三日月めくり
月めくりは、満月でなければしてはいけないと言われているのに、ノモトさんがしきりに勧めてくる。
「めくりなよ。ウチは満月以外も合法だった時代からやってるから、危ないときは、ちゃんと分かるの。仕入元とも28年の付き合い。変なもの絶対よこしてこないよ」
誇らしそうに言いながら、ノモトさんは手際よくシェイカーを振る。
五席あるバーカウンターの、端から端までを覆うようにして置かれた巨大な右足のひざには、14日目の月が貼り付いている。
お酒と煙草と月めくりは、成人してからと決められている。
お酒と煙草は母が止めるので手を出さなかったけれど、今年の春に成人の日を迎えて、月めくりはすぐに覚えた。乾いて盛り上がる月のふちに爪を立てて、ほんの少しだけ端を反らせたところを指でつまんで、めりめりと剥がしていくのはものすごく気持ちがいい。めくったあとにあらわれる突っ張った薄桃色の皮膚を、さらさらと撫でるのも堪らなくいい。
どら焼きほどの小さなものからマンホールほどの大きなものまで、給料日のたびにノモトさんの店で月をめくってきたけれど、満月ではない月を出されたのは初めてだった。
「でも、満月じゃない月をめくったら、吸われちゃうんでしょう?」
「ちょっとくらいなら平気だよ」
「こわいからやめとく」
「なんで。昔はみんな吸われてたよ」
「ノモトさんも、よく吸われた?」
「吸われた吸われた。だからね、僕らの世代は、いい月って見ただけで分かるよ。今日のやつは特別にいい」
シェイカーで十分に冷やされた青いジュースが、カクテルグラスに注がれる。右足のせいでカウンターに物が置けないので、グラスは直接手渡された。口をつけると、花の匂いのするシロップの底から、絆創膏と消毒液と正露丸が一緒くたになったような、救急箱の味が湧いてくる。
ね。ちょっとだけ、めくってみたら。
しんと横たわる右足の向こうから、ノモトさんが愉しそうにそそのかす。だってミカヅキをめくるわけじゃないんだからさ、これなんか、マンゲツとほとんど変わらないじゃない。ざらざらした月の表面を、ノモトさんの手のひらが、なめるように撫でまわす。
「それじゃあ。ちょっとだけ」
せっかくそそのかされたので十四日目の月の端をほんの少しめくり上げてみる。いいねぇ、もうちょっと。ほらほら。あともうちょっと。ノモトさんに乗せられて、まだ満ち切っていない月をじりじりと剥いでいく。
ついに全部めくってしまうと、ひとまわり小さい、十三日目の月があらわれた。さっきより欠けたふちの部分が仄暗く膿んで、じくじくと波打っている。顔の真ん中が月に引っ張られていくような気がして思わずアゴを震わせると、
「まだまだ、いけるよぉ」
ノモトさんが言うので、十三日目の月もべりべりと剥がした。じょうずだねぇ。よくできたねぇ。もっと、めくってみたいねぇ。誘うようなノモトさんの声に頷きながら、十二日目の月をめくり十一日目の月をめくる。
ひざの上で面積を増やしていく、膿んだ影がますます引力を放つ。顔中がぐねぐねと勝手に動き回るので、ジュースを飲もうと思ったけれど、くちびるの場所が分からなかった。右目も左目も顔面を這い回っているのかもしれない。視点の定まらないまま手探りで半月をにちゃりとめくって、バーの床に投げ捨てる。
三日月の先に手をかけると「いやぁ、さすがに、ここまでかな」恍惚としながら止めるノモトさんの目耳鼻口が、福笑いのように顔面の上でとっ散らかりながら、月に吸われて真ん中から伸びていた。自分も同じような顔をしてるのだと思うと面白くて仕方がなくて、ふつふつと笑いがこみあげる。
「うそれしょう、もっとわすれたいれしょう」
呂律の回らなくなった口が、きっと額のあたりで喋っている。へらへらしながら「かんぱい」ノモトさんに残ったジュースを浴びせ掛けて、勢いよく三日月をめくりあげる。
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シロクマ文芸部の企画に参加させていただきました。
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