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スポーツと体育は違うもの?

日本人はスポーツが大好き。野球、マラソン、水泳、マラソン、そして今の時代ならサッカー。もちろんプロレス大好きな人もいるし、格闘技といっても古来武道の方、柔道や剣道、少林寺拳法だってあります。


で、いつからか日本人は、これら全般を「スポーツ」と呼ぶようになりました。でも「スポーツ」という言葉は明らかに日本語ではないので、この言葉が定着したのはそれほど昔のことではないと思います。


「スポーツ」という言葉がなかった時代の日本。おそらくその時代の「スポーツ」に該当する名詞は「運動」か「体育」だったのでしょう。ただ、「運動」という言葉は、物理学や政治活動にも使われる広い意味がありますから、身体を動かすということで言えば「体育」という言葉の方が適切でしょうか。


この「体育」と「スポーツ」。なんとなく雰囲気が違うと思っている人も多いのではないでしょうか。どこか「体育」は厳しくて、苦しみとか忍耐とか、もっと言えば根性とかのコトバと隣り合わせ。「体育会」なんてコトバからはそりゃもう上下関係、理不尽、がんじがらめ・・・みたいなフレーズがすぐに思い浮かびます。


対する「スポーツ」というコトバには、どこか「楽しむ」というか「自分を表現する」とか「感動を呼ぶ」とかのイメージがついてきて、そこがまた日本人には心地良くて、今や「体育」なんてコトバはどんどん隅に追いやられ、「スポーツ」全盛時代です。


それではスポーツというのはどういう意味なのでしょう?
スポーツの語源をご存知ですか?


これは私が大好きだった(過日お亡くなりになられたので、過去形となりますが・・・)岡野俊一郎氏の定番、十八番(オハコ)ネタの受け売りで恐縮ですが、スポーツというのは「ディス」「ポート」、つまり「Dis(=離れる)」「Port(=港)」が語源なのですね。


「港から離れる」ということはどういうことか?何を意味するのか?と言えば、秩序ある安定した「陸」の世界を離れて、大海原へと解放されることを意味します。


大海原には道路もないし、信号もない。鉄道も走っていないし、交差点や踏切で誰かが見守ってくれるわけでもない。大海原はどこへどう行こうが全て自由。でもそのどこへどう行くのか?は、常に自己判断と自己責任がついてまわる。そういう世界です。


「体育」は武道や禅の世界を色濃く残しています。その世界の有名な教えは「守破離」という考え方ですね。「師匠から教わった型をまず守り」「その型を自分の力で破り」「そして師匠の型から離れて自分の型を創っていく」。


「型」というと、日本人はすぐに「型にはめる」とか「型通りに」とかになって、創造の世界から縁遠くなってしまいがちですが、「体育」のルーツである「武道」には守破離という、もの凄く素晴らしい概念があって、創造していく礎の思想があります。


そこにはスポーツの語源と通じるものがあります。「つまり自己責任で自己判断で自己を表現する」という。「型」があるからこそ、その対極(対象)となる「自由な発想」が生まれるわけです。好きなことをすることが自由ではない。型を捨てるリスク、その後にやってくる達成感や解放感。それこそが「自由」の源泉なのだと思います。


人間が一番大事にするべき「型(ルール)」と「自由(自己表現)」の関係を考えたとき、一見、遠そうな「体育」と「スポーツ」は、実は奥底では繋がっています。


洋の東西で文化や思想が違うことはいくつもありますが、人間が身体を使って何かを表す、その最も基本的な行為の意味においては洋の東西は問わないのですね。




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