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銀色のライオン

苦しくて辛く、悲しくてしんどい。美味しいものを食べても温かい紅茶を飲んでも、ゆっくり湯船に浸かってもたくさん眠っても、陽の光を浴びても散歩をしても、本を読んでも勉強しても、何をしたって救われない部分はいつまでも救われない。それでも、それはそれとしてご飯を食べ、運動して、風呂に入り、今日も眠るのだ。



上手くいかないことがたくさんある。そういうタイミングに限って楽しくないことばかり思い出すのは、人間の心理として仕方ないことなのかもしれない。日々を乗り切るために詰められるだけ予定を詰めて、毎日なんとか外に出る。春は明るくて暖かくて、それはもう素晴らしい季節だけれど、そのせいで孤独は引き立つし苦しみも鮮やかになるし、良いことばかりというわけでもないのだ。長い文章を書こうにも、集中力は続かない。



「明日世界が終わるとしたら 君をこんな風に抱きながら眠りたい」という歌詞をふと思い出している。誰かが「君」にそう思うなら、私もそこに混ぜて欲しい。そこに生じた、温かく、人ではない何かに包まれて眠れたら、何より安心できるに違いない。肉体のない、概念としての「愛」とか。やっぱり私はいつまでも健康な家族の中の子どもに憧れつづけるのだろう。

他人の肉体に対する恐れはこのままいつまでも拭えないはずで、愛に肉体は不要であると私は信じてやまない。それなのに、今もこんな近くに、そう、この私自身に付きまとう肉体としての身体が、ずっとそこから見ていることを自覚する。私がどんなに他人の身体から逃れても、私がどんなに精神的に人を愛しても、私の身体はそのあいだもずっとここにあって、私はそれから逃れることはできないのだ。どんなに孤独に生きたって、私の身体が発する熱は和らぎもせず燃え盛りもせず、ただゆらゆらとここにある。
その孤独の熱を意識するようになって以来、もしかしたら、私が憧れる温かさよりも孤独が発する熱の方がずっと心地良いのかもしれないと思うようになった。憧れと心地良さは両立しない。私の身体はいつもここにある。

すぐそばにある孤独を無闇に見たりしないこと、孤独と目が合ったら微笑みかけること、埋めない穴を感じ続けること。友だちや恋人や家族がいようがいまいが、私たちに常に付きまとう孤独に対する礼儀作法を、かつての私は規範と言っていたが、それはまったくのお門違いであった。これは規範というよりは信念であるし、信念というよりは作法であるし、作法というよりは愛なのだ。この身体と、この身体とともにある孤独と、剥がれ落ちて再生産される時間を、決して無視せず存在を感じつづけることだけが私を救ってあげられる「愛」なのだ。

私の孤独は私のものだ。だからこそ、私の愛も私のものだと言えるのである。そう考えると愛に肉体は必要かもしれないが、それは私が私として存在しているかぎりであり、存在としての肉体が孤独と熱と愛を生み出す基盤となっているというだけである。決して手段としての身体の話なんてしていないことに変わりはない。それならば、憧れているのは温かな空気というよりも、その奥にある愛なのだろうか。

規範や正しさを求めるよりずっと前、原初から探し求めてきた愛を手に入れたくて、私もあなたもきっと苦労してるんでしょう?
寂しくて悲しくて身動きが取れないこの状況では、自分の欲を満たしてるだけでは満足できないはずなのだ。規範も正しさも欲に変わりなく、満たしても満たしても望んでしまう永久機関である。私たちは誰が誰に向ける愛とか本当はどうでも良くて、ただ愛が生み出す温かく心地良い空気につつまれて安心しきって眠りたいだけなのかもしれない。

「うさぎを殺さないでください。私を忘れないでください」

いつの日か私が作った短歌にもならぬ文字列は、今日も切実さを帯びている。ひとつも孤独と向き合えてなんかいないし、ここまでつらつら述べてきた愛がどうとかそんなのどうでも良いくらい、ただただ救いを求めているだけだ。悲しくて苦しくて辛い日々を春の温かさが引き立てていく。際立ってしまった孤独に微笑みかけて、じっと存在を感じとって、そのまま時間を過ごしたら、この身体から発する熱が少しずつ温かさに変わってゆくのだろうか。

今この問題についていくら考えたところで、この苦しみを生み出す孤独も、孤独を生み出す身体も、いつの日かぼっと燃えて、温かさを生み出すことすらできなくなるに違いない。このとおり私は私に対して無力なのだ。それに、孤独だとか大層なことよりも単純に、心身の健康バランスが崩れているだけなのかもしれない。この苦しみの根本をどこに求めたら良いのか、果たしてわかりはしないのだから、もうそれはそれとして、ご飯を食べ、運動して、風呂に入り、今日も眠ることにしましょう。

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