「奢られたくない女」の言い分を聞いてくれないか
「女性に男性がおごるのは当然。だって女性は男性とのデートのために、服とかメイクとかものすごくお金かけてるんだから。」
という男性の主張がいつからか模範解答として出回るようになった。これを聞いた私の最初の所感は、正直おだやかなものではない。
「それって男性とのデートには女性はお金をかけておしゃれして来なきゃいけないってことですか?」みたいなつっかかり方をしたいわけではない。私が引っかかってしまうのは、「本当に男の人ってそれで納得できてます?」という点においてである。
だって、そんな「デートのための準備代」なんて言い出したらきりがない。例えばもし、男性の方が車を出してくれたらそのガソリン代についてはどう考えるのか。あるいはデートの集合場所まで一方はドアTOドア15分、一方は1時間(しかも一方は私鉄一方はJR)だとしたらその電車賃の差額はどうか。早く待ち合わせ場所に到着した一方がカフェで待っている間に頼んだ、大して飲みたくもないコーヒー代はどうか。
「モテねぇ女の屁理屈だな」とでも思うだろうか。それは何て言うかもう、おっしゃる通りだ。私の反論はイケメンセリフの意図することを何ひとつくみ取ろうとしない喪女ムーブのお手本みたいなものだ。
要するに先述のセリフは、「女の子におごらせるなんてできないよ」というレディファーストガチモテイケメンの価値観をよりおしゃれにアレンジした言い分なのだろう。実際、私がこの発言を一番最後に聞いたのは某帰国子女イケメン声優からだった。
多分、彼らにとって「女性にごちそうする」という行いはその本質がどうこうなどと考える余地も無く、骨身に染みついた習慣なのだろう。「欧米って男女平等を主張する割にはそういうレディーファースト的な概念がいつまでも残ってるのは何でですか?」という議論をするにはもう少し長い時間がかかると思うし、私にはその話題に責任をもって触れる自信がまだない。
ただ、少なくとも、「女性は男性とのデートのために服とかメイクとかものすごくお金かけてるんだから僕がおごるのは当然だよ」なんて考えている男の人は、それでもおごられたくない私が理由を話したらぎょっとするのだろうと思う。
私がおごられたくない理由。それは払ってもらった代金の見返りを、与える自信がないからだ。
「お鮨までごちそうになっていて、お断りするなんて失礼じゃない?」
これは実際、私が言われた言葉だ。言われて、まず思ったことは悲しいとか腹立たしいとかでなく、「たしかに!!!」だった。
とある男性がおごってくれたのは回らないタイプの鮨だった。店でたまたまおひとり様同士の客として出会い、気前よく私の分まで料金を支払ってくれたのだ。もちろん丁重にお断りしたが、スマートに会計を進めてくれるその人にあまり固辞するのもかえって失礼な気がして、ひたすらにお礼を伝えた。
後日、私のLINEに男性から再び食事の誘いが来た。連絡先は教えていなかったはずだが、店の女将経由で知ったらしかった。酔った勢いで会話を合わせたものの、そんなに趣味が合いそうな人でもなかったので、多忙を理由に断った。
そして前述の一言が、店の女将さんから送られてきたのだ。はじめて社会の暗黙のルールというものを教えられた心地がした。私はあわてて男性に連絡を取り直し、何とか予定を捻出できたふりをして再び会った。
次はもう少し敷居の低いダイニングバーだったが、また彼は私にごちそうした。今度は払わせてほしいと提案したが、「じゃあ次会う時に」と断られた。次に会った時、2件目のカフェだけを私が支払ったが、今までごちそうになった金額には遠く及ばなかった。解散した後のLINEでは、「次はドライブに行こう」というメッセージが送られてきた。
このあたりで思い至った。
この「負債」はこの先、多分、彼の望むような関係性に発展することしでしか払いきれないのだ、と。それがどんな関係であるかは分からないが、少なくともこのまま、ただ彼と会って食事を提供されるだけの時間が続いていくことを望んでなどいないような気がした。
であれば私はもう、彼と会うのは嫌だった。この期に及んで、「遠距離恋愛中の彼氏が返ってくるからしばらく会えない」などという白々しい断り方をした。彼からは何とも返事が返ってこなくなり、私は仲良くなった鮨屋の女将さんの連絡先も消去した。
以来、何となく「男性におごられる」ということに過敏になってしまった。
こう言う考えを男性サイドが聞いたら「奢られたら付き合ってほしいと思われてるって言うのは自意識過剰だと思うよ笑」と言われるかもしれない。それは本当に、その通りだと思う。私も書いていてなんとも言えない気恥ずかしさを感じている。
でも、大変経験の乏しい私にはその辺の境目を自力で判断し、気持ちよくご馳走になる能力がないのだ。
せめて、せめて「男性が女性に奢るもの」みたいな一般論が完全に消え去っていれば、奢ってもらうことについて「えっ何でですか?」と理由を聞くことができるのに──……
などと、真剣に悩む機会があること自体がある意味では恵まれていたのかもしれないと、何の音沙汰もないアラサーになってしみじみ感じるのはまた別の話だ。
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