ウインクする写真家の話
「親指と人差指を伸ばして、両方ともね。右手の親指と左手の人差指、左手の親指と右手の人差指を合わせて…そうそう上手ね。」
谷から吹き下ろす風が壁の隙間を通り、薪から覗くように顔を出す火を揺らす。
斜陽の光が消える頃、薄暗く底冷えのする家の中、私は祖母の荷物の中からゴツゴツとした四角い箱のようなものを見つけ、うつらうつらと船を漕ぐ祖母の元へ持って行った。
「おばあちゃん、これなあに?」
こっくりこっくりしている祖母の肩を持って大きく揺らそうとしたけれど、ちょっと悪い気がして肩をトントントンと叩いた。祖母は目を開け私の顔を見る。私は真っ赤な鼻をズビズビと鳴らしながら、四角い箱を持ているので鼻が垂れてしまっていた。祖母は近くにあったボロ布を掴んで私の鼻を覆う。
「そんなのどこから持ってきたの?…これは、写真機さ。」
「しゃしんき?」
私はブーっと鼻を鳴らした。
「写真機っていうのは、風景や思い出が込められた光を紙に焼き付ける為のものだよ。目で見たものがそっくり紙に映るのさ。」
「そのかみは、なににつかうの?」
「そうねえ…集めてアルバム、絵本みたいにしたり、それを眺めて昔を思い出したり。ともかく忘れたくないものを残しておくの。」
私は首を傾げる。
「わすれないよ?だって、きのうのごはんも、おばあちゃんといっしょにたべたのも、さじをおとしてひろおうとしていすからおちちゃったのも、おぼえてるよ?」
「あっはっはっは!」
祖母は大声で笑ってその流れで咳き込んでしまった。
「ゴホッゴホッ、わたしゃゴホッ、あー、昨日のご飯すら忘れるのよ。あんたは覚えていられるかもしれないけどねえ。皆がみんな、あんたと同じじゃないってことさね。」
「わすれちゃうの?」
「そうね、いつかね。思い出したくてもそれが出来なくなってしまうんだよ。」
幼い私はその時、本当に不安だったのだ。祖母も私をいつか忘れてしまうのではないのか。
「じゃあしゃしんしてよ!」
「写真撮ってってこと?」
「そう?そう!」
私は期待を込めて頭をブンブンと振るが、祖母は少し寂しそうな顔で写真機を見つめ、慈しむように優しく撫でた。
「これはね、もう壊れてるのさ。眠ってしまってるんだよ。」
「そうなの?」
「ずーっと昔にねえ。大事にしててもいつかは壊れてしまうし、あの時は必死だったけ、しょうがないんだけどね。」
「むー…」
私は少し泣きそうになってしまった。にっちもさっちも行けない子供の感情はそうなる他ない。
祖母はそんな私に愛しさを込めて微笑んだ。
「ほんなら、あんたに写真の魔法を教えてあげようかね。」
涙目をぱちくりと開き、祖母の顔を見る。
「まほー?」
「そう。ほらこっち座りな。」
祖母は胡座をかいて座ったまま、腿をぽんぽんと叩いた。音に乗せれ得るかのように足の間に小さな体がスポっとはまる。
シワシワの手で私の小さな手を握り、優しい枯れた声で教えてくれた。
「親指と人差指を伸ばして、両方ともね。右手の親指と左手の人差指、左手の親指と右手の人差指を合わせて…そうそう上手ね。」
そうしてできたのは4本の指で囲われた四角い枠。
「これがまほー?」
私は祖母の顔を見上げ、また鼻をズビズビさせながら問うた。
「これだけじゃないよ。最後の仕上げがいるんだ。」
手を離し、そのままそのまま、と声をかけながら立ち上がり、またボロ布で私の鼻を覆う。ブーっと鼻を鳴らす。
私の向かい側に座った祖母は私の手を優しく掴んで自分の顔に向けさせた。
「そのまま指の間を覗いて、じーっと覗いて……そうそう、そのまま片目をつぶってごらん。」
「かため…?」
私はぎゅっと目を瞑る。
「…ぷっ。…ふふふくくくっくっ。」
「!?おばあちゃんなんでわらったの!!」
「あっはははは!あんた両目閉じてるよ!それじゃ何も見えんがね!そうね、初めはできないものよね、あははは!」
「もうっ!」
私はなんだか馬鹿にされたような気がしてダムダムと地団駄を踏みならす。
「あはは、あー、ごめんごめん。あんまりあんたが必死だったから可愛くてねえ。ちょっと練習してみようか。」
「むー…ねえ、おばあちゃん。これしたらどうなるの?」
魔法というが、ウインクがうまくいかないからかもしれないが、何も起きない魔法を使う意味が分からなくなった。
「指の間を覗くと風景が見えるね?忘れたくないくらい素敵な風景や思い出に出会ったときに、それをその枠の中に収めて目でシャッターを切る。すると心に留めることができるのさ。」
「ほんと?」
「本当だとも。覚えていたい、忘れたくないと写真の魔法で残したらね、もし思い出せなくなっても、忘れたことさえ忘れてしまっても、ふとした時にあんたの中のページが捲れてね、思い起こしてくれるのさ。」
「ふんふん。」
その祖母の言葉は幼い私には難しく、でも理解したい気持ちで頷いていた。
「もちろん全て思い出すことは難しいかもしれない。古いものは特に。悲しいとか辛いって気持ちは嫌でも残ってしまうけど、嬉しいとか幸せな気持ちはそれらに塗りつぶされて消えてしまう。でも、その時の色んな気持ちだとか、優しくて暖かい心なんかは見えなくてもずっと残せるものなんだよ。残そうとすればね。」
「ふんふん…。」
「あんたにはまだ難しいかもしれんねえ…。」
私はその時の祖母の顔が寂しそうな遠くを見つめるような感じがして、
「おばあちゃん、こっち見て!」
と、小さな枠の中を覗き、拙いシャッターを切った。
祖母はびっくりしたようだけど、やっぱり両目を瞑ってしまう私を見て笑った。
「なんだいなんだい、おばあちゃんを撮っても仕方ないだろう。もっと綺麗なものを撮りなさいな。」
「いいの!おばあちゃんもとって!」
シワシワの枯れ木のような指を小さな手でむんずと掴み、少し考えてなるべく慎重に伸ばす。
「はいはい。撮るよー。」
細い枠の中を祖母の落ち窪んだ目が覗く。そしてパチっと簡単にシャッターを切った。
「おばあちゃん、かためつぶれるの?」
「おばあちゃんかい?できるよ、ほら。」
祖母は得意げにウインクして私にニカッと笑いかけた。
「!すごい!!!」
「反対だってほら、交互にだってできるよ。」
パチパチとテクニカルにウインクする祖母は、キラキラと輝く私の目にとても格好良く写った。
「すごいすごい!やりたいやりたい!」
「ふふふ。そうねそうね、じゃあいっぱい練習しなさいな。」
パチパチと目を閉じる。片目を手で覆ってみたり、両目を閉じて硬めを開けてみたり。それを何度も繰り返す。まだずっと両目が閉じてしまうし、相変わらず祖母は笑っている。私は必死に練習していたのであまり気にならなくなっていた。
あの目に焼き付けた祖母のようになるのだという希望が、幼い私の中に確かに灯されたのだ。
***
空を往く小さな子どもたち、穏やかに揺れる黄色の花。
かつて何度も通ったこの街道に、再び風が巡ろうとしている。
心躍るような出会いもあった。
辛く苦しいこともあった。
ただ、今でもあの時の祖母の笑顔が、寂しくも暖くささやかな日常が、私の中に熾火の様に灯っている。
ふとケープを羽織った小さな子どもが、私の前にふわっと降りてきた。
火のついた赤いキャンドルをもって私に近づき、不思議そうに見つめる。
なんだかその子が愛おしく思い、私はニカッと笑いかけて、
「写真をとってもいいかな?」
と尋ねた。
その子は少しの間微動だにしなかったけれど、赤ん坊マンタの鳴き声を真似したような声で小さく鳴くと、小さな浮島の端の方へ歩きだし、私の方を振り返ってじっと見つめる。
私は大きくなった手で四角い枠をつくり、シャッターを切った。
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峡谷と捨て地の間出身の写真家精霊のお話でした。
続かないと思うけど、またどこかでふとした時にウインクしに来るかもしれない。