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花も人も

 ここに越してきて三年が経つ。最近近くに新しい人が越してきた。公園で野の花と話すおばあさん。蔦の絡まる二階建てのアパートに、あの人は一人暮らしをしているらしい。母さんが、二十四時間営業している最寄りのスーパーのレジで聞いたと言っていた。今日も近所の人たちが好奇の目で遠巻きにあの人を見るのを横目に、僕は自転車を漕いで帰宅する。
 中学校三年生の途中で母さんと引っ越してきて、今年は大学受験の年だ。僕の通う高校は、みな何かしらの部活に入らなくてはならず、仕方なく、活動や交流の少ない園芸部に入っていた。種をまき、雑草を抜き、水をやる。野菜を育てる部員もあったが、僕は花ばかり育てた。よく学校や家のプランターに咲いている、育ちやすい花。その部活も引退し、受験勉強に勤しむ日々を送っている。

「ただいま」
 返ってくる声はない。母さんは仕事だ。一時期リモートワークで家にいたときに声をかけていた癖がまだ抜けない。とりあえず買ってきたナマモノや飲み物を冷蔵庫に入れようと開けて、卵を買い忘れたことに気づいた。庫内には、空の卵パックが卵ポケットに収まっていた。今夜は卵が欠かせない。僕は少し迷って、今行ってきたばかりのスーパーへ再び急いで向かうことを決めた。
 買い物を済ませてサッカー台で卵をビニール袋に入れていると、窓の向こうは先ほどまで明るかったのに薄暗くなっていた。早く帰らないと。卵を割らないようにタオルでくるみ、リュックの底に入れる。外に出ると制服では肌寒く、リュックに入れてきたパーカーを羽織り、自転車に乗る。勢いよく漕ぐと、当たる風が冷たい。この前まで暑かったし、何なら昼間はまだ暑いくせに、夜には一気に冷え込むのだ。

 自宅近くの公園に差し掛かったところで、あの人がまだいるのが見えた。藤色のショールを肩に掛けているが、薄着で暗がりのなかしゃがんでいる。もしかして、動けなくなっているのではないか。自転車を公園前の自転車置き場に停め、あの人に駆け寄る。
「おばあさん、大丈夫ですか? 動けますか?」
 僕が声をかけると、彼女はこちらを向いて目をぱちくりさせた。
「大丈夫よ。あらあら、心配をかけてしまったようねえ。ごめんなさいねえ」
 何か一人でしゃべっているのを見たところはあるが、声を聞くのはこれが初めてだった。
「いえ、大丈夫ならいいんです。お邪魔しました。あの、寒くないですか?」
「まあ、もうこんなに暗くなっていたのねえ」
 言うなり、彼女はくしゅんと一つくしゃみをした。僕は羽織っていたパーカーを脱ぎ、差し出す。
「どうぞ。僕、すぐそこなので」
「それは悪いわあ」
「遠慮なく。遅いので、早く帰ったほうがいいですよ。すみません、僕、急いでいるのでこれで」
 パーカーを半ば押し付けるように渡し、自転車に乗ってペダルを全速力で漕いだ。
 帰宅するなり、手洗いうがいを済ませて調理に取り掛かる。と言っても、決して手の込んだものではない。母さんが帰ってきたら、温め直してすぐ出せるように準備をしていく。生姜とねぎを洗う。前は生ぬるかった水も、もう冷たい。生姜はすりおろし、ねぎはみじん切りにする。鍋に水、冷凍していたごはん、生姜、ねぎを入れて弱火にかけ、焦げ付かないよう箸で混ぜる。ふつふつと泡が出てきたら、火から下ろして蓋をしておく。帰ってくるまで、食卓で勉強する。

「ただいま」
 母さんが帰ってきた。勉強道具をリュックにしまう。
「おかえり」
 母さんが部屋に入ってくるまでの間に仕上げにかかる。卵を二つ割って溶き、鍋を再び火にかけて再沸騰したところで卵を回し入れ、白だしを入れる。味見すると、悪くない。卵が半熟になったところで火を止める。お椀に少なめに盛って机に並べる。箸を並べたところで、着替えた母さんが部屋に入ってきた。
「おいしそうなにおいがドアから漏れてたわ」
「ただの卵粥だよ」
「ただのじゃない。これ、おいしいもの」
 母さんが席に着く。
「いただきます」
 口に運ぶのを見つめる。
「おいしい」
 口より先に顔が物語っていた。どうやら本当においしいらしい。
「おかわりもあるから、いるなら言って。食べられなければ残していいよ。鍋の残りは僕が食べるから」
「ありがとう、朝飛あさひ。でもよくわかったね」
「何が?」
「気づいてたんでしょう、私が風邪気味だって。風邪のとき、いつもこれを作ってくれるわ」
 母さんの不調はわかりやすい。めっきり食欲がなくなるのだ。食べてくるからと嘘をついて帰ってくる。最近残業が多く、会議も多くて休めなさそうだった。昨日鼻声になったのに気づいて、今日は卵粥にしようと決めた。食欲がないときは具は少ないほうがいい。喉の調子もよくなさそうだったから、小さめに切った。
「別に。今日公園であの人と話したんだ。そのときくしゃみをしていたから、今夜はあったかいものがいいかと思っただけ」
 時系列はともかく、嘘ではない。
「おはなさんね。大丈夫かしら」
 人の心配より、まずは自分の心配をしてほしい。
「おはなさんって言うの、あの人。あだ名?」
尾花おばなさんと言うそうよ。私はまだお話ししたことがないの。でも、お花を愛でる尾花さんで、おはなさんって、いいでしょう」
 微笑む母さんに、曖昧に返事をした。

 翌日、僕が起きると朝一で会議だからと出かけて行くところだった。食卓に向かうと、「昨日は卵がゆごちそうさま。とってもおいしかったよ。 撫子なでしこ」と書かれた一筆箋が置かれていた。挨拶を交わしたときの顔色も、昨夜よりはましだった。相変わらず鼻声ではあったけれど。今夜も卵粥にしようか。卵はまだあるし。味は変えようかな。僕はおいしいものはずっと食べられるが、母さんは同じ味だと飽きるのを知っている。決して口にはしないけど、わかるのだ。
 学校からの帰り道、あの人、尾花さんが道端にいた。いつものように花と戯れてはおらず、手にビニール袋を下げて誰かを待っているようだった。自転車で通り過ぎようとしたら、声を掛けられた。自転車を止める。
「あなた。昨日はありがとう。これ、洗濯したから返そうと思ったんだけど、家がわからなかったから」
 僕を待っていたのか。
「別によかったのに」
 そう言うと、彼女は袋ごと僕に差し出す。
「だめよ。親御さんが買ってくれた大切なものでしょう。ありがとう。あなたのおかげで、家まで暖かかったわあ」
 自転車から降りてスタンドを立て、パーカーの入った袋を受け取る。パーカーを取り出して袋を返そうとする。
「袋ごとどうぞ」
「でも」
「ほら、あそこのスーパーで買い物をしたときのなの。うっかり手提げ袋を忘れちゃってねえ。だから遠慮なく」
「はあ」
 引き下がりそうもなく、袋ごと受け取る。
「あなた、今日も急いでいるかしら」
「今日は別に」
 買い物は昨日しているし、メニューも昨日と同じだから少しくらいはかまわないが、なんだろう。
「なら、ちょっとだけ、おばあさんに付き合ってくれないかしら」

 彼女の後をついて公園に入ると、昨日も見かけた花が咲いていた。秋の七草にも数えられる花々が。
「綺麗ですね」
 彼女はうれしそうに花々を見つめる。
「ねえ。あなたも花はお好き?」
「まあ。一応、園芸部でした」
 こちらを振り向いて、ぱあっと顔を輝かせる。
「植えられた花はねえ、植えて水やりや剪定をしてくれる人を思っているの」
 彼女が語りだす。
「花屋の花は、お客さまに愛されようと必死よ。切り花は、最期をきらめくの」
 花に聞いたのだろうか。彼女ならありえるかもしれない。
「私はね、どんな花も大好きだけれど、野の草花がいっとう好きねえ。可憐で朗らかに見えるでしょう。でも、違うの」
 違う、とは。
「何が違うんですか」
「この子たちは案外たくましくて、戦っているのよ」
 ああ、生存競争か。生きるために工夫して花を咲かせ、虫や鳥が蜜や実を飲んで食べて、そうして子孫を残す。花のあの美しさは、生存戦略なのだ。蒲公英なんて、とても強かな花だ。外来種と在来種、それぞれが異なる戦略をもって共存している。
「あなたの親御さんがそうしたように、子孫を残していくために戦っているの」
 母さんも、一人で戦っている。僕のために。僕はまだ守られている。野草ではなく、温室のなかで育てられる花のように。
「花も人も、弱くて、強いですね」
「そうねえ。そして、花も人も、生きて、人を幸せにすることができるわ。こうして私たちを癒してくれる花に、パーカーを初めて話す人間に差し出すあなた。花にはね、名前があるの。呼んであげると喜ぶわあ。この花はねえ」
「河原撫子、ですよね」
「そう。さすが元園芸部ねえ。ほら、喜んでいるわあ」
 耳をすませてもやっぱり喜びの声は聞こえないし、笑ったようにも見えなかった。この人には、表情も声の調子もわかるんだろうか。
「人に名前があって、その名前を覚えてもらえるとうれしいように、花だってそうなのよ。そこのあなた、より、名前で呼んでもらえたほうがうれしいでしょう? あら、名前を聞いてなかったわねえ。でも、今どき知らないおばあさんが名前を聞くのもよくないかしら」
 考え込む彼女に、首を横に振って言う。
「尾花さんのこといつも見かけるんで、一応認識はしています。僕は朝飛です」
「あさひくん。いいお名前ねえ。どんな字を書くの?」
「『朝顔』の『朝』に、『飛翔』の『飛』です」
 名前の説明をするのは、なんだか照れ臭い。
「朝飛くん。素敵ねえ。朝貌あさがおも、秋の七草ねえ」
 朝顔なんか、秋の七草にあったっけ。
山上憶良やまのうえのおくらが詠んだ歌に出てくるの。桔梗のことを指して詠んだんじゃないかって言われているわねえ」
 桔梗はあった気がする。万葉集では朝顔と詠まれているのか。
「朝飛くん、引き止めてしまってごめんなさいねえ。今日はちゃんと上着を羽織ってきたから心配しないで。私はもう少ししたら帰るから、気をつけて帰りなさい」
 言われて、ずいぶん時間が経っていたことに気づいた。返されたパーカーを羽織り、家路を急ぐ。

「ただいま」
 鍵を開けていつもの調子で言う。
「おかえり」
 声が返ってくると思わず驚いた。奥の電気が点いており、母さんがこちらへ向かってきた。
「早かったんだ。ごめん、まだ」
「もうできてるよ。手を洗って早くおいで。今日寒かったでしょう」
 慌てて手洗いうがいを済ませて食卓につく。いいにおいが鼻腔をくすぐる。
「今夜はあんかけうどんよ。と言っても、昨日朝飛が仕込んでくれてた具を使ったんだけどね」
 僕のほうには鶏肉ときのこ、たまねぎ、にんじんが入っている。わざわざ買い足してくれたのか。
「せっかく早く帰ったなら、無理せず休んでてよかったのに」
「いいじゃない、たまには母親らしいことさせて。いつもありがとう」
 いつも、守ってくれているじゃないか。いや、言わないと伝わらないよな。精一杯、伝えようと努力する。
「母さん、いや、撫子さん。僕こそ、いつもありがとう。働いてくれて。就職するって言ったの止めて、大学に行かせようとしてくれて。でも、僕のためにあんまり無理しないでほしい。頼むから」
 母さんが目をまんまるくして、目尻を下げてこちらを見つめる。
「ちょうど今日で一段落したのよ。誤解しないでほしいんだけど、ごはんを作るのも、働くのも、無理してなんかいないの。まあ仕事はね、多少の無理も必要なときがあるのよ。働きだしたらわかるわ」
「ほら、無理してる」
 そりゃ、仕事だし、わからなくもないけど。母さんは無理しすぎるときがあるから、心配だ。
「でも、朝飛のためだけじゃない。私自身のために、今の仕事をがんばりたいし、朝飛を喜ばせたいの。朝飛は、私のせいで人一倍気を遣う子になってしまったからね。それ自体はいいのよ、優しくて、大好きよ。私が言っても説得力に欠けるかもしれないけど、もっとわがままを言っていいし、自分自身を大切にしてほしい。生きたいように自分の人生を生きるために、大学に行って楽しんで、進みたいほうへ進んでほしいのよ」
 自分の何倍もの甘い言葉が返ってきて、何も言えなくなる。慣れないことはするんじゃないな。
「私も気をつけないとね。朝飛が安心して一人暮らしできるように」
「本当だよ」
「ほら、冷める前に食べてみて」
 あんかけうどんからは、まだしっかり湯気が立っている。席について、手を合わせる。
「いただきます」
 母さんが見つめるのに気づかないふりをして、麺を啜る。あったかくて優しい、ちょっぴり甘い薄味。母さんの味だ。
「おいしい」
 母さんの笑顔がはじけた。
「よかった。朝飛が言うなら間違いないね」
「え、味見してないのかよ?」
「風邪を移したら悪いと思って」
「そうか。ちゃんとおいしい。いつもの母さんの味だよ」
「よかった。鼻が利かなくて、少し不安だったの」
「母さんも食べてよ」
「うん」
 二人分の麺を啜る音が部屋に響いた。
「今度、風邪が治ったらあそこの公園に行かない?」
「もうずいぶん行ってなかったわね」
「今、河原撫子が咲いているんだ」
「まあ」
 河原撫子にも負けない微笑みだ。

「ごちそうさまでした。後片付けはやっとくから、早くお風呂に入って寝なよ」
「ありがとう。お言葉に甘えます。早く治すね。朝飛も気をつけるのよ」
「そうして。僕はちゃんと気をつけてる。来週模試だから」
「そうだったね。じゃあ、お先にシャワーいってきます」
「いってらっしゃい」
 しんとした室内に、まだあんかけうどんのにおいが残っていた。

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