私たちにできることは「誰かを覚えていること」だけ 映画『マイ・ブロークン・マリコ』
親友の遺骨とやり場のない怒りを抱えて行く最後の旅
何度も怒りに震えた。喉の奥がぎゅっと締まった。すごく悲しいのに涙が出なかった。感情が動いて、動いて、、映画の終わりには自分の心臓の位置すらわからなくなった。
目の前の画面の中のふたりの人生はリアルで、そしてリアルだからこそ、痛々しかった。ふたりの生命が、私の中に焼きついたような、そんな不思議な感情のまま映画館を出た。
パワハラが横行する企業で働きながら日々すり減るシイノトモヨの元に、ある日舞い込んだ知らせは、「親友のイカガワマリコが転落死した」というものだった。その死を受け入れられず、茫然自失の日々を送るシイノだったが、マリコを虐待し続けていた父親のもとに彼女の遺骨が送られたことを知る。
いてもたってもいられなくなったシイノはマリコの実家に向かう。親友の遺骨を両親の元から奪い、彼女との思い出の品を手に「最後のふたり旅」に出かけた。
シイノは旅を進めながらマリコとの思い出を振り返る。その様子を見守るうちに、私たち観客もいつの間にかマリコの性格や過去、そしてシイノとの関係性を手応えを以って感じることができるようになっていた。
マリコは確かに生きていた。そして確かに今はいない。その喪失感とやるせなさと言葉に表せない感情をシイノに抱かせているかが、わかる。いや、わからない。マリコとシイノと同じ時間を過ごしていなかった私たちに、その濃密さや感情が、わかるはずない。それだけが、話が進むごとに浮き彫りになってきた。
ふたりの関係性に息が詰まって苦しいのに、どこか羨ましい
シイノとマリコの関係は、明らかにものすごくこじれていた。マリコは実の父親から小学生の頃から虐待を受けており、高校生の時には性的にも虐待されていた。それでもマリコは、「いい子でいたい」「いい子じゃないから怒られる」「私が悪い」と感情を抑圧し続ける。
そして、マリコの代わりに、マリコのためだけに、マリコを想って、怒ってくれたのがシイノだった。マリコにとってシイノは、自分自身が失った感情、それ自体だった。あるいは、マリコにとってはシイノは生きている自分自身だったのかもしれないとすら思う。
マリコはほとんど感情を露わにしない。泣くことはあっても、怒ることはない。日々の生活を送る中で、マリコは自分自身のこともいつしか持て余すようになっていたのだと思う。
対照的に、シイノはエネルギーの塊だ。やさぐれていて、自分の生活も仕事も適当で、こだわりも少なく、一見するとエネルギーなんか少しも残っていないようにも思える。
しかし、マリコは怒って怒って怒り、ずっと怒っている。自分を置いて逝ったマリコに、マリコの人生を狂わせた父親に、飲み屋で絡んできたおじさんたちに、マリコを死なせた全てのもの、そして自分自身にもずっとずっと怒っている。そしてよく食べる。よく食べて、よく怒り、よく眠る。
シイノは生命そのもので、だからこそ、手放すことができなかった。シイノにとっても、マリコはほとんど自分の人生そのもので、彼女を想って怒ることが、シイノを「やさぐれ切らせ」なかったのだ。「誰かのために怒る」という生きるための力の源を、シイノはマリコからもらっていた。
どんなに互いを苦しめようと、一緒にいることがどれほど苦しかろうと、互いに互いの手を離すことができない。お互いの存在がめんどくさい。でも、魂を明け渡しあった大事な相手だ。
シイノはマリコを「ダチ」と呼ぶ。だが、ふたりの関係性はもっと言葉では言い表せないようなものに見える。恋愛感情ではなく、一生離れられない、特別なひと。彼女のためなら人生捨てても良いと思えるひと。
そして、そんな強い感情を持てる相手がいることが、言葉を選ばずに言うならば、ものすごく羨ましかった。
心の半分以上を占める相手、そんな相手を見つけられた、見つけてしまったということが、羨ましくて仕方ない。
マリコに何度だって伝えたい「あんたは何も悪くない」
「あんたの綺麗なところしか思い出せなくなっちゃう」という絞り出すようなシイノの叫びが、今も耳にこびりついて離れない。
シイノにとって、マリコは「死んでしまった綺麗な女の子」なんかではなく、本当に面倒で手のかかる、自分にべったりと依存した、問題ばかり起こす、それでも「放っておけなくて大事なひと」だったのだ。脅さなくたってあたしにはあんたしかいないのに。あたしがいるのに。
マリコは、シイノのちょうど反対側にいる。マリコはいつも怒りに類した感情を表に見せない。笑っているか、泣いているか。笑っているときほど、むしろその奥に悲しみや憎しみや恨みの感情が滲むように感じられた。
マリコはいつもDV彼氏と付き合っている。シイノは、マリコに呼び出されてはDV彼氏からマリコを守り、DV彼氏を追い払い、何度も繰り返す。「もう、あいつに会っちゃダメだからね。」それでも、マリコはへらへら笑いながらDV彼氏の元に走る。走っては殴られる。その繰り返しの先で、さすがにマリコの行動に呆れたシイノは、「あんた、ぶっ壊れてるんじゃないの?」と問う。
その問いに「そうだよ、あたし、ぶっ壊れてんの」と言った時のマリコの真っ黒な目は、本当に諦めた人の目でしかなかった。怖いというよりも本当にやるせない。マリコの心をころしたのは、ねぇ、一体だれ?、と、外に飛び出して道ゆく人に聞いて回りたくなる。
「襲うのはあたしが誘惑したからなんだって、殴るのはあたしが言うこと聞かないから。どこから直したらいいかもうわかんないよ…」と、「いい子」でいたかった彼女はシイノにだけ、涙ながらに吐露する。
「どこから直したらいいかわからない」、自分が悪いから何かを直さなければならない、と言う彼女に、「あんたは何も悪くない」というシイノの言葉は届かない。小さな頃から培ってきた強迫観念は、油汚れのように強くこびりつき、マリコの根を形成している。
マリコが悪いわけがない。誘惑されようがされまいが、嫌がる人間を襲うほうが100%悪い。言うことを聞こうが聞かなかろうが、殴るほうが100%悪い。当たり前のことだ。当たり前のことが、それでもマリコには簡単には信じられない。
次の「マリコ」に生きていてもらうためにも、私たちは「誰かを覚えているために」生き続けるしかない
それでも私も、シイノとともに繰り返し伝えたい。彼女はもういないけれど、それでも繰り返したい。「あんたは何も悪くない」。だって悪くないから。そう繰り返し続けて、その言葉が、いつか誰かに届けばいい。そうすれば、次の「マリコ」は生きていてくれるかもしれない。
「めんどくさい女だった」と、マリコの綺麗じゃない部分を覚え続けてくれるシィちゃんが怒ってくれる限り、マリコは生き続ける。骨壷を抱えて走ってくれる「ダチ」がいるから、マリコはこれからも生きるのだ。
死んでしまったものは変えられなくて、生き返ることはない。そこは本当にもどかしくて、話せれば、会話できれば、何か変わったかもしれないのに、という気持ちは最後まで拭いきれなかった。それでも、友の死を抱えて生きていくこと。生き返らせることはできなくても、覚え続けていること。
誰かの死を抱える人たちにできることは、それしかなくて、それが一番大事なのだ、ということを確かに証明してくれる映画だった。
残された者は「誰かのために」「誰かの分も」生きる、とかではなく、「誰かを覚えているために」生きるのだ。
++++
(c)2022 映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会
公式サイト
執筆者:HOKU
編集者:清野紗奈/Kiyono Sana、河辺泰知/Kawabe Taichi、石田高大/Ishida Takahiro
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?