平熱のティータイム
「春の夢なので、三十六度がちょうど良いでしょうね」
茶師に言われて頷いたけれど、お茶のことは何も知らない。
霞がかった空色を広げる晴れた午後に、店にいる客はわたしだけだった。L字型をしたモルタルのカウンターには炉が備えられ、据え置かれた鉄釜からほのかに湯気が上がっている。そこへ音もなく柄杓が沈められると、汲み上げられた湯は白い陶器にそそがれた。みっつ並べられた湯さましの、いま湯の張られた右側の器を茶師が手に取り、真ん中に全て流し切ってから器を持ち替え、左側の器へと移してゆく。
「こうすると十度くらいずつ、湯の温度が下がるんですよ」
何が行われているのか分からないでいる心持ちを見透かしたように、穏やかに茶師が教える。もういちど頷き、湯さましの向こうに用意されている淡い色の急須に目をうつした。ふたの開かれた平たい急須の中には、さっき切られたばかりの細かな髪屑が丁寧に平されている。
やわらかく敷き詰まった自分の髪を眺めるうち、こめかみから後頭部へと指をすべらせ、わたしの髪を束ねた茶師の手首から香った甘い茶の匂いがよみがえった。耳のふちが、ほんの少しだけ熱くなる。
はるのゆめ。
知らない路地をゆくうち偶然見つけた店に入り、品書きを渡されたけれど茶の違いなど分からないので、いちばん下にひっそり綴られていた名を指差しながら注文してみたのだった。軽い礼をして畏まり、茶師はカウンターの外に出てわたしの後ろに回り込んだ。
「触りますね」
断りを入れる低い声の、そっと風の通り抜けてゆくようなサ行の発音を好ましく思っていると、茶師の指が耳に触れた。半円を描くように頭皮を辿り、肩甲骨まで伸びた癖のない黒髪の上半分を纏めて片手持ち、晒された内側の髪にゆっくりと茶師は手櫛を通した。
「いい髪ですね」
静かに告げられ、束ねていた髪が解かれた。カウンターの上に大きな三面鏡が置かれ、首の周りにケープが巻かれ、外側を覆う髪がクリップで纏め上げられると、後頭部に金属のつめたさが添えられた。豊かな緑髪ですね。鏡越しに微笑む茶師の顔つきが誠実だったので、思いがけず泣きたいような気持ちになり、ケープの下で重ねていた手のひら同士を強く握った。日に当たらないまま伸び続けた内側の髪が、つめたい三面鏡の中でさりさりと茶師に切り落とされてゆくのを、わたしは祈るような気持ちで眺め続けていたのだった。
「どうして、三十六度がちょうどいいの」
左側の湯さましの器が手に取られたところで訊くと、「儚いから、湯の温度が高いと大切な成分が壊れてしまうのです」にこやかに答え、茶師は急須に湯を注いだ。
「温度が低いので、カテキンやアミノ酸は殆ど抽出されないと思います。でもいいのです。春の夢を淹れるには、三十六度が相応しいのです。抽出に時間が掛かりますから、ゆっくりと待ちましょう」
急須のふたが閉じられ、砂時計が返されると、カウンターの端に生けられた藤の花が思い出したように匂い立った。鳥の声がしたので窓に振り向くと、皐月に向かう空がさっきよりも青を強めている。移りゆくものを見て不安になり、正面に向き直ると茶師が心のこもった手つきで茶道具を整えていたので、
「わたし春先になると、いつも同じ夢を見るの」
囁くように正直に洩らすと、「春に夢を見るひとは素敵です」当たり前のように茶師が言うので、こそばゆい気持ちで姿勢を正した。
「夢を見るばかりで、かなわなくても?」
「叶えるための夢は、他の季節に見るものです。春に見るのはたいがいが、生きていくための夢ですよ」
一煎目の茶を淹れるための碗を、ゆっくりと茶師が温める。見た夢が急須の中で、少しずつ開いてゆく気配がする。背筋を伸ばしたまま肩の力を抜き、まだ始まったばかりの春に身をゆだね、茶が注がれるのをじっと待つ。
<1605文字>
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シロクマ文芸部の企画に参加させていただきました。
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先日訪れた「茶石」という日本茶専門店があまりにステキだったので、物語で再訪してしまいました。
美容室をリノベーションしているそうです。
内観や茶道具などは作中に出させていただきましたが、その他は全くの捏造です。お店も働いている方も、本物のほうが100倍ステキであります。
こちらで玉露を淹れていただき、大感動してきました。
箱根に行かれた際にはぜひ。
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それから今回の物語は、紫乃さんのnoteで紹介されていた村上鞆彦さんの句にも、すごく刺激を受けています。
紫乃さんの解説がなければ、何が詠まれているのか理解できなかったと思います😂
紫乃さん、いつもうつくしい俳句の世界をガイドしてくださりありがとうございます!