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大好きなピリカ文庫の話【マイピリ】
「大好きなピリカ文庫を紹介する」という、熱い企画が始まりました。
ピリカ文庫とは、noterのピリカさんから執筆依頼をうけたnoterの創作作品と、その作品群の総称。執筆依頼はペアで受け、回ごとに設定されるテーマに沿った作品が寄稿される。25年1月現在、ピリカ文庫は80回を迎え、125名のnoterによる162篇の作品が寄せられている。(noterの退会などにより読むことができなくなった作品も含む)
わたしも過去2回書かせていただいたのですが、どちらも沢山の方に読んでいただけ、noterさんとの新しい出会いにも恵まれたりして、ものすごく有難い機会となりました。
という訳で「お礼の気持ちも込めて企画参加しよ」
と思い、
過去作もさかのぼって読み始めたのですが、
これたぶん、大好き基準で選んだらえらい事になる。
ピリカ文庫の作品って書き手の熱量が高いので、力作ばっかりなんですよ。つまり面白いし「好き」と感じる作品が多い。
あれもこれも大好きってピックアップしてたら、作品数的にキャパオーバー必至。絶対紹介しきれない。
なので今回は、創作への姿勢と作品をリスペクトしてる&大好きな、わたしの中での2トップのお二人のピリカ文庫に絞り、2点集中でガチ推しすることにしました。
「この作品がすごいのは知ってますよ」
「もちろん読みましたし、何度も読みたくなるし、すごく心に残ってますよ」
と多くの方から思われてしまいそうと思いつつも。
ファン心全開で、自分なりに作品を紹介させていただきます。
【ピリカ文庫】短篇小説『里神楽』/武川蔓緒
【テーマ:祈り】
巨大ホールを貸切にして行われる奇天烈な結婚披露宴に招待された「松盛愛永」が、プレデターございますって言う物語 の目線で、新郎新婦や招待客たちの乱痴気がこれでもかと描かれる物語。◇
2024年にすまスパ界隈を賑わせた流行語「プレデターございます」の元ネタとなった作品です。
タダで振る舞われるごちそう目当てにふらっと参列した結果、どうしようもない疲労宴に見舞われた愛永の淡々としたやさぐれ感が最高。
息つく間もなく繰り出される不可思議にも痺れます。
アールデコ調のエントランスの屋根で羽をひろげる孔雀は、飾りかと思ったら、本物。
孔雀が屋根の上にいる(ハテナ度★)
披露宴会場はコンサートホール(ハテナ度★★)
親戚として呼ばれたけど、どちらの家から招待されたのかわかってない(ハテナ度★★★)
と、小説の舞台や人物の属性についての基本情報が開示される冒頭6行がまずはこんな調子。
「なんそれ」
と逐一ツッコんでいたら身がもちません。
里神楽では、不可思議がシームレスに際限なく続くので。
イトコ、ハトコ、従叔母、大叔父。
おままごとや隠れん坊や喧嘩をした近所の子、はじめて御使いした八百屋のおじさん、女でも行かされた床屋のおばさん。
いつも「仮病だね」と見破り笑ってくれた小児科医、小学生のころかよったエレクトーン教室の、鍵盤の間にカミソリをはさんだスパルタ先生。
ソープランドに今も勤める中学の同級生、高校のときつまみ食いしたクラスメイトの年上彼氏、満員電車であたしを鼻息荒くまさぐってきた後輩女子。
24時間のファミレスで深夜「寝るなら帰れ」と叱ってきたウェイトレスのおねえさん、卒業旅行の海で色んな泳ぎ方を教えてくれた民宿のおにいさん。
オリコン1位なのに田舎だから売ってないレコードを入荷してくれ関係ないポスターもくれたレコード屋の店長、万引きしたかしないかで小一時間怒鳴りあった書店のジジイ……
こういう並列表現も里神楽の大きな魅力のひとつ。
ここまで長く連ねられると、ともすれば間延びや飽きを呼ぶと思うのですが、里神楽ではむしろこれがコンボになって読み手に迫ってきます。
凡庸・あるある・不可思議がまぜこぜに並べられることで、言葉のリズムや印象に抑揚が生まれ、読む快楽を増幅してくる。そして現実と非現実の境目があいまいになり、境目で区分けすること自体ナンセンスである。という気分にさせられます。
なぜこんな並列表現ができるのか。
それは蔓緒さんご自身の軸で、「何が凡庸で、何があるあるで、何が不可思議なのか」という区分けが明確にされているからじゃないかと思う。
この区分けが出来ていない状態で同じ長さの並列表現をしようものなら、たちまち文章は輝きを失って「描写(比喩)長えなぁ、おい」と読み手からの苦情を受けることになるんじゃないかと。
・もはや『健勝であれば何でも良い』と、徴兵みたいなノリで招待した
・吹けば飛ぶ薄っぺらいスピーチ
・出番がくるころには恥ずかしさよりも脇をくすぐられるふうな可笑しさが勝っていた
里神楽は比喩もいちいち楽しい。
健勝だから、って理由で披露宴に呼ばれることあんのか?って笑い飛ばした後に「…あるかもしれん」とヒヤッとした感触を伴いながら思わされてしまう、この絶妙さ。
里神楽は不協和音のロングトーンみたいな小説なのですが、新鮮な比喩が要所要所で吹き込まれるから読んでいても酸欠にならない。もっと、もっとだ…!みたいな、トランス状態にはなるけど。(実は酸欠でラリってる説)
そんなふうに、物語がある種闇鍋のような混沌を極める中、愛永のお祝いスピーチをどう読むか?というのは本作の肝になるんじゃないかと思う。
両親は離婚。家族愛を感じることのできない環境で育ち、結婚にも子どもにも興味がないという自覚を持ち、不倫を繰り返している自身の半生と現状を自虐混じりに飄々と語りながら、「幸せになれるもんならなってみて。浅墓なスピーチでごめんね」とスピーチを締める愛永。
これだけを読めば「トラウマに蓋をして空元気で強がり、愛を否定しながらも本当は愛を求めている女性像」みたいなのが結ばれるんじゃないだろうか。
本作未読且つそんな風に思った方は、ぜひ本編のスピーチを読んでみてほしい。愛永がどんな人物であるのか、あるいは、半生や現状の情報から先述のテンプレのような人物像を連想したことが正しかったのか、迷いが出るんじゃないかと思う。
里神楽という小説は、こちらの通念をことごとく拒絶してくる。その拒絶には(本当は分かってほしいんだけどね)みたいな湿っぽさは無く、(こちとらこれが尋常ですが何か?)みたいな突き抜けた自由さがある。
だから本編を読んだ場合は、愛永の半生や現状を知った上で「常識に囚われない強さを持った自由人」みたいな人物像を結ぶ人のほうがむしろ多いんじゃないかと想像したり。こういうのが小説の力というか、面白さだよなぁと思う。
ちなみにわたしは、それも踏まえた上で愛永のスピーチを「哀愁」として読んだ派です。おセンチで回りくどい(©️愛永)ところが自分にもあるので、なんだか妙に共感してしまい、このスピーチは字面通りの明るさで受け取れない。
あとこれは完全に好みになってしまうのですが、そんな風に読んだほうが、里神楽の最大の読みどころである下記のパートを味わえるような気がします。
『おめでとう』
私はその日はじめて、プレデターでもコウメイトウでもなく、その言葉をはっきりと口にした。おなじ、やや眼の離れた爬虫類顔をもつ母子の末永き幸福を、心より祈りつつ。
「いつ祈んねん?」というツッコミはおろか、この小説が【祈り】をテーマに書かれたものであると誰もが忘れかけた頃に突如投げ込まれる『おめでとう』。
嵐のように畳み掛けられる珠玉のナンセンスで描かれた極彩色の点描画の中に、空白の絵が浮かび上がっていることに気づいて鳥肌が立ちました。
描かないことで描かれる、命を祝福する祈り。
自由であることの負債を引き受けながら、ぼんやりと世界を拒絶する愛永が口にした「おめでとう」は、その日会場で交わされたどの「おめでとう」よりもイノセンスに満ちていたんじゃないでしょうか。
◇
蔓緒さんの文章は、すごく音楽的だと思う。
意識的無意識的に計算し尽くされたリズムの力が作品に漲っていて、「小説」を推進させると同時に、蔓緒さんの「感覚に対しての聴力」の凄まじさも物語る。
自分もこんなふうに書けるようになりたいと心から思うし、「だから書き続けるのをやめないでいよう」と明るんだ気持ちになる。
作品について殆どネタバレしてしまいましたが、未読の方はぜひ。
◇
▼ 【テーマ:春風】で寄稿された作品
ひとつの恋を終えた主人公の「もう行かない」の温度感がたまらないです。
【ピリカ文庫】可逆性セレナーデ弍號機/白鉛筆
【テーマ:コインランドリー】
育児休暇を終え職場復帰したばかりの「私」が、泥にまみれた息子の洗濯物を罪悪感と共に持ち込んだ深夜のコインランドリーで、ひとりの女性に出会う物語。
◇
「コインランドリー」という、ニッチなテーマで書かれた作品。
空間・利用人物・利用目的がある程度決まっていることで、小説としては三方向からの縛りを課せられてる状態です。縛りが強いテーマで書くとき、いちばん難しいのって「日常を書く」ことじゃないかなと。
縛りが強い=登場人物の属性や挙動に幅を持たせにくい=物語の筋が似通う=それが一回性の出来事であることを表現するためには「具体性」「整合性」がより求められる
って図式になるからです。
なんか固い言い方をしてしまいましたが要するに、
日常描写のみで、よく知ってることなのに新しいと感じる小説を書くのはむずい。
と、わたしは思う、ってことです。
そして白鉛筆さんはそういうタイプの作品も鮮やかに書かれる。本作は、その色が強い作品だったんじゃないかなと思います。
可逆性セレナーデ弍號機
タイムラインで見つけてテンション上がったのも束の間、タイトルがいきなり読めなかったと言う。
知らない単語や読めない漢字がタイトルに使われていたときは、「どんな言葉なんだろう」と考えながら、そのまま本編を読み始めることにしています。
特に白鉛筆さんの作品はいつもタイトルがすごく素敵だし、語感がいいだけじゃなく物語を包括してるので、辞書より物語から意味を手繰り寄せたくなる。
深夜のコインランドリー。雨。主人公は思い詰めた様子の女性。ではなく、小さな子どもを持つお母さん。
本編を読み始め、やさしい&洗練された文章にそこまで教えられた頃には、もう完全に小説の世界に引き込まれてます。
ざりり、と罪悪感が胸を引っ掻く。
やるしかない、そう決意した直後だと言うのに、容易く揺れる自分が悔しい。
仕事にも育児にも追われる日常に疲弊した「私」が、砂まみれの息子の服を洗濯乾燥機ににぶちこむか否かで揺れる場面。
「ざりり」という見慣れないオノマトペ。
それが引っ掻く音と砂の感触をもたらすこと。
罪悪感が胸を引っ掻く、という表現。
それらから連想される、服についた泥の甚だしさ。
〈ざりり、と罪悪感が胸を引っ掻く。〉
言葉遊びと情景描写と心象風景が豊かに広がり、五感をともないながら読み手の心にせまってくる、これがミニマムだろうと感じる無駄のない16文字。
ああ、かっこよ。
普段は「好き」と思ってもここまで言語化することは無く、実際は文章を読みながら、0.3秒くらいの快楽が前頭葉のあたりをすっと横切るだけなんですけどね。
(泥まみれの洗濯物を手洗いせず、雨の中コインランドリーを訪れたことについて)
冷静に考えれば、こちらの方が時間も労力も高コストであるところ、しかし、冷静にはなれなかった。とにかくこれ以上、手を動かしたくない。働かされたくない。その一心で突き進んだ。
……とか。
あの頃は確かに思えなかったし、「捨てるって選択肢も持ち合わせてなかったよね」と、こういうくだりを読みながら、長男を生んでから数年の間に味わった色んな気持ちが思い出される。
今でこそ適当の権化みたいになってますが、わたしもその昔は育児をめぐり、常識と非常識の狭間で揺れ動くいたいけな母親だったのです。だからこの感じは懐かしい。胸が締め付けられる。分かるよ。すごく分かる。
白鉛筆さんが何でこの感じをリアルに書けんのかは、全く分からないけども。(※白鉛筆さんは男性です)
大変だよねぇ。唐突な告白に驚く様子もなく、女性は頷き、どこか能天気な相槌を打つ。立ち入るでも遠のくでもなく、ただただ側で。その距離から伝わる温もりが、雨に濡れた私を温めていく。
コインランドリーの先客である、「私」よりも二十歳ほど歳上の女性が、事情を察して寄り添ってくれるのがあたたかい。
スマホ動画でエヴァンゲリオンのアニメを鑑賞していた女性は、その画面を主人公のために切り替える。日々に忙殺されたことで不本意な選択をしようとしていた「私」に、さまざまな手段をしめしてくれるのです。
目線を上に、つらつらと列挙した後、女性は悪戯っぽい顔を私に向けた。
「いっぱいあるわね、”弐號機”」
瞬間、乾いた風を感じた。
女性の言葉が、雲間から差し込む陽射しのように、真っ直ぐ私の胸底を照らす。
この洗濯乾燥機を連想させる「乾いた風」もわたし的には激アツで。
だって物理的には洗わんかったけど、まるで一発洗濯をしたあとのような遂行感や達成感を「私」は感じてんねんでという意味を孕んでいる且つその工程が脱水とかじゃなく乾燥であることから主人公の気持ちが軽やかになっていることが分かる複数コンボの掛け言葉やんなこれ、さいこうです、ついでにいうとこの小説で洗濯されたのは「私」であり、とりわけ「私」が背負う必要のない罪悪感であったということまで「乾いた風」によって示唆されて……(止まらなくなりそうなので自主規制)
とにかく、
追い詰められた主人公の選択肢を広げ、時にエスケープの役割も果たしてくれそうな「弐號機」の存在を提唱する女性との交流は、果たして主人公の憂鬱に光を見せてくれたのです。
めでたしめでたし。
そうやって、ここで小説を終わることもできるのに、本作はむしろここから小説の核心部分が動き出す。
「あなたは、どうしてここで?」
救いを得てコインランドリーを後にしようとした「私」は、ふと女性に声を掛けます。
既婚者である、つまり、表向きは迎え入れ守ってくれる家族や帰る家を持っているはずの女性が、それらを手放して深夜にひとりコインランドリーにいる。そのことを案じると同時に、その姿に未来の自分を重ね、今しがた手にいれたばかりの「弐號機」という無敵の言葉が揺らいだような気持ちになったのではないかな、とわたしは読みました。
実際、全てを救ってくれる無敵アイテムなんてものは、現実にはないですし。
本作が読み手に希望をもたらす種類の小説であることは間違いないと思う。でも手渡してくる「希望」は、分かりやすく光を放っている電球みたいな光源ではなく、それ自体は光らない三角プリズムみたいなものだと思う。
だから読み手は自分で光を探さなければいけないし、自分でそれを光にかざなければいけないのですが。
その代わり、三角プリズムに入射した光が屈折して分散し虹の姿になって現れたとき、その虹の色は読み手だけのものになります。
「自分しか見ることのできない光」を目の当たりにして初めて、読み手は自分が物語から得た希望が本物であると信じることができるんじゃないかな。と、わたしは思ったりします。
この作品に限らず、白鉛筆さんの小説は読了した時点でものすごい満足感があるし、そこで終わったってもちろんいいと思うんです。
もちろんいいんだけど。
ゲットした三角プリズムを使ったことないかもという方はぜひ、現実の世界で光にかざしてみてほしいです。
その瞬間に驚きや喜びや元気をくれるのが、シロエン小説の真骨頂であるような気がするので。
しかし、女性は多くを語ることはなく、
「私の"弐號機"」
ただ一言そう答え、くしゃりと顔に皺を寄せた。
こういう文章を読むたびに、白鉛筆さんがご自身の兵器並の筆力を、誇示を目的に使っていないことが感じられてものすごく心を動かされます。
綴られている言葉や感覚が「小説」に対して誠実だから安心して身を委ねることができるし、読み終わったあとはいつも「ああ面白かった」としみじみ思う。
そしてどういう理屈なのかは分からないけれど、「ありがとう」という心持ちになります。
こちらの作品も、完膚なきまでにネタバレしてしまいましたが、未読の方はぜひ。
◇
▼ 【テーマ:金魚】で寄稿された作品
固有であることを求める「僕」が、金魚を継続する切実さに心がきゅってしました。
可逆性セレナーデ弍號機の紹介文でも触れましたが、ふだん読書をするときは、ここまでごちゃごちゃと言語化しながら読むことはまずありません。
大抵はコンマ数秒の喜びと、読後の余韻があるだけです。
でも、こうして言葉の力を借りて「好き」にしっかり形を持たせると、すごく満たされた気持ちになるんだなぁと改めて思いました。
この作品を読めてよかったな。
という幸せが、いま色濃く体を駆け巡ってます。
蔓緒さん、白鉛筆さん、すばらしい作品を読ませてくださりありがとうございました。
マイピリ、むちゃくちゃ素敵な企画だと思います。
引き続き過去作も読んでいきたいなぁ。
最後になりましたが、ピリカ文庫という最高にハッピーなコンテンツを運営され続けてきたすまスパメンバーのみなさまに、心からの感謝とリスペクトを。
すまいるスパイスの企画『私の好きなピリカ文庫をあなたへ~マイピリ~』に参加させていただきました。