ベルガモットのともだち【ピリカ文庫】
「自分からは誘わないのに、誘われたら絶対来る人って、何考えてるんですかね?」
羽瀬ちゃんに訊かれて、テスターの小瓶をつかみ上げた手が止まる。
定時で仕事が終わった者同士オフィスを出て、飲み会が始まるまでの時間をつぶすために駅ビルに入り、エスカレーター横の特設スペースの、白木棚に並べられたアロマオイルの香りを端から順に嗅いでいるところだった。
平然を装って指先にちからを込め、小瓶の蓋を回し開ける。
「誰のはなし? ナーコとか? 中村さんとか?」
これから合流する予定になっている同期の女性社員と、五つ年上の男性社員の名前をすらすら挙げてみせると「飲みの話じゃないです」可笑そうに羽瀬ちゃんが笑った。
「確かにあの二人が幹事してるの見たことないけど。さっきのは違くて。わたしの、トモダチの話で」
同じようにアロマオイルの小瓶をもてあそぶ羽瀬ちゃんが、トモダチ、そこだけ覚えたての外国語を話すような閊え方で言う。相槌をうちながら手元の小瓶のふちに鼻を近づけると、よく知った甘苦い果実の香りがした。グレープフルーツ。確かめるようにラベルを読み、オレンジやレモンの並ぶ柑橘ジャンルの棚に戻す。
「年に何回か、そのトモダチと映画見たりゴハン食べたりするんです。腐れ縁と言うか、もう十年以上の付き合いなんですけど、向こうから誘ってくれたことって一回もなくて。わたし、実は嫌われてますかね?」
「えっなんで? 誘ったら来るんでしょ?」
「うん。でも、もしかしたら仕方なく来てるのかなとか、断るほうが面倒だから来てるのかなとか思ったり」
「そんなわけないと思うけど」
「いやー、だって普通に自信無くなってきません?」
「それって相手から好かれてる、みたいな自信?」
「ううん、わたしたちはトモダチだ、みたいな自信」
曖昧に頷きながら、グレープフルーツの隣に置かれていた小瓶を手に取った。蓋を開くと、柑橘の皮のほろ苦さと花の甘さを複雑に編み上げたような洗練された香りが立ち昇って、
<マキちゃんげんき? ひさしぶりにあおうよ>
先週末に受け取ったLINEのメッセージと、遠藤さんの顔がふと浮かんだ。目をつむって、手の中のアロマオイルの香りを大真面目に嗅いでみる。まなうらに、遠藤さんの笑っている顔が、はっきりと思い浮かぶ。
<面白そうなとこ見つけたから一緒に行こ>
何度も読み返したLINEの文面が続けて浮かび、他の柑橘系の精油が放つ素直な爽やかさとは明らかに違う、圧倒的に完成された華やかな香りに、ぐったりとまみれていく。
「ねえ。さっき羽瀬ちゃんが言ってた自信って、もし無くなったらどうなるの?」
訊きながら、まぶたを開いてラベルを読んだ。ベルガモット。テスターの小瓶を棚に戻すと、いつの間にかスマホをいじっていた羽瀬ちゃんが顔を上げて首を傾げる。
「たぶんですけど、その人との関係を、なんて呼んだらいいのか分からなくなる」
◇
それでも、すぐ隣に座っていれば体の輪郭くらいは分かるだろうと思っていたけれど、照明が完全に落とされると、遠藤さんの姿はひとすじも見えなくなった。
「ほらね? 言った通り、本当に何も見えないでしょう?」
案内役のカナさんの声が、さっきよりも明るく感じられる。
「完璧な闇」を体験するアクティビティに遠藤さんと参加して、地下の小部屋に、他の参加者と共に六人で車座になっているのだった。目をひらいていても閉じていても視界の変わらない、耳鳴りが起こりそうなほどの暗闇に気圧されて、思わず右隣に手を伸ばし腕を掴む。
「わ。マキちゃん触ってる? よね?」
「暗すぎてこわい」
「わかる。なんか深海でめちゃくちゃに海流に転がされて、でんぐりがえりしまくってる感じ」
わくわくした声を上げる遠藤さんの二の腕が、ブラウス越しでも分かるくらいに細い。いいな。駆け抜けるように思いながら「ごめん、その例えはわかんない」笑いながら言ったつもりだったけれど、声だけになったわたしは、思いの他ひんやりとしている。
遠藤さんに会うのは一年半ぶりだった。
普段からLINEのやり取りをするわけでもなく、SNSをしていないのでお互いの近況も知らない。遠藤さんは、けれど昨日会った相手に話しかけるような軽やかさで、年に一度連絡を寄越してくる。そしてその連絡は今も変わらず、わたしを簡単に舞い上がらせる。舞い上がることは、嬉しくてこそばゆくて、ほんの少しだけうらめしい。二の腕を掴む手に、思いがけず力がこもる。
「アクティビティ中は、ニックネームで呼び合いますよ」
カナさんに自己紹介を促されて「ルイです」遠藤さんが澄んだ声で言ったのに続き「マッキーです」職場での呼び名で挨拶をすると、わたしの声はのっぺりと平べったかった。全員で立ち上がり、渡された白杖で足元を過剰に確かめながら、そろそろと部屋を移動する。
頬に涼風を受けたと思ったら足の裏が芝を踏み、鳥の声の隙間から仄かにせせらぎが聞こえ、追いかけるように水の匂いがやってくる。みずだね。みずがあるね。暗がりのあちこちから、灯るように声が上がる。
「マッキー、気持ちいいね」
馴染みのないはずのニックネームで堂々とわたしを呼ぶ遠藤さんの声が、ひときわ大きな灯しを作って「気持ちいいですよね」「楽しいですね」他の参加者たちの伸びやかな灯りを次々に引き寄せていく。いいな。こぼれ落とすように思うと、体の上半分は右に、下半分は左にねじれて、だんだんと千切れていくような心地がした。どうせ何も見えないので笑っても笑わなくても関係ない、真顔のまま「ほんと気持ちいいね」穏やかさを繕った声で返事をしながら、遠藤さんに初めて会った時のことを思い出す。
ひかってる。
入学式の日に、教室の後ろでハルや小夜と親しげに話している遠藤さんを見て、そんなふうに思ったのだった。何一つ校則を破っていないのに、ただのセミロングを耳にかけているだけなのに、放たれる存在感があまりにも強く薫って、いつまでも目が離せなかった。
仲良くなりたくて近づいたのに、近づけば近づくほど、遠ざかりたくてたまらなくなった。
中高一貫の女子校で、出会ってから卒業するまでずっと、遠藤さんにあこがれていた。この人になりたいと切望して、この人に敵うことはないと思い知って、仲間内でわたしだけが、彼女を「ルイ」と呼べなかった。
「どうぞ。今日はアールグレイです」
全き漆黒をかき分けながら部屋を渡り、最後に足を踏み入れた部屋でアイスティーを注文した遠藤さんが、カナさんから飲み物を渡されると覚えのある香りが漂った。いい匂い。うっとりと呟く声に、氷の揺るぐ音に、液体の流し込まれていく気配に、体全部をそばだてる。この部屋の席についたときからずっと、何かの仇を取っているような気持ちで、右隣に座る遠藤さんを無表情で見詰め続けていた。
「ここ、ほんとすごいね。来てよかったね」
発せられた声がこちらに向き、つめたいベルガモットの吐息が鼻先を掠めていく。
いいな。溢れ返るように思い、泣きたくなるような、突き飛ばしたくなるような、それから平伏して許しを乞いたくなるような、掻き回され放り置かれた泥水の上澄みに似た透明な憎しみを込めて「どうして誘ってくれたの?」さらりとした声を作り、黒暗に向かって問いかける。
「だって。マッキーは、わたしにとって、会いたくなる人だから」
迷いなくそっと答えた遠藤さんが、どんな顔をしているのかは分からない。
どこまで行っても、ひらいた目のふちから、もろもろと輪郭が崩れていくような暗闇だった。言葉が見つからずに頷いたけれど、無視しているみたいになってしまったので「うん」取ってつけたように声を出す。何も見えないのに世界が滲んでいくのを感じながら、豆のやたら芳ばしく香るアイスコーヒーに、ゆっくりと口をつける。
◇
このあとは先約があって。
食事に誘ってくれた遠藤さんに謝りながら夕方で別れたけれど、予定など何もないのだった。意味もなく道なりに進み、国立競技場を過ぎ明治神宮球場を過ぎ、青山通りに向かってぼんやりと歩いていく。
着信したのでスマホを見ると、羽瀬ちゃんからの電話だった。
「へい、もしもしー」
「ねえマッキーさんどうしよう、セパタクロー観戦しに行こうって言われた」
「え、なんの話してる?」
「いまLINEで誘ってくれたんです、こないだ言ってたトモダチが。来週の日曜空いてる?って。空いてるに決まってるだろ。今から服もブラも買いに行きます。もう待ちくたびれたから、わたしが襲う」
涙声ではしゃぐ羽瀬ちゃんに「トモダチって、やっぱ男の話だったのか」言って笑い飛ばしたつもりが、熱くなった目頭からつぷつぷと涙が湧きこぼれた。手の甲で拭って顔を上げると、道路脇に高く連なるイチョウの樹に入日が強く射している。
「羽瀬ちゃん、よかったね。きっと上手くいくと思う」
「そうですかね、そうだといいな」
「ところでセパタクローってなに?」
「知らないです」
「だよね」
「いいんです、その辺は何でも。あぁすっごく嬉しいよう」
電話口から次々に放たれる明るい声に頷きながら、何が胸をいっぱいにしているのかは分からないけれど、いつまでも涙が止まらない。
紅葉が始まったばかりのイチョウ並木を仰ぎ歩く。
レモンイエローの、ライムグリーンの、そのどちらともつかない、移ろいの最中にある名前の無いきみどりの、途方もない数の樹葉をイチョウの樹は色とりどりに宿らせて、燦々と光っている。
<3816文字>
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ピリカさんにお声がけいただき、葵さんと一緒にピリカ文庫によせる小説を書かせていただきました。
ピリカさん、嬉しいお誘い本当にありがとうございました!
こちらは、作中に登場した暗闇アクティビティ。
五感を研ぎ澄まして飲むビールはどんな味がするんでしょうか。行ってみたいなぁ。
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【10/23 追記】
……と思ったら、どうにも行ってみたくなり、昨日行ってきました!
お伺いしたのは、三井ガーデンホテル神宮外苑のダイアログ・イン・ザ・ダーク。(竹芝にもあるそう!)
めちゃくちゃエキサイティングな体験をさせていただきました。
ものすごい冒険をしてきた気持ち。
今回アテンドしてくださった方はイケボのお兄さんで(キュン)、お話する中で繊細な気づきをたくさんいただきました。
参加者はわたしを含め2人だけだったのですが、もうひと方も本当に素敵な方で、つくづくこの回に参加できてよかったなぁと。
体験後、受付にいらしたお姉さんも交えてダイアログ・イン・ザ・ダークに来たきっかけについてお話していた時に「noteに書いたからですー」って言ったら、
公式が見に来てくださってるんですが!!
そしてコメントまで残してくださってる!!
神対応すぎます。感激です。ありがとうございます。
ちなみに、「noteに書いた」なんて普段だったら死んでも言わないので、これも暗闇コミュニケーションをした効果だったのだと思います。
「一緒に得る」より「一緒に失う」の方が、人間の垣根のようなものを飛び越える力が強い気がするな。
と、むかし何となく寂しい気持ちで考えたことがあったのですが、喪失が人を結びつけるんじゃなくて、喪失した瞬間から始まる構築が人を結びつけるのかもしれないな。と思ったりしました。そしてその構築は、本当は、ほとんど人間の本能に近いのかもしれないな。などと思ったりしました。
追記が長い。すみません。とにかく、行ってきてよかったです!
▲「ダイアログ・イン・ザ・ダークの世界」のマガジン、面白かった!
体験された方のnoteもまとめられています。