ウンコを踏んだら、靴を洗ってまた歩き出せ。何度も嗅ぎ直すな
誰だってウンコを踏んでしまう時がある。
しかし、そんなことは気にするな。
みんな経験することだ。
靴底をゴシゴシとブラシで洗って、また歩き出せばいい。
だというのに、ウンコのこびりついた靴を履いたまま人生を送る人が多い。
多すぎる。
そのうえ、たまに靴底のニオイを嗅いでは落ち込んでいる。
靴底を嗅げ!なんて誰にも命令されてないのに、何度も確かめてはクサがっている。
どうして、そんなにウンコが好きなの?
ブラシと洗剤を買ってきて、しっかり洗い落とせばいいじゃん。
どうしても落ちないなら、新しい靴に履き替えればいいやん。
やり方がわからないのか?
そんなワケないよな。
とはいえ、ウンコに悩む人が多いのは仕方がない。
この世には多種多様なウンコが落ちているからだ。
政治的ウンコ、経済的ウンコ、家庭的ウンコ、健康的ウンコ、恋愛的ウンコ、ガチウンコ…。
一度もウンコを踏まずに人生を謳歌できる人間などいない。
したがって、ウンコを踏むのは生きとし生けるものに課せられた宿命だ。ひょっとすると、私たちはウンコを踏むために生まれてきたのかもしれない。
だからこそ、
ウンコを踏んでしまった後にどうするか?
が全てだ。
ウンコを踏んだ原因なんて関係ない。
自らの不注意だろうが、悪党に騙されてだろうが、他人を助けるためだろうが、前世のカルマのせいで生まれつきウンコまみれだろうが…そんなのは関係ない。
なぜなら、
靴底のウンコに困っていて、それを解決する必要がある。
という事実は何ら変わらないからだ。
原因と結果の解釈なんて、納得できるやつを勝手に選んどけ。
あと、念のために言っとくがウンコは悪者ではない。敵でもない。
当然だよな?
みんな日々ウンコするだろ?
間違いを犯すだろ?
そして、社会にウンコが溢れているのは、それだけ生物が活発に活動したからだ。
カネは天下の回りものであるように、ウンコは生きとし生けるものの派生物だ。
時にはウンコを顔にかぶることもあるが、バラエティでパイをぶつけられたようなものだと開き直れ。
ウンコを分解して肥えた土地が、豊かな実りをもたらすように…私たちはウンコの栄養で育まれている。
これは物質の循環という科学的事実であるとともに、心理学的なメタファーでもある。
さらには、物事には固有の意味はなく、全てに等しく価値がある…という宗教的テーゼでもある。
さて、キレの悪いウンコのように長くなってしまったが、言いたいことは一つだけだ。
ウンコの荒波を乗り越えて、人生を楽しもう じゃないか。