流れ星に願うシュウマツ
流れ星でも観ようか。末永周平の誘いに、同じプロジェクトチームの平松星那はウキウキしながら、彼に続いて屋上へと続く階段を上がる。
「流れ星に、周ちゃんは何を願うの?」
八月十二日、月曜日の深夜。会社の屋上で寝そべりながら星那が言う。終電をふたりして逃した。たまたま周平がタクシーを呼ぼうとスマホの上を滑らせた指。流れていく通知のニュース記事を横にスライドさせているうちに、「ペルセウス座流星群が極大」というタイトルの記事が彼の目に留まる。すると、ロマンチックという言葉とは縁遠そうな雰囲気を醸す彼から似つかわしくない言葉が飛び出した。今夜の少しハイな彼に、星那は興味津々だった。
「シュウマツ、かな」
「週末? 毎週来るじゃん。でもいいよね! 毎日が日曜日。まだ週始めだし、いいかも」
「ふふ、そうだね」
それからしばらくふたりは真上を見上げた。やがて、星が流れた。
(週末週末週末)
(終末終末終末)
「心のなかで唱えたよ! 叶うよ!」
興奮気味に言う彼女に、周平は言う。
「叶っちゃうかもね。そのとき僕たち、いったいどうなるんだろうね」
見てみたい、終末を。
星を見上げていたふたりは気づいたら眠っていた。先に起きたのは星那だった。じっとりと見えない汗に体が覆われている。体を起こし、大きく伸びをする。隣には、まだ周平が眠っていた。腕時計を見ようとして、時計の針が見える明るさになっていることに気づく。九時を少し過ぎたあたりを差していた。
「周ちゃん周ちゃん、やばい、九時過ぎてる! もう三十分ないよ、どうしよう。シャワー室行って、置き服着て……」
世間はいわゆるお盆休み。彼らの同僚たちも多くが有給休暇を取っている。しかし、ふたりは今日も仕事だった。
「周ちゃん、起きて! もうすぐ始業時間だよ。他に誰も出社しないけど、パソコン立ち上げ時間と勤怠管理システムが連動してるんだから、ばれちゃうんだからね。給料減っちゃうよ」
星那の大きな声が屋上の空気を震わせる。周平を揺すり続け、ようやく彼も目を覚ました。
「星那、おはよう」
「周ちゃん行くよ。遅れちゃうってば。とりあえずパソコン立ち上げて打刻しよ。他に人もいないし、シャワーや着替えは後ね」
星那の伸ばした手を掴み、周平が体を起こす。始業時間も近いのに嫌に静かだと思った。屋上と言えど、社屋は三階建て。
立ち上がった彼は、星那と屋上入り口のドアに向かいながら、フェンス向こうの道路を見る。車は一台も見えない。歩道に人も見当たらない。オフィス街というわけではなく、店も病院も人家もある場所に社屋はある。いつも聞こえる救急車の音はなく、夏休み特有の子どもたちの声も聞こえない。蝉の声すらしない。空港が近いのに、飛行機も飛んでいない。同じ高さに見える線路上を走る電車もない。この時間、いつもなら上りと下りの急行が時間差で過ぎていくはずなのに。星那のブツブツ言う声以外聞こえないし、星那以外の人も見当たらない。
彼は一つの仮説に思い当たる。自分の唱えた願いを、あの流星は叶えてしまったのかもしれない、と。
終末を迎えたら。僕たちはどうなるんだろう。
「星那。気づかない?」
「周ちゃん、何のこと? 早く行かないと」
「そうだね、とりあえず行こうか」
ふたりは階段を下り、事務所に着いた。星那は机の鍵を開けてパソコンを取り出し、電源スイッチを入れる。しかし、起動しない。少し長めに押し直し、さらに押してもパソコンはつかない。周平が電気やエアコンのスイッチを押すが、こちらもつかない。彼はトイレに行き、水道の蛇口を捻る。三つの蛇口を順に捻ったが、どの蛇口からも水は出ない。
「周ちゃんどこ!? 停電かも、どうしよう。パソコンも電話も動かないよ」
星那のところに戻った周平は言う。
「星那。多分、何も動かないよ。今、シュウマツなんだ」
「何言ってんの? 週明けたじゃん、お盆だけど月曜日だよ?」
「一週間の末じゃないよ。終わりの末ってことさ」
「終末……? え、まさか、昨日周ちゃんが言ってたのって」
「そうだよ星那。僕が望んだんだ、"終末"を。流星は僕の願いのほうを叶えたんだ。星那が望んだ"週末"じゃなくて」
この便利な社会は、人々の営みによって成り立っている。しかし、人々が望んだその便利な社会は、人々を苦しめる。一部の人間だけがありがたみを甘受し、その他大勢が無理を押してなんとか成り立たせている。
こんな歪な構造、壊れてしまえば。いつしか周平はそんなことを思うようになった。
彼らの会社はまだ恵まれている。たまたま周平と星那が主軸となって進めているプロジェクトにトラブルがあり、彼らはお盆返上で働いている。それさえ解決すれば、ずらして休める。
しかし、たくさんの社会人が、社会の歯車となって身も心も磨り減らしている。余裕のない人は、別のところでぶつけようもない憤りを理不尽にぶつけ、自己嫌悪に陥る。ぎりぎりのなかで憤りをぶつけられた人は動けなくなる。一度動けなくなった人間を社会は厄介者扱いする。なんとかふんばって日々の業務をこなす多くの人は、現実をカーテンで覆い、そのなかで日々を生きる。そうしないとやっていけない。
どうすればいいんだ。みな、心のなかでやり場のない感情を抱え、折り合いをつけようと必死だ。
誰のために働くんだ。誰がこんな世の中にしたんだ。誰の望みなんだ。周平はやがて、自分の望みにたどり着く。こんな世の中なら、終わってしまえばいい、と。
それでも私は、週末を待ってみんなと生きていたい。
「周ちゃん、私もね、終末を願ったことがあるよ」
周平は虚をつかれたように星那の顔を見る。
「能天気で、世の中のことなんか何にも考えてないと思ってた?」
星那は目を細め、口を覆って彼を見つめながら笑った。そして、口角を下げ、手を下ろして真面目な顔つきで語り始めた。
星那は、新卒から入ってしばらく営業をしていた。しかし、ある営業先の取引相手から、執拗に付きまとわれるようになった。鳴り止まない電話。長文のメール。営業部長に相談すると、このことは内密にと言われた。私が一緒に付き添うから。言葉通り取引先に同行すると、取引相手は怯んだ様子でこちらに近づこうともしなかった。
その営業先に行く際の注意点が部長から彼女に説明された。しかし、営業先を変えてはくれなかった。もともと一番負担の少ない地区を割り当ててもらってはいた。配慮がなかったわけではない。それでも恐怖が拭えない星那は、大変でも他のところに行きたがった。こんな中途半端な時期に地区替えなど、みな困る。もしまた何かあったらいつでも相談に乗るからと、地区替えだけは聞き入れてもらえなかった。
他のみんなの負担も、誰より調整役の部長が大変だと、星那はわかっていた。でもきっと、別の理由のほうが大きいのだろうと踏んでいた。自分が耐えれば、今後同じ目に遭った後輩も同じ道を辿ることになる。だから彼女は何度も議論したが、平行線を辿るばかりだった。
星那は、あの営業先に行くのが怖かった。お得意様だから、行かないわけにはいかなかった。行くたび彼女は足が竦んだ。一度、不安でいっぱいになり、道中のコンビニのトイレに寄った。しばらくうずくまっていた。ドンドンドン。ドアを開けると、迷惑そうな客が睨み付けてトイレに入っていった。頭を下げ、買い物をして、車中でしばらくぼーっと運転席に座っていた。コンコン。店員だった。窓の向こうに、「長時間の駐車はご遠慮ください」と赤い太字で書かれた看板が彼女の目に入る。窓を開けて謝罪し、彼女は営業先に向かった。
やがて、例の取引相手はいなくなった。辞めたそうだ。それでも、営業そのものが怖くなった星那は、社長に相談し、しばらく休みを取った。休んでいる間、総務担当者は最低限のやり取りで済ませて丁寧に対応し、復帰にあたり部署変えを提案してくれた。彼女が企画部に異動になり二年が経つ。周平は一年前に東京事業所から移ってきたので、星那の過去を知らなかった。周平は何も言えなかった。何を言えばよいか、わからなかった。
「それでもね、今周ちゃんとプロジェクトを任されて、私楽しいんだ。もちろん大変なこともあるよ。お盆返上で遅れを巻き返さないといけないし、先方との調整もあるしね。やんなっちゃうことだってあるよ。今でもね、あの取引先方面に行くの、怖いんだ。忘れられなくて」
周平は黙って星那の話に耳を傾ける。
「だけど、終わらせたくないよ。大変なことのほうが多いけど、苦しくてもつらくても、生きて楽しさとかうれしさを感じる瞬間を味わいたい。生きててよかったって思えること、周ちゃんはないの?」
周平は、星那の質問の答えを探す。星那は静かに待っていた。沈黙は続く。エアコンのきかない部屋の室温は、時の経過とともに上がる。ふたりの顔から雫が伝う。
「ないことはない」
周平が口を開いた。星那が微笑む。
「でも、おかしくないか。こんな世の中。壊したくなるんだ。真っ当に生きている人間が馬鹿を見る構造を。なんでだよって、何度……。僕の父は、あんなに会社に尽くしてきたのに、呆気なくリストラされてさ。個人タクシードライバーに転職して、朝も夜もなく働いた。母もパートを増やして僕を大学に行かせた。お前はいいところに行っていいところに入れって」
周平の話に、星那は顔を歪める。
「幸い両親のおかげで不自由なく暮らせているし、親孝行だってさせてもらってる。でも、父のような人は今でもいる。星那みたいに、見てみぬふりされて、がんばっても変わらなくて。それでも、ここで生き続けたい?」
周平が星那に問う。間髪いれずに答えた。
「うん。周ちゃんとまた週末を迎えたいよ」
星那の目の光の強さが彼には眩しかった。
「今夜も、流れ星を観ようか」
昨日ぶりの周平からの誘いに、彼女は満面の笑みを浮かべた。何も動かないから、ふたりは非常食の缶詰とクッキー、ペットボトルの水という微妙な組み合わせの昼食をとり、できる業務だけ済ませ、普段疎かになっていた片づけをした。
時計の針が真上で重なった。クッキーの残りとペットボトルの水、スマホを握り、ふたりは屋上に上がった。
星は今日も変わらず瞬いていた。街灯も消え、音もない夜は不気味で、ただ星は昨日より明るい。この辺りでは見られない天の川もふたりの目に映った。
星が流れた。
(週末週末週末)
(週末週末週末)
視線がぶつかる。そして、お互いに笑った。静かに星を見上げていたふたりの目蓋は重くなり、どちらともなく寝息を立て始めた。
周平が先に目を覚ます。すっかり日が高くなり、服に汗じみができていた。起き上がって様子を窺おうとして、聞こえた。子どもたちの声。烏や蝉の声。フェンス向こうの道路を見る。車が複数台並んで信号待ちをしている。歩道を子どもたちが手を挙げて渡る。パトカーが音を立てずにパトロールしている。渡りきった子どもの一人の敬礼に、パトカーのなかの警察官がにこやかに敬礼を返すのが、視力のいい周平には見えた。飛行機雲が空をなぞる。電車が右からゆっくりと駅に入る。
周平はポケットからスマホを取り出す。画面ロックを解除すると、待ち受け画面の日付に目が留まる。八月十七日、土曜日と表示されていた。後ろを振り向く。寝返りを打った星那に駆け寄り、彼女の背中を叩いて言う。
「星那、起きて。シュウマツだよ」
🌠
小牧さん、今週も素敵なお題をありがとうございました!
流れ星を十年以上観ていないすーこです。また観てみたくなりました。実は、学生の頃少しだけ天文サークルに在籍しており(幽霊部員だった)、兵庫県の山で流れ星を一度観たことがあります。
八月のうちに書き上げたかったのですが、間に合いませんでした。気づけばもう九月です。
読者のみなさま、今週もお読みくださりありがとうございました!
台風はみなさんのところは大丈夫でしょうか?
引き続きくれぐれもお気をつけください。