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窓に映る風鈴と妻の顔
風鈴とともに掃き出し窓に映る妻の顔は、曇り空のせいか暗い。部屋着のゆるっとしたワンピースを身にまとう彼女。そのグレーのワンピース姿は、窓の向こうの空と同化して見え、少し不安になる。麦茶の入ったグラスを片手に、下を向いている。何を見ているのだろう。
「ゆうさん、何見てるの?」
彼女は窓から目を離さずに言う。
「通行人」
通行人、かあ。
「トンボ、とかじゃないんだ」
「トンボはもっと高いところを飛んでるよ。葉っぱの上で一休みしてるのもときどきいるけど」
それもそうか。
「朝ごはん、できたけど、少しでも食べない?」
「ありがとう。でも、あんまり食欲なくて」
「いいんだ。冷蔵庫に入れておくから、食べられそうなら少しでも食べて」
「うん。まこさん、ごめんね」
謝らせたいわけじゃない。もともと夏に食欲が落ちるのは知っているし、今食欲がない理由もわかっているつもりだ。守秘義務で多くを言えない彼女から昨日絞り出された言葉から推し測ることしか、僕にはできないけれど。
「いってきます。朝ごはんと、昨日の夜ごはんの残りも冷蔵庫に入れてるから、食べられそうなら少しでも食べてね」
「いってらっしゃい。ありがとう。気をつけてね」
挨拶を交わすと、引っ越してきてすぐ彼女が玄関に飾った紙飛行機を見つめ、部屋を出る。もわっとした夏の朝特有の空気がまとわりつく。窓のある西側はあんなにどんよりとしていたのに、東側のマンション共用廊下に差し込む日差しは今日も強い。こんなに攻撃的な日を浴びせなくてもいいだろう。余計に足が重くなる。この後、あの雲がこの太陽を覆い、雨になるだろうか。
本当は、今彼女から離れたくない。でも、仕事は待ってくれないし、何よりそれを彼女は望まないのをわかっている。これ以上彼女を傷つけたくないから、今日一日が無事に終わることをひたすらに願いながら、エレベーターを降りた。
自動ドアが開き、外へ足を踏み出す。いつもより遅く出たため、既に向かいのホームには電車が来ていた。足早に最寄り駅の改札を抜け、ホームに向かう。マンションからすぐのこの駅のホームは、ちょうど自分たちの部屋の高さと同じくらいに位置し、隔てるものがないため部屋が見える。いつもなら、遮光カーテンを閉めているため、中は見えない。今日は遮光カーテンもレースカーテンも開いており、妻が相変わらず下を眺めているのが見える。ずっと忙しくしていたが、図らずもせっかく家にいられるんだ。思いっきり寝坊して、罪悪感なんかに苛まれずにのびのびと過ごしてほしいのに。そんなこと、責任感の強い彼女ができないことも知っているけれど。
ゆうさんこと、木綿子さんと出会ったのは、彼女が僕の会社の入っているビルの別会社の面接を受けに来たときだった。木綿子さんは少し緊張した面持ちで、きょろきょろと辺りを見回していた。
「あの、何かお探しですか?」
「エレベーターが見つからなくて」
「案内しますよ、行き先は」
「ありがとうございます。SUZUMORIという会社が、こちらの十一階にあるはずなんですが」
「ありますよ。それなら、あっちのエレベーターですね。ついて来てください」
「助かります」
エレベーター前で別れ、たまたま再会したのは、彼女の就職が決まってからだった。
「あの、以前ここで」
「あのときの! その節は大変お世話になりました。あの日、中途の一次面接だったんです。無事就職が決まって、今あそこで働いています。あなたがいなかったら、今ここにいないかもしれません」
SUZUMORIに受かったのか、すごいなと思った。安全衛生優良企業に認定されている、いわゆるホワイト企業で、えるぼしやくるみんなどの認定も受けている、女性が活躍している企業だ。しかし社員数は多くなく、狭き門だと噂で聞いていたが、中途採用で受かるなら実力は折り紙付きだろう。
「それはよかったです。あの、よろしければ、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「名乗っていませんでしたね。赤坂木綿子と申します」
恭しく名刺を取り出し、自己紹介してくれた。律儀だ。白が眩しい名刺は、中途採用ながらも初々しさの残る彼女にぴったりだった。
「青山真と申します」
使い古した名刺入れから名刺を取り出し、交換する。
「花丘にお勤めなんですね。またお会いするかもしれませんね」
「そうですね。またお会いできたらうれしいです」
それから何度か会い、僕からランチに誘った。行きつけの店に一緒に向かい、カウンターに並んで昼ごはんを食べた。親子丼をあんまり美味しそうに頬張るから、ずっとその顔を見ていたいと思った。「ここの卵の半熟加減、最高ですね」と言う彼女は、ひまわりのような笑顔を向けていた。普段静かな店主が、「卵でいったんとじた後、直前に溶き卵を回しかけるんだ」と満更でもなさそうな顔で語るのもよかった。すぐふいっと奥の厨房に戻ると、入れ替わりに出てきた店員が、「親子丼は昔からあの作り方でこだわっているから、褒められてうれしいんですよ」と口元を緩ませて教えてくれた。
「また誘ってもいいですか?」
「タイミングが合えば」
「よければ次は、夜ごはん行きませんか? 良い店知ってるんです」
「夜、ですか」
「迷惑、ですかね? 図々しかったかな、あはは」
頭をかくと、彼女は首を横に振り、逡巡したのち口を開いた。
「私、数ヶ月前に、付き合っていた彼と別れたんですけど、まだ忘れられなくて。勘違いだったら、ただのごはん友だちならそれでいいんです、この話は忘れてください。でももし、その、私のことを思ってくださっているなら」
「友だちからでもだめでしょうか? すぐに付き合ってほしいなんて、言いません。思い出は大切にしてほしいですし、無理にとも言いません。とりあえずまた、タイミングが合えば、昼ごはんに行きませんか? それとも、嫌ですかね、自分なんかとはもう」
「そんなこと、ありません。でも、真さんはそれでいいんですか?」
「それでもいいです。木綿子さんとまたごはんに行けるなら」
その一年後に交際が始まり、さらに二年後、プロポーズを申し込み、ゆうさんは受けてくれた。もうすぐ一周年。互いにこそこそしていて、ああ、何か準備してくれているんだろうなあ、そして、バレているんだろうなあと思った。楽しみな気持ちが風船のように膨らんでいたのに、それを萎ませる事件が起きたのは、昨日の夜のことだった。
ここ最近妻の帰りが遅かったが、今忙しくて、としか言わなかった。ちょうど決算の時期か、と思っていたが、いつもよりずいぶん帰りの遅い彼女を心配しながらテレビをつけると、二十二時前のニュースをやっていた。そこで目に入った情報に目を疑った。
本日、自身が勤めている会社の預金講座から、約一千万円を横領したとして、役員の男が逮捕されました。
業務上横領の疑いで逮捕されたのは
内容ではなく、映っていたビルがうちのビルだったことに驚いた。しかし、緊急の連絡などは特になく、うちの会社ではない。他にも多くの会社が入っているビルだ。ただ、自分の身近なところで全国ニュースになるような事件が起こったことに驚きを隠せなかった。ニュースはすぐに終わり、次の番組の予告をやっている。そのとき、ドアがガチャリと開く音がして、玄関先に向かった。
「ゆうさん、おかえり。遅かったね」
「ただいま……。ニュース、見た?」
「横領の? うちのビルだったよね。びっくりしたよ」
押し黙る彼女を不審に思い、再び話しかける。
「ゆうさん、どうしたの? まさか、マスコミに何か聞かれたの?」
俯く彼女に、まさか、と嫌な予感がした。
「あのね、その横領、うちの会社なの。詳しくは言えないけど、数日前からバタバタしてて、今朝、正式に逮捕されたの。それで、事情聴取を受けてきたの。場合によってはまた事情聴取に」
「事情聴取? え、ゆうさんの会社?」
頭が追いつかない。ゆうさんも事情聴取を受けたのか? 経理部だから?
「それで、明日は自宅待機。いろいろ押収されて、部長たちが弁護士さんたちと今後について決定するまでは」
「そっか……」
気の利いたことも言えないまま、時計の針の音が嫌に響く。
「連絡もしなくてごめん。今日は疲れちゃったから、このまま寝るね」
引き留める間もなく、彼女は寝室にこもってしまった。
最寄り駅のホームについた。部屋を見ると、遮光カーテンは開いていて、レースカーテンだけが閉まっているのに部屋から灯りが漏れていない。駅を出ると、地面が濡れていた。やはり雨が降ったようだ。息を弾ませながら自動ドアを抜けると、エレベーターは上に向かっているところで、九階を指していた。待つのももどかしく、外に出て階段を駆け上がる。鍵を開けてドアを開く。
「ただいま」
部屋の奥に向かって声をかけると、電気のついていない部屋から「おかえり」と声が聞こえた。よかった、とりあえず、ちゃんとここにいた。電気をつけ、少し明るさを落とす。
「ごめん、家にいたのに何も作ってない」
「そんなの気にしないでいいよ」
「それとね、ごはんなんだけど」
「食べられなかった?」
「ごめん」
首を横に振り、責めていると思われないよう、慎重に、明るく軽い感じになるように話す。
「もう、ゆうさん。ごめん禁止ね。ああ、やっとゆうさんに会えたよ~」
そう言って、ゆっくり彼女を抱き締める。そしてすぐに離れて弁解した。
「いや、ごめん、汗臭かったよね? シャワー浴びてくるわ。うわ、もう僕ったら」
すると、昨日からずっと張り詰めた表情をしていた彼女が、ようやく口元を緩めた。
「大丈夫よ、汗をかいてるのは私も一緒。さっきまでベランダに出てたんだ。ごめん、開けっ放しにしてて。閉めるね」
そう言って、ベランダに向かう彼女の手を掴む。
「一緒に行こう」
途中でキッチンに寄ってグラスを二つ棚から取り出す。一つを妻に持たせ、もう一つを持ち、冷蔵庫に一度グラスを置いてから麦茶のピッチャーを取り出す。彼女のグラスに並々と麦茶を注ぎ、自分のにも同じように注ぐ。勢いよく麦茶をあおる。氷を入れるように少し濃いめに作っているのをそのまま飲んだから、少し渋い。昨日作ってパックを入れたままにしていたから、余計に濃くなったんだろう。
「ああ、うめ~。ほら、ゆうさんも飲んで。熱中症になっちゃうよ。染み渡るな~。あ、氷入れる?」
「うん、わかったから。氷、入れてもらおうかな」
ゆうさんのグラスに冷凍庫から取り出した氷を一つ、ポチャンと入れる。麦茶を飲みながら、「おいしい」と微笑んだ顔に、汗ではない水が伝ったのを見ないふりをして、麦茶のおかわりを注いだ。
窓から生ぬるい風が入り込んで、風鈴がチリンチリンと揺れていた。冷えた部屋の快適さを知っているのに、今はこの風鈴の音を聴きながら、ふたり並んで麦茶を飲んでいたい。そんな気分だった。窓に映る彼女の顔は、今朝より少しだけやわらかく、まぶたが腫れている。もう週末だ。今夜はゆっくり、彼女の話を聴けたらいい。いや、聴けなくてもいい。来週のことなんか考えないで、ただそばにいられれば、それで。
🎐
小牧幸助さん、今週も素敵なお題をいただきありがとうございます!
初期作品の主人公の数年後を、夫目線で書いてみました。
(昔読んでくださった方へ。諸事情で彼女の名前を変えています)
風鈴というお題とそぐわない重たい話になってしまったかもしれません…。
読者のみなさま、今週も読みに来てくださってありがとうございます!
いよいよ来週テレビが来ます。
見たかったたくさんの番組が見られなくて歯がゆい思いをしていましたが、ようやくです。
おかげでもともとの予定もあり、今月だけで有休をかなり消化するはめに…。昨年度最小限に留めておいてよかったです。
それではまた。水分補給をしっかりして、熱中症にならないようくれぐれもご自愛くださいね。
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