ホールスパイス、もしくはマイホームスパイス
悲しみの渦に巻き込まれて、身動きがとれなくなっている。指先ばかりが冷える季節には、あってはならないことだった。
メイクを済ませた顔を見たとき、死にたくなる。沸かしている湯を見ているとき、死にたくなる。玄関を出ようとするとき、死にたくなる。自分のための誕生日ケーキを買って帰るとき、死にたくなる。電車の中から他人の家の干されている洗濯物を見るとき、死にたくなる。免許合宿の話をした際に「そんなに楽しかったってことは彼氏でもできたんじゃないの?」と下世話な感想を述べる人に「そんなことなかったですよ〜」と笑って返すとき、死にたくなる。空き教室かと思って開けた扉の先で男女がキスしていたとき、死にたくなる。朝目覚めたとき、あの曲のあのコードを聴いたとき、歩いているとき、暖かいとき、酔いから覚めたとき、風呂に入るとき、家に帰ったとき、電車から降りたとき、私は死んでしまいたくなる。
「死にたくなる」というフレーズはあまりにどぎついので、「たまらないほど悲しくなる」と言い換えても構わない。「泣いてしまう」とか「泣きそうになってしまう」とかでも。ただ、深い悲しみに身動きがとれなくなってそれ以外のことを考えられなくなることを考えると「死にたくなる」という言葉がぴったりくるのではないかと思う。別に本当に死にたいわけでもないけれど、あのときの気持ちは「悲しい」というにはあまりに真剣だから。
泣いてしまえば楽になる時代は過ぎたのだと感じる。泣けば泣くほどその後がしんどいし、泣いているあいだもどこか冷めた自分が「やっぱりお前は声を殺してしか泣けないのだな」と言ってくるものだから、強がるために必要だったそんな自分も丸ごと深い渦に飲まれて消えてしまう。いつまでも子どものままなのに大人びていると言われた日、子どもでいられる期間はもう終わったのだと悟るのとおんなじだ。気づいてしまったら前にしか進めなくなる。そこで自分が溺れても、立ち泳ぎをしているように装うことができると知っているから。
今更強がりをやめるなんて絶対絶対できない。だからこそこうやって弱みを見せる練習のように文章を書くくせに、普段は何事もなかったかのように生活することで、強がりたい自分を保護しているのだ。私が身を削って書いた文章を読んだ人たちがああだこうだと感じている隣で、私はすました顔をする。そんな情景に思いを馳せては、削った身を少し回収した気分になって、私はまたその倍の量の身を削るのだ。まるで悪循環だけど、本当のところはそうじゃない。私の身は鉛筆じゃなくて爪のようなものだから、削ったところで消えないし、むしろ衛生に良いのだと思う。
とはいえ、言いたくないことを言わない選択肢があるおかげで今の私が生きていることも事実である。削る身の分量を間違わないことが肝心なのだ。
つらつら文を連ねた割に言いたいこともないけれど、書いているうちに真っ暗なところでもがいていた自分の姿を、少しだけ明るいところから垣間見ることができるようになった気がする。毎日毎日悲しくて悲しくて悲しくて悲しくて、でも時々嬉しいことも楽しいことも幸せなこともあるのだ。例えば、久しぶりに人と話して楽しかった。電車から見えた景色は綺麗だった。文章を褒めてくれる人がいて嬉しかった。食べたケーキは美味しかった。そんなみんなと同じ当たり前の日々の中で、常に悲しみの方に視線を向けてしまっているのが今の私だ。満月に気を取られてつまづいてしまう人のように、私も早くどこかでつまづいて、それが顔をあげるきっかけになることを願っている。悲しみがスパイスになりますように。
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こんな文章を書いて数日経った今は、もうすっかり元気になった。このときの私は本当に悲しみ以外のことが見えなくなっていて、それは渦というより一種の熱のようだったのだと思う。何をするにも一粒涙を零さなくては動けなかった日々はきっと辛かっただろうが、熱にうなされてぼうっと眠っていたあの幼い頃を思い出すような感覚でしか、その辛さも思い出せない。ただ一つ確信できるのは、私が文章を書く理由は、今も昔も変わらず、苦しみの表出と整理のためだということだ。私はもう既に自分の悲しみをスパイスとして扱えているよと、いつの日かの私に伝えてやりたいものである。
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