朝茶は七里帰っても飲め 四杯目
四杯目 茶酒盛り
「嬉野ユウリはいない。こんな時間に非常識だぞ」
キリーさんがドア越しに、突然やって来たカインと名乗る外の男性に言う。
「言ったはずです、隠しても無駄だと。調べはついています」
男性の冷たい声が聞こえる。小声でカセさんが言う。
「キリー、入れるなよ!」
「あったりめーよ!」
キリーさんが小声で返す。
「手荒な真似はしたくなかったのですが、仕方ないですね。入れてもらわないと埒が明かない」
「おい、何する気だ?」
「下がってください、怪我しますよ」
男性の叫び声の後に、ガンっと、ドアに斧を振り下ろしたような音がした。下がってと声をかけようとするも、アンナに口を塞がれる。このままじゃキリーさんが!
ガン、ガン、と何度か音がし、ガチャリ、と鍵が回る音がする。
「ふふ、古いアパートで助かりました」
不敵な笑い声とともに、ドアを押し開けようとするのを、キリーさんが押し返す。
「勝手なことすんじゃねー」
しかし、キリーさんの抵抗も虚しく、ドアは押し開けられ、キリーさんは床に転がった。
「キリーさん!」
キリーさんと同年代くらいの黒服の男性、カインがずかずかとこちらへ歩み寄る。
「嬉野ユウリ。探したよ」
アンナとカセさんが立ち塞がろうとするのを制する。
「待って」
大丈夫、と口パクで告げると、二人は渋々下がる。
「カイン、と言いましたね。私に何用ですか?」
尋ねるなり、カインが私に手を伸ばす。
「ユウリ!」
三人が慌てて来ようとするが、カインのほうが早かった。そして、私に触れたかと思うと、力いっぱい抱き締める。状況が飲み込めない。
「ユウリ、無事で本当によかった……」
「カイン、痛い」
「ごめん。火傷に傷……。大変だったね」
慈しむように私を見つめ、私より痛そうな顔をするカインに、私たち四人は呆けて立ち尽くした。
私たちはキリーさんの部屋に移動し、カインと食卓を囲んで座り、話を聞くことにした。
「おい、説明しろ! お前、魔法使いってなんだ、ユウリとどういう関係なんだ。ユウリ、知ってんのか?」
私はカインを見て、首を横に振る。
「説明します。キリーさん、と言いましたね。先ほどは失礼しました。お怪我はありませんか?」
「ねーよ。尻餅つかされたけどな」
「申し訳ございませんでした。どうしてもお部屋に入れていただきたかったのですが、聞き入れていただけないと思いまして」
カインは、キリーさんを向き、申し訳なさそうに深々と頭を下げる。
「当然だろ。こっちが今どれだけ周りを警戒してると思ってんだ」
「失礼しました。魔法の話は後ほど。まず、私はユウリの敵ではありません。ユウリに差し向けられた刺客はすぐにはやって来ないはずです。今のうちに身支度を整えて、出たほうがいい」
敵ではない。信じていいのか? 刺客はすぐにはやって来ないはずって、どうして。
「刺客がすぐには来ないと、どうして言えるのですか?」
「僕がユウリを追う彼らの記憶を消し、遠くへ遣ったからだよ。といっても、指示した者たちも不審がって、次の手を打つだろう。居場所が割れるのも時間の問題なんだ、今のうちに早く安全な場所へ逃げよう、ユウリ」
記憶を、消した……?
「記憶を消したって、え? どういうこと?」
アンナが尋ねた。
「私は、記憶を司る魔法使いです。残念ながらそれ以外の魔法は使えませんので、地道に調べてようやくここにたどり着きました。道中、ユウリのことを探る者たちを見かけたので、彼らの記憶を消し、タクシーを捕まえて金を払い、その金で行ける僻地まで連れて行って降ろすよう依頼したというわけです。ユウリを守ろうとしてくださったあなたたちには、もう危害を加えません。どうか信じてください。決して彼女を裏切る真似はしません」
再び深々と私たちのほうに頭を下げるカイン。アンナが口を開く。
「信じる、とすぐには言えない。夜も遅いし、急ぐ気持ちはわかるけど、今夜のところは休まない? カセさん、空き部屋にカインに泊まってもらってもいいですか?」
「アンナ、お前」
「キリー、本当に悪者なら、絶対今狙ったほうが得。急ぐタイミングで、こんな回りくどい方法をとらないと思う。話を聞いて、ユウリを託せる相手か確認しよう。カセさん、だめですか?」
アンナが提案する。
「そうだな」
カセさんも首肯する。
「カセさんまで」
キリーさんは二人に呆れ、カインに鋭い視線を投げる。私もとりあえず今はみんな休んだ方がよいだろうと思い、アンナ、カセさんの好意に甘える。
「キリーさん、ありがとうございます。みなさんのおっしゃる通り、いったん休みましょう。私のこと、カインのことで、みなさん混乱されてお疲れでしょうし。ただアンナの部屋、鍵が壊れてしまいましたね……。カインが壊したから」
私がじっとりとした視線をカインに向けて言うと、彼は肩を竦めて観念した。
「すみません。わかりました、今夜は諦めます。こうしませんか。私は外にいます。カセさん、ユウリたちを空き部屋に泊めていただけないでしょうか?」
「じゃあ、君はうちに来なさい」
カセさんの言葉に、キリーがため息を吐く。
「カセさんよう」
「見張りがあったほうがみんなもいいだろう」
「恐縮です。お世話になります。では、また明日。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
こうして、それぞれの部屋で一晩休んだ。
朝が来た。またみんなでキリーさんの部屋に集まり、アンナが作ってくれた朝食を、私はお粥を食べ、カセさんのところのお茶をすする。香りがよく、すっきりとして後味もいいこのお茶が、すっかり好きになった。
「それでは、話を進めてもよろしいでしょうか?」
カインが口火を切った。カセさんは、アンナに頼まれ、アンリちゃんを連れて自室に帰った。静かになったのを肯定と受け取り、カインが続ける。
「実は、ユウリは二年前、こちらに来たことがあります」
驚くキリーさんと、納得するアンナと私。
「なんでお前がそれを」
「みなさんご存じでしたか。少し長くなります。私はずっと、ユウリを陰で見守ってきました。二年前のちょうど今頃、ユウリは研究のためにこの地を訪れましたが、大雨に見舞われ、雨宿りをしようとこの五ヶ瀬荘の屋根の下に入りました」
「そんなところでどうしたの? ずぶ濡れじゃない」
妊娠中のアンナさんが、左手にみちみちのスーパーの袋を持ち、右手で傘を差しながら、ユウリに声をかける。
「すみません、雨宿りをさせてもらっていました。傘を持ち合わせていなくて、コンビニも見つからなくて」
「コンビニはずいぶん行かないとないわ。とりあえず雨が止むまでうちに寄らない?」
「いいんですか?」
「ええ、痛たた」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫、この子が蹴ったのよ」
アンナさんは苦笑しながら、愛おしそうにおなかを擦る。
「袋、持ちます」
「ありがとう。ここの二階なの」
「雨は夜になっても降り止まず、アンナさんの家に入れてもらったユウリは泊めてもらうことになりました。その日は夜通し雨が降り続き、翌日も雨が勢いを増すなか、二人はそのまま部屋で過ごしていました。そこに、ユウリがここに一人で来ていることを嗅ぎ付けて来た奴らが、私の死角からアンナさんの部屋に侵入しました。二人の悲鳴を聞き、慌てて駆け付けました」
「何をしているんですか?」
僕は侵入者たちが割った窓から入り込んだ。
「うるせー」
「助けて! 窓を割ってこの人たちが入ってきたの!」
「黙ってろ。お前に用はない、嬉野ユウリはどこだ」
「嬉野ユウリなんて知らない、不法侵入で警察呼ぶわよ!」
侵入者の一人が、叫ぶアンナさんを手で払いのける。転びそうになったところを僕が支え、雨に濡れないように窓から離れた部屋の隅に座らせる。
「ここで静かに座っていてください。彼らはなんとかします。大丈夫、私はあなたたちを決して傷つけません」
アンナさんは頷いて、小声で耳元に囁く。
「ユウリは今トイレに」
「わかりました」
ユウリを探し回る奴らの記憶を消していく。記憶そのものを"視"て、すべての記憶を消し、記憶喪失状態に陥らせる。バタバタと倒れる奴らを押し退け、ユウリのもとへ急いだ。
「ユウリ!」
幸いユウリが見つかる前に奴らの記憶を消すことができた。記憶を消された者は、しばらくの間目を覚まさない。その間に奴らを追い出し、ユウリと逃げなければ。
「誰!?」
ユウリは震えながら、屹度なって睨み付ける。
「私はカイン。あなたの敵ではありません。あなたも彼女も傷つけません」
「アンナは無事ですか?」
「ええ、もう大丈夫です。奴らは私が始末しておきますから、アンナさんの側へ」
ユウリは聞くなり、アンナさんのもとへ駆け寄った。
「アンナ!」
「ユウリ! よかった」
「アンナこそ、怪我はありませんか? おなかは痛くないですか?」
「うん、後から入ってきた彼が支えてくれたから、大丈夫。ユウリは?」
「私もなんともありません」
二人が無事を確かめ合う間に、外へ彼らを一人一人背負って放っておいた。雨はまだ降っていた。
「そういえば、彼は?」
「あの人たちを始末すると言っていましたが」
「まさか、殺人!?」
二人がよからぬ想像をしているのを、割って入って否定する。
「人聞きが悪いですね。私は人を殺めたことはありません。奴らは外へ放っておきました。ユウリさん、今のうちに行きましょう」
ユウリの手を引く。
「行くってどこへ? カイン、あなたは何者なんですか?」
このときは、奴らを遠ざける時間がなく説明する時間も惜しかったため、通りすがりで通すことにした。
「私は、たまたまここからお二人の悲鳴が聞こえたので駆け付けた、通りすがりの者です」
「通りすがりって、あの人たちをいっぺんに伸すなんて、相当なやり手でしょう」
「いえいえ。それより、彼らはユウリさんを探していました。ここにいては二人とも危ない。ここを今すぐ離れた方がいいです」
「カイン、ユウリ、この雨よ。もう少し落ち着くまでいたら?」
「いえ、彼らがいつ目を覚ますかもわかりません。今が好機です。ユウリさん、いいですね?」
「そうね、行きましょう」
「ユウリ、本当にもう行ってしまうの?」
「アンナ、ありがとうございました。怖い思いをさせてごめんなさい。お子さんと無事に暮らしてくださいね」
「ユウリ、この子、女の子だから、私の『アン』とユウリの『リ』をとって、『アンリ』にする! ちゃんと名付け候補メモに書いたから」
アンナさんはノートに「アンリ」と書き付け、ぐるぐるっと囲んだ。ユウリは目を丸くする。
「そんな、私たち、一晩過ごしただけの仲でしょう。大切なお子さんの名前をそんな」
アンナさんは少し寂しげな表情を浮かべて言った。
「去年の末、夫を雪崩で亡くしたの。この大雨で、不安でいっぱいになりながら生活必需品を買い込んだけど、この子を一人で守れるかなってどんどん落ち込んで。そんなとき、ユウリに出会った。昨日と今日、確かに短かったけど、ユウリと過ごせて、私、本当に楽しくて心が軽くなったの。同世代の女の子と話せるのなんて久しぶりで。だから、この子は『アンリ』よ!」
二人の場合は奴らと異なり、直近の記憶のみを消した。記憶を"視る"ことに集中し、アンナさんがユウリと会って以降の記憶を消す。ふらついたアンナさんを支える。驚いて駆け寄るユウリ。大丈夫です、きっと疲れが出たのでしょう、心配ないですよと説得し、アンナさんを布団の上に横たわらせる。ユウリを連れ出し、五ヶ瀬荘から離れた趣のある茶屋で一休みすることになったとき、忘れないように日記を書きたいと彼女は言った。自分のことは書かないように頼み、日記を書くところを見守った。茶屋を出た路地裏でユウリの記憶を"視"て、同じようにアンナさんと会って以降の記憶を消す。そして、ユウリを担いで研究目的地に残し、僕は去った。
「アンナさんの記憶を消したのは、ただ、お子さんと平穏無事に暮らしてほしかったからです。ユウリには、私を認識されたくなかったからです。私は、ユウリを陰ながら見守り、ユウリが危険な目に遭う度、こうしてユウリに危害を加える者を排除して、彼らとユウリの記憶を消してきたんです。ユウリには私のことも辛い記憶も忘れて大切な研究に集中してもらいたかった。まさか、またユウリがアンナさんと出会うとは思わず、不思議なご縁を感じました」
私たちは黙ってカインの話を聞いていた。やはりアンナは、日記のアンナで間違いなかった。私が四度記憶をなくしたのも、アンナが私を覚えていないのも、カインだけが私たちを覚えているのも、すべてカインの仕業だった。それは、アンナや私を思ってのことだった。ここまでを整理して、疑問が浮かぶ。
「カインはどうしてずっと私を陰で見守ってきたの? いつからなの?」
「そうだな……」
カインはしばらく黙った後、簡潔に答える。
「僕はユウリとご両親に恩返しをしているに過ぎない。これ以上は」
「どうせまた記憶を消すんでしょう。覚えていられないとしても、今、知りたい」
私はカインにせがんだ。
「ユウリは……。ご両親にそれはそれは愛されて育った、ご両親にとっての希望なんだよ。お二人とも誰より君の幸せを願い、君たちの未来が明るくなるよう研究に勤しんでいたんだ。僕は、君やご両親の愛と研究に救われた者の一人だよ。だから、君を守りたい。それ以上でも以下でもない。ユウリ、君は日記をつけているね。僕のこと、記憶のことは、今回も決して日記に書かないで。僕も魔法使いの身、敵は少なくないから、危険な芽は摘んでおきたいんだ」
彼のこれまでの行動、そしてこの言葉から、意思の固さを悟った。今まで、日記にカインの名前はなかった。きっとカインと再会する度、日記を書く前に記憶を消されるか、書くことを許されず日記を書くところを見られていたのだろう。記憶を消された間に何が起こったのかを、私は知る由もない。それでも、こちらを真っ直ぐに見つめる彼を信じたいと思った。
「わかりました。明日、あなたとここを去ります。日記にもカインや記憶のことは書きません」
「ユウリ」
アンナが引き留めようとするのを感じると、間髪いれずカインが答える。
「アンナさん、大丈夫です。ユウリのことは私が守ります。これでも、いざとなれば背負って走る体力もあるんですよ。本当は今すぐにでも出たいところですが、万全を期して明朝発つことにしましょう」
「ひょろっとした見た目してるのに、俺のことをなぎ倒したもんな」
キリーさんがぶすくれた顔でカインを見つめるのがおかしい。
「なぎ倒すだなんて。いや、本当に失礼しました」
キリーさんがふっと笑ってから、真剣な面持ちで言う。
「アンナ、カインに任せよう。もし何かあったら絶対ニュースになるだろう。そしたらカイン、承知しねーぞ」
「命に替えてもユウリは守ります」
「命に替えられちゃ困るんだ。ユウリもてめえもちゃんと守り抜けよ」
「善処します」
二人のやりとりを聞いて、アンナも頷く。
「わかった。じゃあ、今夜はおいしいごはんを食べて、おいしいお茶を飲みながら、いっぱいしゃべり明かそう!」
お昼ごはんを食べ損ね、窓を見れば日が傾きかけていた。キリーさんがカセさんとアンリちゃんを呼びに行ってくれ、アンナとカセさん、キリーさんみんなでごちそうを振る舞ってくれ、話に花を咲かせた。私もせっかくなので少しずついただいた。カセさんの混ぜご飯も、キリーさんの魚の塩焼きもおいしく、アンナの味噌汁は優しい味で涙がこぼれそうになるのを、キリーさんがいちいち茶々をいれるから涙が出るとごまかした。
カセさんに、このお茶は本当においしいですねと伝えると、カセさんは自室にわざわざ戻り、持って行きなさいとたくさんの大切な商品を袋に詰めて持たせてくれた。私も、カインを含めた四人それぞれに、トランクのなかのお茶を、効能などを説明して贈った。
「みなさん、本当にありがとうございました。ちゃんと日記に書き留めて、これからもみなさんに恩返しをできるよう研究に邁進します。どうか、お元気で」
「はい、書けました。ほら、カインのことは書いていませんよ」
カインに今日の日記を見せる。
「そうだね。それでいいんだ」
まるで自分に言い聞かせるようにカインが言う。カインが望んだことなのに、少し彼の瞳が揺れ、すぐに顔をくしゃっとした。それから、最後の夜を五ヶ瀬荘のみんなで過ごした。アンナがアンリちゃんを側で寝かしつけ、カインが男二人に挟まれて三人で声を抑えて会話を弾ませる間にカインの目を盗み、こっそり書き付けた。
書いたページを袋とじのように糊付けして、トランクにしまって鍵をかけた。私の頭が忘れても、どうか今日の光景がまぶたに焼き付いて体が忘れないでいてほしい。そう思いながら、寝かしつけが終わったアンナも加わった四人の輪に私も入った。
夜が更けた頃、アンナは駄々をこねたが、カセさんが私たちの体力温存を考えてアンナを説得してくれ、アンリちゃんを抱えたアンナと空き部屋に戻った。眠る前にカーテンから覗いた空は、ここに来た日と同じように星々が瞬いており、それはそれは綺麗だった。
サポートしてくださる方、ありがとうございます! いただいたサポートは大切に使わせていただき、私の糧といたします。