人生ってどこまでいっても現実世界
ずっと昔に書いていたblogを最近読み返し始めた。
オーストラリアへワーホリで行った時に、軽い気持ちで始めたblogだったんだけど(かれこれ7,8年前でnoteにもまだ出会っていなかった)今読み返してみると、blogを書いていた自分に感謝したいほどたくさんの思い出と宝物みたいな感情が詰まっている。
オーストラリアに行く前は、非現実的な世界に逃げ込むような気持ちだった。
というのも、ワーホリを決めたきっかけが精神的に滅入ってしまい、気晴らしでどこかに行きたいという感情からだったので、現実から離れることで変身できる気がしていたし、コンプレックスだらけの自分も何か変われるんじゃないかって信じて疑わなかった。
だけどいざ足を踏み入れてみると、渡豪当初に感じた非現実感はあっという間になくなった。
毎日お腹は減るし、買い物すればお金もなくなる。仕事をしないと生活できないし、日本ではなかった言葉の壁や感じたことのない文化の違いもある。
あっという間に非現実的だと思っていた場所は、昨日の延長戦にある日々に変わっていった。
人生はどこまでも現実が続くなぁ。
それでも行った場所や感じたことを日々書き綴っていて、いま振り返ってみるとなんて非現実的な世界にいたんだろうって気づく。
「今」はいつでも現実的なのに、「過去」は非現実的だったりする。
でも生きている時間はいつまでも「今」の連続だから、そのことに気づかないんだよなぁ。
なんとなく昨日の続きみたいに過ごしてる今日も、過ごし方や生き方次第で振り返ったら非日常になっている日常があるし、そんな非日常的なことが新しい日常になることもあるんだろうな。
とにかく自分を信じて、生き抜くしかなくてがむしゃらに頑張っていた自分がすごく眩しくてかっこいいなってblog読みながら思ってしまった。自分を客観視できるのってblogならではの感じもする。手書きの文字だと人となり出るけど、PCの文字だとなんか客観性が増すというか。
毎日当たり前のようにそばにあったカフェ。
海に行って、海に入るんじゃなくて日向ぼっこしながら話す時間。
公園の芝生で寝そべる午後。
バスですぐ行けるビーチ。
どこまでも広がる大自然。
毎日通っていた巨大な噴水。
幻想的な図書館。
見慣れてしまう、生き慣れてしまうってこわいね。
離れてみないと分からないことが多すぎる。
そんなことを振り返って気づいても、今日もきっと生き慣れてしまった時間をなぞってしまうんだろうなぁ。
毎日新鮮な感覚で生きていても大変なのかもしれないけど、毎日に新鮮さを忘れずにいたいな…そうしたら飽きるなんて感覚すら湧き起こらないだろうに、なんてことを思った。
コロナ禍だってステイホームして、出かけられなくて、人にも会いにくくて、なんとなく飽き飽きしてしまう毎日だけど、振り返ってみたらこんなに家の中にいることも、在宅勤務なんて勤務形態も、オンラインで人と話すこともきっと人生後にも先にもないかもしれない。
たのしいことばかりじゃないけど、だからこそ、毎日を面白がって生きていきたいね。楽しさってきっと目と鼻の先にあるけど見飽きてしまって気づけていないだけ。