自身がどう思っていたかは定かではないが、キリトは彼女を支えることで満たされていた。

 大学進学はキリトにとって、また橘家にとって悲願の出来事であった。真利亜自身が大学を卒業できなかったため、なんとしてでもキリトは大学まで進学させるのが真利亜の夢であった。キリトは母の願いに対し、日本でもトップクラスの私立大学を奨学金で通うという名誉によって応えた。進学のために東京に引っ越しをする日、母は涙を浮かべてキリトを送り出した。
 大学生になったキリトはサークル活動などで新たな交友関係を築く…といったことはなく、高校生活同様、勉学とアルバイトに励んだ。奨学生は大学の学生寮に優先的に入居できる制度もあったため、日常生活と学費についての心配はなかったが、それでも1つの授業に必要な教科書や参考文献などでそれなりの出費はかかり、なにより母に仕送りをしてやりたかった。大学生になれば多くの時間をバイトに費やすこともできるし、東京なら地方よりも時給が高い。キリトは一日でも早く真利亜に夜の仕事を辞めてほしかった。テオたちの父親と再婚してからは身を売るような仕事は辞めていたが、離婚してからは養育費だけでは心許ないと、知り合いの居酒屋の手伝いをしていた。自分は倹約に努め、アルバイトで稼いだお金のほとんどを母の郵便貯金の口座に振り込んだ。キリトは「授業は一切サボっていない、東京の時給は高いから実家にいた頃よりも稼ぎが良いから」と真利亜を説得し、彼女に居酒屋のバイトを辞めさせた。実際は出席率が評価に影響しない授業は極限まで休んでバイトをしていた。
 大学生活初めての夏休み、キリトは早々に実家に帰省した。アルバイトなら田舎でもできると思い、ならばなるべく長く家に居て母の手伝いをしてやりたかった。4か月ぶりに家に戻ったキリトを真利亜は歓迎し、その日の夜は延々とキリトの大学生活の様子をずっと聞いていた。どんな授業を受けているのか、キリトがどんな風に授業で活躍しているのか、寮暮らしは快適か…。キリトは真利亜が自分の話に聞きってくれるのが嬉しかった。キリトが家を出てからは真利亜の母(キリトの祖母)が頻繁に真利亜の手伝いをしに来ていた。この日も夕食の手伝いと久しぶりに戻った孫の顔を見に来ていたが、祖母は夕食の準備もせずキリトの話を床に座って聞き入っている真利亜を窘めた。キリトはそんな祖母に「久しぶりなんだからいいじゃないか。明日からは家の事は僕がやるから、今日だけは母さんを僕に貸してくれ。」
と言った。「母さんを僕に貸してくれ」という言葉を発した時、キリトは得もいえぬ興奮を感じた。
 夏休みも終盤になり、翌日には東京に戻る予定だったキリトは、アルバイト先から1か月分の給料を受け取り、その帰り道に花屋で向日葵の花束を買った。これがキリトにとって初めての母親へのプレゼントであり、女性へのプレゼントであった。高校生までは、真利亜の誕生日も、母の日のプレゼントも全て弟たちを入れた”3人”からの贈り物であった。また月々のバイト代も全て”生活費の足し”として渡していたので、キリトから真利亜へのプレゼントはこれが初めてだった。向日葵であることにそれほど意味はなかった。バイト先に行く道中、花屋の店先で強い日差しに照らされた向日葵の黄色い花びらが強烈に目に飛び込んできたからで、その圧倒的な鮮やかさは日々の子育てに疲れているであろう母を元気にしてくれると思ったからだ。向日葵の花束を受け取った真利亜は大喜びですぐさま花瓶に活けた。キリトが呆れるほど何度も何度も活け直すので「念入りだな」と声を掛けると、真利亜は「あなたが初めてくれたプレゼントだもの。完璧に活けないと申し訳ないわ」と向日葵に目を向けたまま答えた。キリトは母の喜ぶ姿が嬉しいと同時に、向日葵以外にすればよかったかもしれないとも思った。だがそう思う理由は良く分からなかった。そして、キリトが母・真利亜にプレゼントをしたのはこれきりであった。キリトにはその時の理由が分からなかったが、37年の人生を俯瞰してみている者がいればその者には明らかであっただろう。キリトは母に向日葵を見てほしかった訳ではななかった。向日葵をプレゼントするキリトを見てほしかったのだ。
 東京に戻るとキリトはまた同じように勉強に打ち込みバイトに明け暮れた。キリトの4年間の大学生活は、ほぼこの説明で事足りた。そんな生活で贅沢や趣味を見つけることもなかったキリトであったが、大学卒業を控えた春休みに初めて自分のためにお金を使った。それは人生で初めての海外旅行であった。キリトの通う大学には有名な私立大学だけあって、一流企業や政治家の御曹司など裕福な家で育った者が多かった。彼らは休みの度に海外旅行に行き、2単位分の科目を履修するかのような気軽さで海外の大学に半年から数年単位で留学した。そのような環境の中で腐ることなく少しずつ貯金をし、ヨーロッパに一か月ほど周遊するための費用を蓄えた。これがキリトにとってのグランド・ツアーであった。

 そしてこのグランド・ツアーで、キリトは母・真利亜に代わって自身の忠誠心を注ぐ女性に出会うのであった。

(蕾編おわり)
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 この小説は、国立西洋美術館の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー」展から着想を得て考えたオリジナルストーリーです。小説の中には、展覧会に出ている作品や本展のキーワードが散りばめられています。分かりやすく登場する作品もあれば、主題をさりげなく潜ませている作品もあるので、展覧会を観た人は宝探し的に楽しんで読んでいただければ幸いです。

次回、「開花」編はこちら。




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