故人を悼む
noteに書くのは、不誠実な気もしました。
けれど、書かないのも、それはそれで不誠実な気がしました。
だから、書ける範囲で書くことにします。
身近な人の、お葬式と火葬に関する話です。
苦手な方は、ここでブラウザバックをお願いいたします。
今週、身内が亡くなりました。続柄は伏せます。
ああ、まだ今週なのかと驚いています。
先週の今頃は、まだ息をしていたんですね。
今はもう、真っ白な骨になってしまった。
地元のお寺さんに来てもらってお葬式をして、火葬して。
骨を拾って、納骨までの後飾り壇を整えました。
成人して以降、身内が亡くなったのは初めてのことです。
別に私は仏教徒ではなく信仰心もないので、導師さまのお念仏で、ほんとうに故人が阿弥陀仏に救ってもらえるとは思っていません。
それは一つの神話であり、生きている人のための大きな物語に過ぎないから。
でも、導師さまのお念仏の時間は、すごく有難かったです。
私とは違って信仰心の篤い導師さまが、見ず知らずの故人のために、ほんとうに故人を救おうと、心を込めてお念仏を唱えてくださっているということ。
そして、親族が一堂に会し、それぞれにとっての故人のことを思い起こしながら、各々静かに故人を悼む時間が持てたということ。
たとえ信仰心がなかったとしても、そのことが、失った側の人間としては、とてもありがたかった。
火葬場はとても静かで、空気の動く音が聞こえるほどでした。
いくつもの火葬炉が並ぶ中、私たちの家の名前も貼られていて。
そこで故人は焼かれて、美しい真っ白な骨になりました。
骨は、ほんとうに美しくて。
拾うときに骨壺にあたってしまったとき、高いきれいな音がしました。
一つ、勘違いしていたことがあります。
私は、人が亡くなったら、その人は、残された側の「心の中」にしかいなくなるのだと思っていました。
でも、違いました。
骨になっても、私にとって、その人はその人でした。
親族のひとりが、骨壺を見つめながら「こんなに小さくなってしまって」と言いました。
もう何も考えられないし、話せないし、意識もないし、もちろん答えてもくれない。
でも、骨になっても、その人は、その人。そこにいる。存在している。
毎日欠かさず仏壇にお供え物をしている人の感覚が、初めて、少し分かった気がしました。
私もいつか、骨になるのでしょう。
でも、この世界から、まったく、すべてが失われるわけではない。
意識はなくとも、何も答えてあげられなくとも、この身体のうち骨は残って、大切な誰かの近くに存在し続けるのだと。
そんな風にも思いました。
最後に1つだけ。
故人の書いていたエンディングノートが、残された側にはとても助けになりました。
私はまだまだ若いと言える歳だけれど、いつ何があるかは分からないし、エンディングノートは書いておこうと感じました。
近々、買いに行ってきます。
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