朝霧と夕暮れ
霧の朝、私は車を時速20km程で走らせていた。今走っているのは高速道路だ。先ほど、かろうじて速度制限表示が見えた。そこには「50」の文字がぼうっと光っていた。私は怖くて時速20kmがやっとだ。前も後ろも見えないほどの濃霧のなか、私は霧が晴れるのをただ待ちながら、アクセルを浅く踏み続ける。
このあたりで霧が出ること自体は珍しくない。よく左手の山が霧に包まれているのを横目に、この道を走らせたことは数えきれない。しかし、実際に霧に覆われた高速道路を運転するのは今回が初めてだった。前日から小雨が降り続いていたので予測しないではなかったが、まさかここまでとは。追突しても追突されてもおかしくない。霧以外まったく見えないし、音も自分の車のワイパーの音しか聞こえない。
今、この道を走っている車は何台いるのだろう。運送業、運輸業の人たちは、何度こんな道を走ってきたのだろう。恐怖を感じるのだろうか。それでも走り続けられるのだろうか。
止まるわけにはいかない。ここは高速道路だ。早くここから抜け出したい。私はなんで朝も早くからこんな道を走っているのだろう。どこへ向かっているんだっけ。今は日曜日の朝。仕事は休みで、出張の前泊でもない。それなのに高速道路を走る必要があったのか。なせだろう。
だめだ、余計なことを考えてはいけない。ここを抜けるまで、とにかく安全に無事に生きて帰ろう。みんなと生きて帰る。みんな。そう、今ここを走っているみんなと。そうだった。頭にまで霧が侵食してきていたようだ。危ない危ない。運転中にそんな、命に関わる。
私は今日、大事な任務を仰せつかったんだ。恩人から。恩人は今、病床にいる。命に別状はない。任務中に崖から落ち、不幸中の幸いで全治3ヵ月の怪我で済んだ。頭にも脊髄にも異常はない。崖から落ちたと聞かされたときは血の気が引いた。本当に、よくないけどよかった……。病室を訪れると、ミイラのように包帯に覆われ起き上がれないまま、ベッドの上で不格好なピースを送ってきた。眉を下げたその瞳を思いっきりねめつけ、口煩く叱りつけるのを、申し訳なさそうに静かに聞き続けていた。
その恩人から仰せつかった任務遂行のため、私は目的地に向かうべく日曜日の早朝から高速道路を走っているのだ。一刻も早く到着し、任務を果たさなくてはならない。みなの無事のため。
薄ぼんやりと緑色の出口表示が見えた。ここからは下道で行かなくてはならない。出口付近は霧が薄くなっており、そこでやっと前方との車間距離が明らかになった。目の前に現れた車高の高いトラックは、思いの外迫っており、ゆっくりと車を走らせておいて本当によかったと胸を撫で下ろした。紫色のETC専用ゲートを抜け、目的地へと安全に急ぐ。
下道には車は1台も見当たらなかった。ここは山の麓。物を運ぶ家もなければ、人の乗るバス停さえない場所である。目的地は山の中腹あたりにある。いったん薄くなった霧は、標高が高くなるにつれて濃さを増していく。恐怖はまだ拭えないが、幸い対向車もなく道も山にしては整備されているため、安全第一でひた走る。
やがて、目的地付近に到着した。ここは恩人との邂逅を果たした場所でもある。
私は霧の深い山のなかに捨てられた。こんな霧のなか誰も探しに来ないし誰も気づかない。幼い私は歩くこともできないまま朽ち果てるだけ。泣き叫んでも聞く者はない。命の灯が途絶えようとした矢先に、私を拾い上げたのが恩人だった。恩人は任務のために赴いたこの地で、任務を果たして帰宅途中に私を見つけたという。慌てて私を連れて最寄りの病院に駆け込んだときには、私は衰弱し、助かるかどうかは五分五分だったそうだ。生命力が勝り運良く助かった私は、恩人に引き取られて今ここに命がある。恩人のことをまだ父とは呼べないまま、もうすぐ30年になる。
何度か任務のことを聞かされてきて、今回は念入りに作業内容を説明されたが、実際にやるのは初めてだ。私でやりきれるだろうか。いや、やらなくてはならない。恩人がずっと続けてきた大切な任務だ。それは、県内各地で濃霧を晴らすという重要な任務である。ここは山や谷の多い土地のため、霧がしょっちゅう発生し、それによる事故が後を絶たない。長年霧に悩まされてきた県は霧対策本部を立ち上げ、私と出会った頃の恩人は立ち上げメンバーだった。
私も恩人と同じ県職員になった。霧対策本部に入りたいと願い出たが、恩人は頑として首を縦には振らなかった。危険だから私にはさせられないと。そんな危険な任務に行く恩人を見送る身にもなってほしいと思う。自分はいいのだと言う恩人が私は好きではない。私のために帰ってきて。そう言うと、仕方ないなあと頭を掻いて颯爽と現場に発ってしまう。恩人の同僚で1人、命こそ助かったが、右半身不随に陥ってしまった人がいる。その事故が知れると、志望者は減少の一途を辿り、遂に今や本部長の恩人1人になってしまった。霧対策本部は、他の部署に比べて緊急性が低いとのことで志望制。存続が危ぶまれていた。そんななか恩人まで不在となって初めての濃霧警報が出た。恩人は苦渋の決断で私に任務を託し、私は二つ返事で引き受けたのだ。
恩人がいなければ、今私はそもそもこの世界にいない。なかったかもしれない身、恩人のために使えるなら私はかまわない。恩人は私に約束させた。必ず無事で帰ってくるようにと。任務が失敗してもかまわないから、生きて帰ってこいと。だから、任務を遂行し、生きて帰らなければならない。晴れやかな気持ちで帰りたい。
恩人に言われた通りに手順を進めていく。その間にも、霧は深さを増していく。獣の気配すらない、しんとして冷え込む場所。白く薄暗い視界のなかで、軍手をしてもかじかむ手をさすりながら作業を進める。幸い目は良いので、体さえもってくれれば支障はなかった。これを着なさいと預けられた、恩人がいつも着ている断熱、防水加工の施された防寒着が重い。それでもいささか寒いのだから、これを脱ぐわけにはいかない。
霧はあっという間に濃くなる。とにかく急ぐんだ。でも、手順を決して飛ばしてはならない。常に安全を確保するように。恩人の注文は多く、しかし、いつもと違う厳しい視線に私は頷くしかなかった。言いつけ通りに作業を進める。動き回って汗をかいてもすぐに冷気が汗を冷やし、体温をみるみる奪っていく。普段は眺めるだけの美しい山の恐ろしさを垣間見た。
そして、準備が整った。霧対策本部と協力企業によって開発された特殊な機械のスイッチを入れる。環境や人体への無害が保証された優れものだ。それから私はそそくさと車へ向かった。これには時間がかかるから、必ず車で暖を取るようにと言われていた。暖房を入れていなくても車はほの暖かかった。外が寒すぎるのだ。祈るように手を擦り合わせながら、ただ時を待った。
コンコンコン。窓ガラスを叩く音で目が覚めた。どうやら眠ってしまっていたらしい。目を擦りながら車のドアを開ける。窓を叩いていたのは恩人と旧知の仲であり、私の上司の佐久間部長だった。恩人の見舞いに行った際、私がここへ任務に向かったことを知り、心配で見に来てくれたのだと言う。そして、佐久間部長は告げた。おめでとうと。
私は外へ出て、先ほど作業をしていた場所へ駆け足で向かう。息を呑む。眼前には晴れた空と私たちの暮らす町が広がっていた。太陽は真上にあり、もう昼だと気づく。先ほどまで辺り一帯を覆っていた霧は、もうどこにもない。成功、したんだ。私は車に戻ってカメラを取り出し、夢中でシャッターを切った。この様を恩人に見せようと思った。佐久間部長が片づけを手伝ってくれ、帰りは彼の車の後ろを走った。
病室へ向かうと、恩人は目を輝かせて迎えてくれた。ベッドの横へ歩み寄ると、痛いほどに私をぎゅうぎゅうと抱き締めた。そこまでしなくてもいいのにと言おうとして、充血した目と目が合い私は口を噤んだ。代わりに恩人が話しだす。恩人の病室からも霧が晴れていくさまが遠くに見えたと言う。眠っており、その移りゆく様を見逃したと申告すると、恩人は笑って頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。
よくやった。その単純な言葉が、胸にすとんと落ちてきて、じんわりと染み渡った。ずっと後ろめたさを抱えていた胸のなかの靄が晴れていくように思われた。捨てられた私でも、拾われて迷惑ばかりかけた私でも、恩人の、見ず知らずの誰かの役に立てたんだと。えもいわれぬ感情に襲われる。つーっと伝うものを、恩人がそうっと拭った。怖かったかと問われ、正直に頷く。でも、それより達成感に満ちているという本心を打ち明けると、恩人は黙って私を見つめ、口を開いた。
「リン、いつまでもここにいる必要はないんだ。どこにでも行ける。もう立派な大人だ。縛られなくていいんだ」
私は頭を左右に振った。
「居たくてここに居る。私の居場所は私が選ぶよ。私、霧対策本部に入りたい。だめですか、本部長?」
恩人は俯く。
「私、怖かったけど、嬉しかった。初めて、人の役に立てた気がした。生かされたのは、この日のためにあったんじゃないかと、そう思った」
恩人の顔を覗き込んで続ける。
「未熟者だけど、本部長の下で学びたい。やってみたいです」
真っ直ぐ恩人を見つめる。恩人は険しい顔つきで真っ直ぐに私を見つめ返した。
「普段の仕事もこなしながら兼務しなくてはならない有志の仕事だ。それなのに命の危険がある。1度きりの代理とは訳が違う。それでもやりたいのか?」
「やりたいです」
間髪をいれずに答える。恩人は険しい表情を緩め、眉を下げた。
「まずは、あいつに言わないとな。おい、佐久間。聞いてたんだろう」
佐久間部長が病室のドアを静かに開け、肩を竦めながら入ってきた。
「聞いていたよ。というより、後始末をしているときに説得されてね。お前さんがいいなら俺も上に掛け合ってみると言ってあった」
「佐久間」
「リンはもう、立派な大人だ。仕事ぶりも申し分ないし、責任感も危機感もある。お前さんの娘らしい」
「リンは本当の娘じゃ」
「お義父さん」
恩人、改め義父はばっとこちらを振り返った。佐久間部長がにやりとして、私たちをそっと見守る。
「ずっと後ろめたくて呼べなかった。でも、今ならもう言える。私はずっと、お義父さんが本当の父親だったらって思ってた。こう呼んじゃ、だめ? 公私混同はしないから」
義父は顔をくしゃくしゃにして、かまわないと呟いた。私は佐久間部長と笑い合う。
「堂上、週明けに上に掛け合って、また結果を報告するよ。養生しろよ」
そう言って佐久間部長は帰っていった。それから少し話すと、窓から西日が射し込んできた。山の端に夕日が沈むところだった。
「私もそろそろ帰るね」
逆光で義父の顔はよく見えない。ゆっくり休みなさいと声をかける義父に頷いて、病室を後にした。
車の鍵を開ける頃にはもう辺りは薄暗くなっていた。しかし、朝と違って視界は良好。ライトを点け、家に帰るべく車をゆっくりと走らせた。
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小牧さん、今週も素敵なお題をありがとうございました!
小説での参加は3ヵ月近くぶりです。
▼過去の参加作品はこちら
一度、福岡から出張で大分へ向かう途中、由布の辺りで濃霧に見舞われ、本当に怖かったのを今でも忘れられません。
実際に霧が晴れたとき、すぐ前に大型トラックが迫っていたときは冷や汗をかくとともに、追突しなくて、かつ後ろからもされなくて本当によかったと胸を撫で下ろしたものです。もうすっかりペーパードライバーですが、再び運転することがあっても霧のなかだけは御免です。
今週もお読みくださりありがとうございました!
暦の上では冬ですが、紅葉もまだ見られる晩秋を堪能したいですね。