大阪城は五センチ《 10 》 【創作大賞2024】
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《7》《8》《9》《10》《11》《最終話》
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多部ちゃんが、キャベツの中から青虫が出てくる歌をうたっている。
にぎった手の右と左の親指を順に立て「にょき、にょき」と歌う多部ちゃんに合わせて、ナッチが同じ形に親指を立てていく。
おとうさんあおーむしー。
楽しそうに歌うナッチの、ポニーテールにまとめ損なわれた細くて頼りない後れ毛が、白いうなじをほわほわと覆っていた。こんな小さな子どもの相手の仕方を、多部ちゃんが知っていることが意外だった。昨日と同じ和室でお茶をすすりながら、ふたりの手遊びを見学する。
昼を少し過ぎてから、多部ちゃんは見知らぬ家族と共にマカロニさんの家にやってきた。たまたま電車で隣り合い、ナッチに話しかけられたのをきっかけに会話をするうち、目的地が同じであることが分かったのだと言う。宿泊予定の多部ちゃんと家族を和室に通し、お茶を出したマカロニさんは、今日はナッチの父親を引き連れて二階に上がり、布団を部屋に運び入れるのに忙しくしているようだった。
「これ、去年の夏に四国の家に行ったときの写真です」
正面に座っているナッチの母親が、スマホの画面をこちらに向ける。反射しない角度を探しながら見てみると、独創的なデザインの一軒家を背景に、家族三人が楽しそうに寄り合っていた。
写真は家の裏手で撮られたものらしい。一帯は原っぱになっていて、木製のすべりだいやブランコが置かれていた。敷地の向こうは田んぼなのか畑なのか、豊かな緑色が山裾まで続いている。リビング、バーカウンター、図書室、キッチン。一定のリズムで、ナッチの母親が画面をスライドさせていく。
「ここは施設がすごく綺麗でした。温泉も湧いてたので、おすすめですよ」
「いいとこですね。あ、ケーキ食べてる。このときナッチ誕生日やったんですか」
「そうです、五歳の誕生日でした。家主さんにも滞在中の方にも祝っていただいて。名知香も喜んでました」
「いいですね、そう言うの」
「うちは、時間が許す限り色んなとこに滞在したいと思ってて。幼児期にふれたものって、生涯を通して『当たり前のもの』になるような気がしませんか。ネイバーを利用すると、知らない土地に滞在することも、そこで生活してる人に出会うことも、その人たちと仲良くなることも、全部当たり前だから。それがいいなと思って」
「ああ。確かに、そうかもしれないですね」
「地図を見て人間が住んでることを知ったときに、誰かの顔を思い浮かべられるような子になってもらいたいんです。見たことないものを、自分の大切にしてるものに繋げていけるような。ネイバーを利用することが、そういうことにつながっていくのかは分かりませんけど」
熱量高く語る母親から、心酔しているのか思い詰めているのか分からない、不安げな笑顔を向けられて返事に困り、多部ちゃんがお土産として持ってきたキャラメルサブレを「よかったら食べてください」と勝手に勧めた。
納戸から家族分の布団を部屋に運び終えて、二階からナッチの父親が下りてくる。夫婦で並び座り、娘の様子を眺めながら午後の予定について相談を始めたので、わたしも多部ちゃんに振り向いた。もう何回目になるのか分からないキャベツの歌は、ちょうど三番にさしかかっている。
一番で親指だけを立て、二番で人差し指だけを立てる手遊びの、三番のおにいさん青虫はまさかと思って見ていると「にょき、にょき」と言いながら多部ちゃんが勢いよく中指を立てた。ナッチの母親はこの手遊びを見慣れているのか、おにいさん青虫を左右にゆらす娘を見ながらくすくすとお菓子の袋を開けている。
「みんな今日はこのあと、どうするか決めてるん? 古墳もあるし、海もあるよ。子どもさんが喜ぶのは、海のほうかも知れん」
遅れて下りてきたマカロニさんが、階段から声を掛けてくる。母親がすぐにGoogleマップを開き「この海なら歩いて行けそう」と父親に画面を見せた。夫婦の様子を眺めつつ、暇を持て余しながら三つ目のキャラメルサブレの封を開けて、ぼりぼりとお菓子を噛む。せっかく多部ちゃんが来ているのだから、わたしだって早く多部ちゃんと遊びたい。
お菓子を食べてお茶を飲み切り、手遊びの様子をうかがった。にょきにょきと生えた多部ちゃんの十本指の青虫は、今日何度目かのちょうちょになって、ひらひらと部屋を飛んでいる。
◇
和室を出て部屋に荷物を下ろしてから、すっかり多部ちゃんに懐いたナッチにせがまれ、結局全員で海に出た。
府営公園の敷地内にある人口の海水浴場は、白砂の浜が遠くまで続き、海に沿って遊歩道が整えられている。公園の入り口からぞろぞろと海に向かい、けれど砂浜まで降りるのは面倒だったので、わたしは手前の石段に腰を下ろした。
波打ち際に父親と母親が立ち、その前をナッチが悲鳴まじりの笑い声をあげて、多部ちゃんから逃げ回っている。肩と水平になるまで上げた肘の、そこから下の腕をぶらぶらと揺らしながらがに股で浜を走り抜ける多部ちゃんを見て、さっきまでごく普通の鬼ごっこを繰り広げていたナッチの父親が引いている。
色の鈍い冬の海岸を、エメラルドグリーンのフリースが跳ね回り、挙動の不気味なショッキングピンクのコートが追い回していた。
まるで親子みたいなふたりの様子を、大笑いしながら動画におさめ、こちらに気づいて手をふる多部ちゃんに大きく手をふり返す。録画を終了してスマホをしまいながら、そう遠くない未来で、本当に誰かのお母さんになってこんな風に遊んであげている多部ちゃんを、わたしは見ることになるような気がした。ちく、と淋しさが胸をさしたので、
(いや。祝ってあげられなくて、どうすんねん)
嗜めるように思い、膝をしっかり抱えて座り直す。冷たい海風に体が冷え始めていた。ショッキングピンクのコートがエメラルドグリーンのフリースをつかまえ、しっかりと抱き込むのを見届けて立ち上がる。
駐車場の入り口まで戻り、自動販売機で温かいお茶を二本買って戻ると、いつも通りの沈着した様子で多部ちゃんが石段に座っていた。家族は、と見渡すと、砂浜にしゃがんで頭を寄せ合っている。三人で山を作り始めたらしかった。
「おつかれさま。はいお茶」
「ありがとうございます」
「多部ちゃん、子どもの相手すんの上手いな。びっくりした」
「子ども好きなんです」
「手遊びとかどこで覚えんの」
「キャベツは自分が小さいときに保育園で。あとはYouTubeとか。暇なとき見てるんです」
「へええ。そうなんや、知らんかった」
「わたしほんまは、保育士になりたかったんです。でも保育士の給料やと、二十代で家買うの難しいと思ってやめました。家のために夢蹴って、アホやと思います?」
「思うわけないやん、えらいよ。多部ちゃんは立派。仕事でもそれ以外でも、いっつも思ってるよ」
ペットボトルで手のひらを温めながら言う。ついでに首元や頬にもあてて暖をとっていると、しばらく海を向いて銅像みたいに固まっていた多部ちゃんが口を開いた。
「由鶴さん。また突然の話、していいですか」
「いいよ。今度はいくらの家買うたん?」
「わたし昨日トモリと別れました。というか振られました」
「え。……えっ、ええっ? なんでや、嘘やろ」
「ほんまです。今月の始めくらいに別れ話が出て。何べんかに分けて話し合ってたんですけど、昨日正式に別れることになりました」
「そんな。だって。結婚考えてるって言うてたやん」
「本人は最後まで口に出しませんでしたけど、家がきっかけです。わたしが家買うたんが、トモリにとっては何かの止めやったんです。だからしゃあないんです。家を買わない選択は、わたしの人生になかったんで」
立ち上がったナッチが両手を振りながら「たべちゃん見てー」と高く積まれた山の前で跳ねている。ナッチの声を掻き消すように、沖に浮かぶ空港からごうごうと飛行機が上がっていく。言葉を失っているわたしの横で「すごいやーん」とナッチに返事をした多部ちゃんが、一息にお茶のふたを捻じり開けた。
海面にほど近いところを連なって飛ぶ鳥が、群れたり広がったりを繰り返す。先頭に抜け出た一羽がヨットハーバーのほうへと飛んで行くのを目で追いながら、にじるようにお茶の蓋を開けた。
トモリくんは、初めて付き合った人なのだと言っていた。今年で十年になるのだとも言っていた。なんと声を掛けたらいいのか分からず、混乱しながらお茶を飲む。一直線に飛んでいた先頭の鳥が、急に方向を波打ち際へと変えて着水した。とつぜん呑気に波間に浮かび始めた鳥を見ながら、相応しい言葉を懸命に探して、もう一口お茶を飲む。
「由鶴さん、さっき沖のほうで鳥が何羽飛んでたか分かります?」
ほとんど会議のときのテンションで訊かれ、海に漂う鳥と多部ちゃんの横顔を、あわてて交互に見比べた。「増えたり減ったりしてた鳥のこと?」正解をはかりかねて自信なく答えると、しんと沖合を見つめたまま、多部ちゃんが小さく首を振る。
「数はずっと一緒です、全部で五羽飛んでました。由鶴さんが見てた先頭の一羽を他の四羽が追いかけて、そのうちの一羽が群れからはぐれて行きました。トモリはそういう、はぐれて行くものをハラハラと目で追うタイプなんです。わたしは鳥を見たら、何羽おるか数えたくなります。数えたら終わりです。でもトモリと長くおったから、わたしは鳥が五羽飛んでることも、一羽がはぐれたことも、両方見えたんです。トモリと同じ世界を見てみたいと思って、自分の目ぇの中にトモリの目ぇを住まわせ続けてきたんです。なのになんで。あんなこと言われなあかんねん。わたしほんまに、トモリのこと好きやったんですよ」
多部ちゃんの目から、涙がひとつぶ伝い落ちた。おろおろしながら背中に手を当てると、それ以上泣くのを堪えているらしい体が、こわばったまま震えている。
「多部ちゃん、我慢せんと泣いちゃえば」
「いやです。これで泣いたら悔しすぎます」
「じゃあ今からそいつを殴りにいこうか」
「チャゲアスですか。なんでこのタイミングなんですか」
「ごめん何となく。というか、よう分かったな今」
「世代ちゃうのにファインプレーでしょ。褒めてください」
「えらい。多部ちゃんはえらい。多部ちゃんは、ほんまにえらい」
背中を撫ぜながら連呼すると、鼻をすすった多部ちゃんが、ふっと体の力を解いて笑った。高く積んだ砂山に、トンネルが貫通したらしい。ナッチが興奮した様子で立ち上がり、たーべーちゃーん。と走り寄ってくる。多部ちゃんが真面目な顔つきになり、さっきの鬼ごっこの角度で肘をさっと上げた。キャーと甲高い声でナッチがのけぞり、わらいながら砂の上に尻もちをつく。
「由鶴さん、わたしはいつか結婚したい。子どもも産みたいです。たくさん」
コの字にした腕をぶらぶらと揺らしながら多部ちゃんが言う。腰をぬかしたまま笑い転げるナッチを、父親がいとおしそうに抱き上げて砂を払ってやっていた。完成した砂山を念入りに写真におさめていた母親が、スマホをしまってふたりの元へと歩み寄っていく。
「多部ちゃんはきっと、いいお母さんになると思うよ」
素直に思い、多部ちゃんにそう言うと「由鶴さんは?」と訊き返されたので首を傾げた。
「なにが?」
「由鶴さんは、展示会のときの平和顔の人と、そう言うこと考えたりしないんですか?」
「え」
「どう言う関係なんかは聞きませんけど。あの人のこと、好きなんですよね?」
「いや。あの。初めて会うたひとやけど?」
「無理ですよ、あんなん誰が見ても分かりますって。それに由鶴さん、去年くらいから顔つきが優しくなって。だから展示会で見たとき、あぁこの人の影響やったんや。ってすぐ思いました」
ほとんど確信した口ぶりで、多部ちゃんが言い当てる。ぐうの音も出ずに口ごもっていると、目の前に草原が思い浮かび、その中をうれしそうにマレーバクが歩き始めた。
ながい鼻をこころもち丸めて、つぶらな目をまぶしそうに細めて、耳の産毛はやわらかな風を受けてそよそよとなびいている。黒いからだに白いおしりをゆらして、気持ちよさそうに歩を進めるマレーバクの草原が、あまりにもいい天気で泣けてきた。このやすらかな風景が、この先もほんの少しだって壊れて欲しくないと思った。マレーバクが幸せそうに歩いて行くのを一心に見つめながら、
「そう言うことは考えたことないし、きっとこれからも考えへんと思う」
迷いなく答えて、お茶を飲む。「そうなんですね」と呟いた多部ちゃんが、それ以上詮索することなく石段から腰を上げた。ナッチを真ん中にして手をつなぎながら、家族がこちらに向かって歩いて来ていた。多部ちゃんに続いて立ち上がり、尻の砂をさっとはらう。
◇
その日の夜は、多部ちゃんの寝息が聞こえ始めても眠れなかった。
布団を頭からかぶって風俗のアプリを開き、DM画面をどれくらい眺めていたのかは分からない。耳鳴りを聞きながら入力画面を表示して、
「会いたいです。予約できますか」
指先でとつとつ文字を打ち込み、笹舟を放つようなさりげなさで宇治に送った。
<ありがとうございます。次の日曜とかどうですか>
息を殺して見つめていたDM画面に、数分も経たないうちに返信がつく。ほんの少しの軽薄さも滲ませずに、誠意を持って隔たる宇治のメッセージが、にくたらしくて、少しさみしい。並べられた言葉を何度も読み返して、了承の返信を打った。あのとき、初めて会ったセラピストが宇治でよかった。抱きしめるように思いながら画面を閉じ、スマホを枕の下に突っ込んで目をつむる。