春の歌 十選(一) 雪のうちに 春は来にけり
和歌と現代語訳
二條后(にでうのきさき)の春のはじめの御歌
雪のうちに 春は来にけり 鶯(うぐひす)の
こほれる涙 今やとくらむ
古今和歌集 二條后(にじょうのきさき 藤原高子)
(現代語訳)
二條后(にじょうのきさき)が詠んだ歌
(庭先に)雪は積もっているが 春はやって来た (谷間にいた)鶯は
(冬の寒さのために流していた)涙は凍っていたが それも今はとけているだろう
涙を流す鶯
七十二候「東風(こち)凍(こおり)を解(と)く」にもとづいて詠まれた歌です。
立春になって、東から吹く温かい風が氷をとかすという七十二候の意味と、寒さ厳しい谷間で、鶯の流した涙も凍っていたが、立春になってその涙もとかしているだろうという歌の意味が重なっています。
始めの二句「雪のうちに 春は来にけり」は実際の風景、後半の三句「鶯の こほれる涙 今やとくらむ」は想像の世界を詠っているのでしょうか。
実際の風景を見ているうちに、想像の世界へと気持ちが動いていったとも言えますね。
「鶯のこほれる涙」というフレーズは大変に印象的です。もちろん、鶯が涙を流すというのは作者のイマジネーションです。
このフレーズは後世にも影響を与えていて、惟明(これあき)親王は次のように詠んでいます。
鶯の 涙の冰(つらら) うちとけて
ふるすながらや 春を知るらむ
(現代語訳)
谷間の寒さで鶯の流した涙はつららとなっていたけれど
立春になってその涙もとけて
古巣にいた鶯も春の到来を知ったことだろう
『新古今和歌集』に載っているこの歌では、鶯の涙が寒さのためにつららになっているというのです。
もちろん想像の世界でありますが、つららにまで誇張されているのが面白いですね。
伊勢物語の主人公、在原業平との激しい恋
作者の藤原高子(こうし)ですけれど、歌人で平城天皇の孫、在原業平(ありわらのなりひら)とラブラブの関係にありました。
ところで、女性の名前の呼び方ですが、作者の「高子」をどう呼ぶのか? 実は当時どう呼ばれていたか、資料は残っていません。なので、どう呼んだらいいのか分からないのです。そ
こで、普通は音読みで呼ぶのが通例となっています。高子の場合は「こうし」。「たかいこ」と表記されることもありますが、そう呼ばれていたかは、はっきり分からないんですね。
話を在原業平に戻して、業平は天皇(平城天皇)の孫という高貴な血筋でした。しかし、叔父の高岳親王が薬子の乱に関連して廃王子となり、兄の行平中納言も文徳天皇の皇嗣問題に関連して失脚。業平も、政権から遠ざけられてしまったのです。
そんな業平ですが、外形は美男、プレイボーイでした。しかも和歌がうまい。業平は昔から美男の代名詞です。
その業平が高子のところに通うようになりました。皇后になる前のことです。
このあたりの事情は「伊勢物語」に書かれています。
「昔、男ありけり。ひむがしの五条わたりに、いと忍びて行きけり。密かなるところなれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり」
密通ですから、表門からは入れません。築地の崩れた所から忍び込んで、人目を避けているわけです。
しかし、ついにバレます。高子は名門藤原氏の出身。将来の妃候補です。高子の兄たち(基経、国経たち)からすれば、平城天皇の孫とはいえども、政治の表舞台からは遠ざけられた業平は、妹の相手ではありません。
兄たちは、築地の崩れにも番人を立たせ、業平が通えなくします。業平は、高子に和歌を送ります。
人知れぬ わが通ひ路の 関守は
よひよひごとに うちも寝ななむ
(夜になったら番人が寝てくれれば、あなたのもとに通えるのに)
こうした日が続いたある夜、業平は大胆な行動に出ます。夜、高子を盗み出してしまうのです。
高子を背負い、芥川(大阪の高槻市にある芥川のことだと言われています)を渡って行くふたり。高子は草の上の露を見て「あれは何?」と業平に聞きます。
深層の姫君として大切に育てられた高子は、露を見たことがなかったのです。
下の絵は、月岡芳年が描いた《在原業平と二条后》です。業平が高子を背負って逃避行している場面です。
雷鳴が轟き、雨が強く降ってきため、ふたりは粗末な倉に入りました。業平は、高子をその中に入れて、自分は弓矢を持って戸口の見張りしました。
しかし、兄たちに見つかり、高子は連れ戻されてしまいます。
失意の業平は、歌を詠みました。
白玉か 何ぞと人の 問ひし時
露と答へて 消えなましものを
(あれは何とあなたが聞いたとき、「露だよ」と答えて、私も露のように消えてしまえばよかったのに)
何とも頼りない男ですなあ。平安時代の貴族というのはこういうものだったんでしょうか? それとも、業平のプレイボーイ術なのでしょうか?
怒り狂った高子の兄たちは、業平を押さえつけて髪を切ったと伝えられています。
また、このことを聞きつけた帝も、業平を従五位から従六位に降格し、東国に追放してしまいます。やむなく業平の東下りとなるのです。
幼帝を補佐して活躍
連れ戻された高子は、清和天皇と結婚。清和天皇は、高子の9歳年下でした。
高子27歳のとき、貞明親王(後の陽成天皇)を産みます。
親王は九歳で天皇に即位。高子は夫(清和上皇)、兄の藤原基経とともに幼帝を輔佐して(基経は摂政)、政治の場で活躍を始めます。
一方、在原業平は蔵人頭となって、天皇に近侍するようになりました。すると高子とも顔を合わせる機会があったのではないでしょうか。高子にしてみれば、かつての恋人が、再び目の前に現れたのです。
ちはやぶる かみよもきかず 龍田川
から紅(くれない)に 水くくるとは
(不思議なことが多くあったという神代の頃にだって聞いたことがない。竜田川の綺麗な紅葉が、流れる水を鮮やかな赤の絞り染めにするなんて)
これは、業平が高子に捧げた歌です。高子への愛のメッセージが込められているのかもしれません。
そして高子は、今回の冒頭で紹介した和歌を詠みます。
雪のうちに 春は来にけり 鶯(うぐひす)の
こほれる涙 今やとくらむ
((庭先に)雪は積もっているが 春はやって来た (谷間にいた)鶯は
(冬の寒さのために流していた)涙は凍っていたが それも今はとけているだろう)
高子と業平の恋の成り行きが分かると、意味深な歌ですね。
晩年、皇位を廃される高子
業平は蔵人頭に就任。しかし翌年、五十六歳で世を去ります。同年末には高子の夫の清和上皇も他界します。
高子は夫・清和上皇、兄で摂政の基経とともに幼い陽成天皇を輔佐していましたが、清和上皇が崩御し、関係が良くなかった基経とも対立。基経は陽成帝を退位させます。
高子は内裏を離れて二条院に移り、二条の后と呼ばれました。
寛平八年(896)のこと、高子は自ら建立した東光寺の座主善祐と密通したことを理由に、皇太后の地位を廃されてしまいます。高子五十五歳のことでした。
※和歌の現代語訳のなかには、筆者(蓬田)による意訳もございます。
※間違いや、違う解釈がありましたら、ご教示ください。
※画像はWikipediaより引用しております。