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村上春樹 『街とその不確かな壁』 を読む ①

「その」タイトルの違和感

タイトルから違和感が最高潮。
なぜなら、もし、これから始まる話がストレートに街と壁の話ならば、『街と壁』が最もシンプルで強いタイトルだろう。
もし「不確かな」が重要なのであれば、『街と不確かな壁』で十分意図をなせる。普通はタイトルに「その」は必要ない。つまり確信犯である。

本文、一行目を見て欲しい。

きみがぼくにその街を教えてくれた。

☝️ 早速「その」が使われる。しかし、タイトルで「その」がかかるのは街ではなく「不確かな壁」だ。順番がひっくり返されている。
常識的に考えて、裏返しになっているものはすべて暗喩・含意のしるしだと思うべきだ。
この「その」の生かし方から察して、目を表紙に戻し、タイトルを裏側から読むべきだ。

街とその不確かな壁 ⇄ べかなかしたふのそとちま

☝️ 裏返しに読んで、含まれる言葉は「かな」「なか」「した」「そと」(とち?)。
どれも二文字だ。そこで正しい順番で読んで二文字ずつにわけると「まち」「その」「ふた」(しか?)「かな」「なか」「かべ」。
「仮名」「中」「下」「外」「待ち」「園」「蓋」「壁」
これらが物語を読み解く上で重要な言葉になるに違いない。

初版本の腰帯には「その街に行かなくてはならない。なにがあろうと」と書かれてある。
やはり「その」を読む人の眼に入れたいという意図を感じる。
表紙の面で、唯一二回登場する言葉「その」。

第一章の冒頭で、街の輪郭が「きみ」の言葉によって作られていく描写は、創世記に他ならない。「その」は「園」で、つまりエデン、きみとぼくは「アダムとイブ」であることが示唆される。

ところで、なぜ「その街に行かなくてはならない」のか?
「待ち」だからだ。私を待っているものがあるのだから、辿り着かなくてはならない。
人生とはそういうものだ。命をかけて、待っているものに向かう。
人にとって死のようなものだ。
その街は「園で待つ」なのだろう。園とはユダヤ / キリスト教的に、体を抜けた魂がいる永遠に平和な場所のことだ。

では再び返って本文を進もう。

きみがぼくにその街を教えてくれた。

☝️ きみ からこの物語は始まる。読んでる私のことであると同時に、「きみ」とは、慣用句=世界の大きな"物語"で使われる場合、つまり"You"は、キリストや神のような超越的な存在を表すことが多い。何者も、神の生産物・代理である、という教条の現れでもある。
一方、日本を通してみると、「きみが」の文字から想像が進む先には「きみがよ」があり、「きみがぼ」の韻からしても示唆的だ。
きみは天皇を、つまり我が日本国の世界と時間を司る主人の役目を、背負わされているのかもしれない。
「きみ」という言葉だけで、すでに4つの意味が重くのしかかってくる。
その内2つは神話だ。この物語はやはり創世記か?

その夏の夕方、僕らは甘い草の匂いを嗅ぎながら、川を上流へと遡っていった。

☝️ 草の匂いという言葉は、川の情景のようでありながら、大麻を連想させる。きみとぼくはこの時、変性意識にあって、まさに生まれたてかの様な新鮮な気持ちでこの世界を見ている、という状況なのかもしれない。
このひとつ前の文で「きみが〜教えてくれた」、と書いてある。つまりきみが僕に大麻を教えてくれた。そして、二人で摂取しながら川を上流へと遡っていった = 過去へ進んでいった、あるいは時間の流れる根源に向かって進んでいっているハイの状況。

砂州から砂州へと僕の少し前を歩き続けていた。

☝️ 砂州(さす)とは何のこと?
土地Aと土地Bを、ギリギリ保って繋げる役割の場所。陸と島をつなげる細い陸地。
「砂州から砂州へ」なんて、これまでどこでも見かけたことがない文だ。
違和感がある。そんな場所があったとして極めて特徴的な場所だから、有名だろう。
日本で最も有名な砂州は「天橋立」*。日本を創世したイザナギ(男)がいる天界と、イザナミ(女)のいる下界をつないたハシゴが倒れてできた土地。つまり、きみとぼくは「アダムとイブ」と「イザナギとイザナミ」の、創世を描いた同類型の"物語"の中にいる。
創世記、確定です。
*「砂州から砂州へ」と連鎖しているような形を持つ。小天橋と大天橋によって砂州と砂州が繋がれている。参考:京都府宮津市ウェブサイト

濡れたふくらはぎに濡れた草の葉が張り付き、緑色の素敵な句読点となっていた。

☝️ 登場人物の発言よりも前に「句読点」がまず登場する。
つまりこれから登場する言葉が声にして読まれるものではなく、書かれるものであることを示唆している。

名前を持たない世界の川べりの草の上に、僕らは並んで腰をおろしている。

☝️ 世界だけが名前を持たないということではなく、この世界のあらゆる"事物"に名前が存在しない状況である、と読むべき。草に「草」が、川に「川」が当てはめられていない。言語や記号以前の世界に、きみとぼくがいる。変性意識の状態であり、そして「園」の状態である。

沈黙の奥から言葉を見つけてだしてくる。身ひとつで深海に潜って真珠を採る人のように。

☝️ 息もできない場所で、自然に時間をかけて発生していた美しいもの、を人間が命をかけて発見し手に入れる様子。外側=世界の物に着目し、奪い、言葉を生む。知識(禁断の果実)の原初。
真珠とは、真に美しい玉。真善美(過去・現在・未来)から善(現在=判断)を除いた、天然の産物。
ちなみに実際に、1860年ごろから深海の真珠を採取しに行く潜水夫は存在し、水圧によって眼球が飛び出す潜水病にかかる危険を隣にしながらの仕事で、実際にみな短命であったらしい。
http://ginzawatatsumi.com/post-178/

その街のことをきみが口にしたのは二度目だ。そのようにして街はまわりを囲む高い壁を持った。
きみが語り続けるにつれて、街は(中略)橋を持ち、図書館と望楼を持ち、見捨てられた鋳物工場と質素な共同住宅を持つ。

☝️ きみの語り、言葉によって、世界がどんどん立ち上がっていく。LORDがLOADするかのごとく。創世記と古事記そのものだ。

「じゃあ、今ぼくの前にいるきみは、本当のきみじゃないんだ」
「ええ、今ここにいるわたしは、本当のわたしじゃない。その身代わりにすぎないの。ただ移ろう影のようなもの」
ぼくはそれについて考える。移ろう影のようなもの?でも意見は今のところ保留しておくことにする。

☝️ メタメタなやりとり。
"物語"や"本"に登場する人物は、言わずもがな、そもそも現実世界には存在しない。現実世界に存在しそうな人物の代わりを担う役者である。
今この本に書かれている「きみ」が身代わりにすぎず、移ろう影のような役者であることは、読んでいる我々からすれば自明なのであるが、本の中の時空間上では自明とならない。この食い違いから、本の内側の世界と、読む我々側の世界の境界が浮き上がってくる。本当にバーチャルなのはどちらなのだろうか?という問いも浮かぶ。

また同時に、現実世界の人間は、物語の人物の代わりを担って生きている、とも言える。
たとえばある人間がサラリーマンや教師であるとき、彼らは、世界を主体とした物語にとってのサラリーマンや教師の役割を与えられた役者=身代わりだ。
キリスト教世界ではその価値観はより色濃い。
ファーストネーム=名前のことを「クリスチャンネーム」といい、聖書に登場する人物と同じか似た名前が与えられ、聖書の人物をオリジナルとしてその代理=コピーとして生きて死ぬ人生がある。
人は自由に生きているようで、全て計算のうちに含まれたようなあらかじめ決定された生を生きている。そして死も、物語によって決定されている。

"言葉"と"物語"は、このように二つの方法で人間を"代理"とするのである。"言葉"もまた事物の代理である。"事物"はまた言葉の代理であろうか?運命は存在するのか?
しかしいったん今のところ理解ができない。それは「保留しておくことにする」べきだ。多分、実際に「死ぬ」までの間。

「で、その街で本当・・のきみは何をしているの?」

傍点までつけられた「本当」とは、「本に当たる」と読むべきだ。
これまで本の中の言葉として登場している「きみ」と「ぼく」が本にどのように記録され、TRUTHへと変化していくか。これもまたフィクションを逸脱するメタな質問である。フィクションとはFAKEであるのだから、本に本当のことがあるとすると、それはフィクション=役割=身代わりを超えたところにある。
実世界にも有効な影響をもたらす「意味」だ。
きみを超え、ぼくを超え、そこにある本当の意味とは何か?我々の精神や生活に影響するような事物はあるか?
この本に登場する言葉の背後に隠れてある秘密は、どのようなもの?

「図書館に勤めているの」

きみはロゴス=言語の身代わりでもあるようだ。
言語が人間にとっての世界を作っている。言語はまず何よりも先にあったと言われたり、「思い込み」と呼ばれたり、論理と呼ばれたり、サピア・ウォーフが仮説したり、、、とにかく存在する。
言語によって眼前させられる思い込みだらけの世界。すなわち、我々が小説から想像する世界と似たようなものだ。

「そこではすべての時刻はだいたい・・・・なの。中央の広場には高い時計台があるけれど、針はついていない」
針のついていない時計台をぼくは思い浮かべる。

時間はあれど、時計がまだ存在しない世界。現代もまだいる、時間のない部族、アモンダワ族やピダハン族を連想する。
時計がないということは、日が登り日が沈む反復を記憶できる能力が必要ない文化に生きる、ということに他ならない。
過去・現在・未来の区別がない世界。終わりも始まりもない。
永遠の「園」とほとんど同じ状態。

ピダハン族

「で、その図書館には誰でも入れるの?」
(中略)
「でもそこに行きさえすれば、ぼくは本当のきみに会えるんだね?」
「もしあなたにその街を見つけることができれば。そしてもし……」
きみはそこで口をつぐみ、顔を淡く赤らめる。でもぼくには声にならなかったきみの言葉を聴き取ることができる。
そしてもしあなたが本当に﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅本当のわたしを求めているのなら﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
……それがそのとききみがあえて口にしなかった言葉だ。

あえて口にしなかった言葉を、このように断定するのは、なぜか?性格から推察して当てる自信があったり、相手の心の底が見えていたからではない。既に聞き取ったことがあるのだろう。
彼は、何度も繰り返して、このような類型の物語を読んできた、読者であろうか。それともこのように物語を書いた作者自身であろうか。
今回の場合、この物語が40年前に書かれた文を素材としているという出自もあいまって、時間を超越して再び出会う自分自身ということか。
作者が、40年前の作者である自分自身とこの物語によってもう一度出会う。メタな構造の現れだろう。

「本当」を二度繰り返す。"トートロジー"は文章にとってはかなり変則カードだ。
人間の思考が進むに進んでその限界に近づくと、トートロジー(鏡は鏡。言葉は言葉。など)や逆転や入れ子(私が言葉を書いているとき、言葉が私を書いているのだ。の無限反復など)がやってくることが多い。
この箇所が、異常なことを書こうとしている文章であることがわかる。

「本当に、本当の〜を求めている」から類推される文はニーチェの「深淵を見つめる時、深淵もまた〜」。
真理や謎は、私が死ぬ覚悟で見つめなければならない覚悟がほのめかされる。
見つめた真理によって、わたしが別のわたしに変わることを、またはかつてのわたしは別のわたしであったことを知る覚悟だ。
だから本当のわたしは「別にいる」のである。

この語り手の「ぼく」はバートン・フィンクやファイトクラブのように分裂しているのかもしれない。
「きみ」に分裂し、さらに分裂していったその先の先には「読む人間」の体がありうる。
つまり語り手とは、読んでいるあなたの頭の中にあるのである、みたいな。

その街に入りたいと、どれほど強くぼくは望んだことだろう。そこで本当のきみ﹅﹅﹅﹅﹅に会いたいと。

もし前段のように読むのであれば、「本当のきみ」とは私自身のことだ。

① 村上春樹本人の立場とすると、本に書いた「きみ」によって、本当の村上春樹自身(書くことでしか現れなかった自我、40年前にこの文章を書いた意識の向こう側にいる私自身)に会いたい。と読める。

② 物語を読む人間の立場とすれば、
「物語を通して、頭の中に築きあげた想像の街は、言語以前/意識以前/判断以前の私が創作した世界だ。エデンの園の果実以前の世界だ。これは言語によって理解できることのない街だ。だから物や時間として留めておくことができずに、流れていってしまう。夢のように。この場所も、もう一人の私にも、出会ったことさえ忘れていってしまう。だから常にいまだに出会ったことのない「無意識の私」が生きて作り上げた世界だ。そんな私の中に不確かに存在するもう一人の私に会いたい。」とも読める。

③ あるいは、作者からの読者への強い投げかけが投影されているようにも見える。「私が書いた文によって、あなたが頭の中に築きあげた想像の街を見てみたい。そこで、無意識や感覚を働かせた、言語以前のあなたに会いたい」。ラブレターのような熱意で。

④どストレートに読めば、「本当のきみ」は「本に書かれている、秘密があらわになった、きみ」だ。

「世界の終わりと〜」から考えると、ここは②で読む筋が正しそう。しかし先段にある通り、40年前の文を使用している状況では①の読みも面白い。読み進めていけば④だということもわかる。ここは重層されていると考えて良いだろう。

街の外に美しく繁った広大な林檎の林と、川にかかった三つの石の橋と、姿の見えない夜啼鳥

それぞれ何かしらの引用だろう。
林檎の林は当然『創世記』におけるエデンの園の場面だ。それを街の外に、街を守るかのように置いてある。創世記で、林檎とは知識や判断力を人間に与えるものとして悪く書かれる。忌避すべきであったがエヴァ(女)が口にし、男に勧め、男が口にした。そこから痛みや災いが始まったとされる。そして園 = 永遠に裕福が保証された始まり地点から追放され、汚れた大人になりユニな世界と時間を進めていく、世界の事物に名付けを開始していく、言語活動のビッグバンだ。甘いその劇的な感覚を、人間は言葉にして、他者と共有し、同じだと確認しあいたくなってしまう。共感とともに、分別そして分断の開始でもある。
「三つの石の橋」は何を三つとカウントするかによるが、京都つながりで考えると『行者橋』か。比叡山での荒行・千日回峰行を終えた行者が、入洛して報告するために最初に渡る橋、ということで、命がけの修行を終えた僧の悟りの境地が匂う。
夜啼鳥はナイチンゲール。転じてフローレンス・ナイチンゲールで、クリミア戦争(ロシア・トルコ間、現在ではロシア・ウクライナ間)を思わせる。
他にも、つながる物語はありそう。

「いいえ、〈夢読み〉は自分で夢を見る必要はないの。図書館の書庫で、そこに集められたたくさんの〈古い夢〉を読んでいればいいの。でもそれは誰にでもできることではない」

読み進めるとわかるところだろうが、ここまでから推察するに、古い夢とは遠い昔の物語か、もしくは遠い昔の物語が読者の脳裏に立ち上げる風景のことか。
たとえば2000年前に書かれた書物を読むことは、現代語に翻訳されてあれば可能だが、その時代の人間がその書物を読んだ時に脳裏に浮かべたビジョンは現在の人間のそれと同じか?
もし同じビジョンを浮かべることが出来るとして、それが可能な人間は、永遠が本当に存在する可能性に気付いている作者と読者だけだろう。つまり2000年前の風の感触まで蘇らせることのできる者。言葉の裏に隠れている、作者が感じ取っていた生々しい感触を、自分の心に蘇らせられる者。
大勢の一般的な解釈に消費されることがない、言葉の裏側に隠されることによって生存させられる「本当のこと」。その秘密に気付いてしまったたった一人にしか届かない伝達行為。作者が読者に確かめる術のない、またその一人も秘密を秘密のまま保持し死ぬ、命がけの=長時間がかかる、一方的な伝達行為・遺術。

「そうよ。でもひとつだけ覚えておいてほしい。もしわたしがその街であなたに出会ったとしても、そこにいるわたしはあなたのことを何ひとつ覚えてはいないってこと」
どうして?
「どうしてか、あなたにはわからないの?」
ぼくにはそれがわかる。そう、僕が今こうして肩をそっと抱いているのは、きみの身代わりに過ぎないのだ。

手で触れられる、抱くことのできる肉体は、本当のきみではない。言葉によって残された文にうまく隠されているのが、本当のきみ(魂)である。

なぜ何ひとつ覚えていないか?過去に書いた文が読まれることで存在が発見される、一方通行の出会いだからである。
本は必ず、著者の側から、未来の人間に向かって書かれるものだから、我々の方を見つめているし、同時に我々(未来)は彼ら(過去)の方を見つめている。そこで会話を交わすことはできない。できたらいいのに。
作者がどういう思いで書いたか、そして読者がどういう思いを読んだか、を確かめることができない、一方通行のコミュニケーションだ。
互いに関心を寄せるが、その方向が違う。著者は未来の謎に挑み、読者は過去の謎に挑む。まだ行われていないこと、もう行われてしまったこと、どちらも現在からは霞んでしか見えない謎である。
表現・芸術・本とは、そのような互いに一方通行の妄執的な信用の上に成り立つ行為だ。

〜第一部1章おわり〜

ところで、1章の前に差し込んである『クブラ・カーン』の引用に気づきましたか?私は後で気づきました……。
『クブラ・カーン』は「楽園の原型イメージをもつフビライの宮殿と庭を詩人がアヘンを摂取した後の想像力で描いた幻想詩」とのこと。そのヴィジョンは阿片夢とも呼ばれる。アヘンを摂取してみる夢を、記述した詩。
なぜ〈夢読み〉の資格がぼくにあったのか?
それはきみが(と)、ぼくがアヘンか大麻を摂取していることを知っていたからだ。

詩は3つの不規則な節に分かれており、異なる時間と場所の間をゆるく移動します。最初の節は、クビライ・カーンの首都ザナドゥの起源についての空想的な説明から始まります(1〜2行目)。[3]それは、暗い海に到達する前に洞窟を通過するアルフ川の近くにあると説明されています(3〜5行目)。10マイルの土地は、緑豊かな庭園と森(8〜11行目)を囲む要塞の壁(6〜7行目)に囲まれていました。

https://en.wikipedia.org/wiki/Kubla_Khan

そのまんまだ。きみがコールリッジで、壁は万里の長城、8メートル高。
クブラ・カーンに出てくる都市「ザナドゥ」を検索すると、このような絵が出てくる。


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