ここではないかんじ
お疲れ様です。学生の人はもうすぐ夏休みで授業も大詰め、テストやレポートに追われているでしょうか?
私は仙台にある大学に通っているのですが、キャンパスを歩いていたり、街中で大学のロゴや旗を見かけるたびに、本当に自分はここにいるのだろうかと感じます。なんとなくふわふわした、言葉ではなんとも言えないような気持ちになります。なぜかと考えてもよくわからないのですが、大学生になるまで馴染みのなかった仙台へのアウェー感、「ここじゃないかんじ」が抜けていないのかもしれません。
自分語りをしたところで、あまり意味はないので、ここからはこういった「ここじゃないかんじ」について考えてみたいと思います。
先ほども述べた通り、はっきりとしないアウェー感が「ここじゃないかんじ」を作り出すと考えてみました。これは私自身に限らず、意外と共感してもらえるのではないでしょうか。特に、新生活が始まって数か月たった人に多いと思いますが、新天地で活動に慣れてくると、地理や雰囲気がわかってくる。そして、少し愛着も出てくる。でも、やはり数か月程度では今までいた土地の歴にはかなわない。つまり、すこし愛着が出たことで、頭ではホームタウンだ、と思っていても、ふいにメタになる瞬間(はっとする瞬間)があると、ふいにアウェー感、「ここじゃないかんじ」を感じるときがある。頭と体のずれではないけれど、頭と頭のずれ、頭の中のずれが顕在化することでこのように感じる。つまり、頭の中では慣れて愛着が出てきたと思っていても、あるときにそれは実はずれていたと気づく瞬間がある。この時に、アウェー感を感じる。
ここまで見てきた、「ここじゃないかんじ」は住む時間が長くなれば解消されると思いますが、その感情は、大人になりきれない、独り立ちできない自分がどこかにいることを示しているかもしれないですね。
ここじゃないとふと感じるときがある、という切り口で、その中には何があるのかを考えてみました。最終的には、時間が解決するだろう、またモラトリアムな自分がいるだろう、ということに至りました。日常で引っかかったことを少しまとめてみました。