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一撃(画数の対比がすごい字だ)
以下長くてでけえひとりごとである
最近上司が繰り返し「作り手は『神』でいい。周りの意見を聞いた結果日和ったものを作る方が良くないんだ」と言っている。
デザイナーは私ひとりなので私に向けてだ。
とはいってもUIデザイン的には作り手が「神」になりすぎると、使いにくくなるだろう。
UIは見ることが目的ではなく、人が使うこと(道具)の意味合いが強いからだと私は考えている。
道具がより使いやすくなるための構造とそれに関する使い手の体験を考えて作るのがUIデザイナー(UXも兼ねる)の仕事なのだろうと私なりに理解している。
なので、「作り手が「神」でいい」瞬間はもっと別のことを指すはずだ。
設計(デザイン)より前の段階の、ものを生み出すことへのスタンスについてだろう。
私は「神」という言葉よりも、ものをつくる時にどうしても生まれる(生まれてしまう)「一撃」と呼ぶ方がしっくりくる。
例えば、ノートの使い始め、習字でも絵でも紙やキャンバスに最初の一筆をえいや、と描き始める瞬間。
その行動を生む力は一方的で、どうあがいても暴力的な要素を含む瞬間だと思うのだ。
どうしても避けられない、しかしそれがなければ生まれない、それを「一撃」だと思っている。
そんなことを考えていたら、似ていないけど似ているようなものの見方が本に買いてあった。
デリダの法の起源には暴力が含まれる、というやつである。
これを「力の一撃」という。
法を創設し、創始し、正当化することに帰着する操作、すなわち法を作る(場を支配する)ことに帰着する操作は、力の一撃からなるものだろう。この力の一撃は、行為遂行的暴力、したがって解釈の暴力にほかならないが、それ自身は正当でも不正でもない。
その解説に下記の文章が続く。
法は「出現そのもの」のうちに、つまりその成立の構造そのもののうちに自ら正当化することのできない暴力を含んでいる。法の創設、「立法」の行為は、本質的、構造的に無根拠な「力の一撃」であり、実力行使である。
正直デリダの『法の力』は未読なので、ここでの「法」の範囲についてはあえて置いておく。
そもそもこれ、法の話なのでものづくりとは異なった考えで動く、システムの話だ。つまり、何から何まで前提が異なるので一緒くたにするのは乱暴すぎる。
それでも、この文章を読んだ時に「やっぱり何かを始める、というのは突き詰めれば無根拠な力を使わないと始まらないのだ」とは思った。
正直、ものづくりにおいて白紙を秩序とすること、最初の一筆(=一撃)が原暴力とするかはもっと繊細な考察が必要だと感じるが。
ただ、私にはこの力が足りてないことも、事実である。
何年もかけて一人で考えたことに近いことをデリダがバリバリに言語化しているし、言葉もなんかデリダを恐れ多くもパクったみたいで、私としてはもう恥ずかしくてしょんぼりである。
このような恥と深淵が深まったなという好奇心は哲学を学ぶ人間あるあるでもないだろうか…。
余談だが、小学生の頃、緊張したのが教科書に自分の名前を書く瞬間だった。
空白で「ここに書いてください」と言わんばかりの名前欄に、自分の1年を占うかのように油性ペンでその学年最初の名前を書くのである。
剥がす気になれば剥がれてしまうテプラで印刷した名前なんて、私にとっては邪道なのだ。
「これはわたしのものである」と書くことも、そもそもわたしがわたしであるために付けられたわたしの名前もどれも元の元の元を辿っていったら最初に『一撃』を食らい、食らわせているのかもしれない。
なんにせよ、ものごとを始めるには始まりの性質について考え続けないといけないと思っている。
名前のことについては2年前の記事と対して変わっていないかなあ。
まあこんなかんじで不思議な経歴を更新し続けているなあ。