初期キリスト教信仰について⑪
アンティオキア教会と初代エルサレム教会との確執
使徒言行録15章は、歴史的にも重要な最初の「教会会議/公会議」がエルサレムで開催されたことを記念するものですが、それは建設的なものであったというよりは、この事によって、いよいよパウロと初代エルサレム教会との信仰的な軋轢があちこちに知られるようになるきっかけになった可能性を示しています。
アンティオキア教会とエルサレム教会とは、地図で言えば以下のような距離関係にありますが、ローマ帝国治世下において、アンティオキアはヘレニズム的な都市であり、その他の地域も、およそ都市か田舎かの違いはあったでしょうが、エルサレムとは異なる文化的な環境であったと思われます。
当然、アンティオキアのようなローマの都市において、離散のユダヤ人たちは基本的には他の人たちと同様に生活しており、エルサレムにおけるようなユダヤの慣習的なものに依存していたことが考えられます。
しかし、先の使徒言行録15章1~2節にある「ある人々がユダヤから下って来て、割礼を受けなければ救われない」ということを教えていた、ということで、この「ある人々」が、エルサレム教会と無関係の人であるかと言えば、それは無いであろう、というところです。
では、この「ある人々」とはいったい誰だろうか、という事になってくるわけですが、恐らくは「初期ユダヤ教」の「教師」か、あるいは「初代エルサレム教会」の「教師」でないか、というところです。
なぜ、そのように言えるのかといえば、まず、「初期ユダヤ教の教師」については、エルサレムにおける初代エルサレム教会は、「初期ユダヤ教」から迫害を受けていました。当然、それは「初代エルサレム教会」の信仰が「初期ユダヤ教」の人たちから「異端視」されたためであり、そうしたエルサレム神殿を中心とする「初期ユダヤ教」の本部が、ローマ帝国治世下における各地の「離散のユダヤ人のコミュニティ」に対して、「信仰上の警告」を送ったであろうことは容易に推測できる、というところです。
ただし、問題はその「ある人々」で示されるのが、「初期ユダヤ教に属する人」なのか、「初代エルサレム教会に属する人」なのか、どちらかの可能性がありハッキリとは言い切れない、というところです。
もともと、「初代エルサレム教会」の使徒ペトロは、海辺の町カイサリアにてローマ帝国の百人隊長であったコルネリウスという「未割礼のギリシャ語を話す異邦人」に対して、「聖霊を受けた」という事実に基づき、「洗礼」を授け、「カイサリアの教会のメンバーとして受け入れた」事実がありました。
当然、この事が「初代エルサレム教会で大問題になった」ということは、過去の記事において書きましたが、使徒言行録では、この「使徒ペトロによる無割礼者への洗礼」は、あくまでも「例外的な処置」ということで、この事を受けてからの、「初代エルサレム教会における綱紀粛正」となったのか不明なことは多々あります。
ただし、アンティオキア教会の人たちが、この出来事に、非常に大きな危機感を抱いたのは確かであり、しかもアンティオキア教会の人たちは「エルサレム教会」に対して(すなわち、初期ユダヤ教の本部でなく)、バルナバとパウロとを送っている事から、「ある人々」は「初期ユダヤ教」というよりも、「初代エルサレム教会から派遣された人々」である可能性が高い、というところです。
このマガジンの中で何度も紹介している「キリスト教信仰の成立」の図で説明をしますと、「初代エルサレム教会」の信仰は、限りなく「初期ユダヤ教」と同じでした。ただ一点「イエスこそメシアである」と信じる点において、もちろん他にも色々と違う点はありますが、基本的には「初期ユダヤ教」と大きく変わるところは無かったと考えられます。
そして、「初代エルサレム教会」の信仰において重要であったのが「使徒の権威」です。その中には、歴史的イエスの兄弟であった「主の兄弟ヤコブ」の名前がパウロの直筆の手紙から知ることができますが、使徒言行録では「単にヤコブ」としか触れられることがないのと、福音書でもほとんど登場することが無いため、「新約聖書」ではあまり重要視されていません。
ただし、パウロの直筆の手紙においては、「ケファ」と「主の兄弟ヤコブ」という二人の人物が、「イエスの実質的後継者」とされていたのではないかと思わせられます。
そうした「初代エルサレム教会」から、「ある人々」が何もなくアンティオキア教会までやって来て教会の人々に教えるとは、ちょっと考えにくく、それゆえに「初代エルサレム教会」の指導者たちが、「アンティオキア教会」において「ギリシャ語を話す異邦人に教会の門戸を開いている」という事に危機を感じたのでないかと思います。
「初代エルサレム教会」の指導者たちからすれば、既にエルサレムにおいて自分たちの信仰が迫害の対象になっていることを考えれば、気持ちとして、「自分たちは異端的な宗教ではなく、初期ユダヤ教と信仰を同じにするものである」ということを、初期ユダヤ教の本部に知らしめる必要があったと思います。
そこで、そうした「意識のある教師たち」が、自主的にアンティオキア教会など、エルサレムから見て遠隔地にある信仰を同じにする共同体に出ていったことは、想像に難くないというところです。
・ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。(使徒言行録15章5~6節)
そういう意味では、初代エルサレム教会では、既に「異邦人にも割礼を受けさせ」て、ユダヤ人になってしまえば、自分たち「初代エルサレム教会」は、初期ユダヤ教の本部に、自分たちがユダヤ教であることを認めさせることができ、必要以上に迫害をされる事も無いと考えたのではないかと思います。
第一回教会会議(何が決まって、何が決まらなかったのか?)
さて、上記の聖書個所で、「初代エルサレム教会」を代表してしゃべっているのは「使徒ペトロ」と「主の兄弟ヤコブ」の二人です。しかも、この教会会議において、最終的に決をまとめたのは「主の兄弟ヤコブ」であって、「使徒ペトロ」ではありません。
すなわち、それだけパウロが生きていた時代において、「主の兄弟ヤコブ」の権威は大きく、「初代エルサレム教会」を代表とする存在でもあった、というところです。
さて、上記の通り、主の兄弟ヤコブによる決の発表によって決議内容を記した手紙をアンティオキア教会のために準備する運びとなります。
ところが、初代エルサレム教会は、パウロとバルナバに手紙を託すのではなく、ユダとシラスという初代エルサレム教会を代表する指導的な立場の人に手紙を持たせ、この二人がアンティオキア教会の人たちに対して、初代エルサレム教会での決定を告げ知らせる、という事になりました。
それを聞いて、アンティオキア教会の人たちは、信者全体が喜んだとありますが、この部分は実に奇異な感じを受けるのです。
まず、そもそも「パウロとバルナバに手紙を託さない」という点で、やはり「初代エルサレム教会の権威」のようなものを感じます。直接「初代エルサレム教会」の人間、すなわち「代弁者・メッセンジャー」としてユダとシラスとの二人を遣わすことが重要であり、「パウロとバルナバに手紙を持たせて派遣する」というわけにはいかないという事です。
そして、このところで一番の問題であり「奇異」に感じるのは、「肝心の異邦人に対する割礼の施術要請」について「何も決まっていない」ということです。もちろん、聖書本文に書かれていないだけで、「異邦人に対する割礼の施術は不要」という暗黙の了解であった、ということなのかそこらへんが判然としません。
しかし、この教会会議がきっかけになって結果的に、その後の、「アンティオキア教会の信仰」と「初代エルサレム教会の信仰」との間に、ある種の価値観の共有が為されたというふうに考えるのが順当でないかというところです。
そして、この「主の兄弟ヤコブ」の採決によって、パウロは、アンティオキア教会が自分にとっての重要な教会であったところが、やはりバルナバはエルサレム教会の手先(バルナバは使徒たちによってアンティオキア教会に派遣された手前がある)でしかなく、パウロにとっては、アンティオキア教会と決別しなければならない、そうした意識を生む出来事になったのでないかと個人的に推測するところです。
そして、この教会会議によって生まれたパウロとバルナバとの確執はこの後、決定的なものになります。
パウロとバルナバとの確執
さて、教会会議の後、ユダとシラスと共に、パウロとバルナバはアンティオキアへと帰ってきますが、その後の展開について、上記のところでパウロとバルナバは激しく衝突するようになります。
使徒言行録の記述ですと、15章1~2節以上に、パウロとバルナバとの間で「何の意見が衝突したか」ということが不明です。
ただし、「マルコと呼ばれるヨハネ」を連れていきたいとバルナバが考えたとは、それは恐らくはバルナバは、マルコ・ヨハネを「パウロの看視者」としてパウロが「勝手なこと」「発言」をしないよう、またあるいはユダとシラスに手渡された手紙と同じ信仰を教会の人々に説明し、異邦人に対する割礼の施術をお願いすることを考えたのでないかと思います。
そして、上記の使徒言行録の記述で①シラスと②シラスとの差異が、これからのパウロの宣教旅行について解釈する上で、大きな違いとなっていきます。
仮に①シラスと②シラスとが別の人間である場合、これは旧来の解釈がまさにそうで、パウロは「弟子のシラスを連れて行った」という話になります。
ところが、①シラスと②シラスが同一人物である場合(後代の写本ではそのような文章が存在する)、「パウロの第2回宣教旅行」と言われるものは、「パウロの」ではなく、むしろ「初代エルサレム教会が派遣したユダとシラスの内のシラスが、アンティオキア以外の教会にも、同様の決定を知らせるために赴いたもの」であって、「パウロは、シラスのメッセンジャーとしての旅行に、同伴した」という解釈が可能であるのです。
その意味で、一般的には「パウロの宣教旅行」とは言われますが、これまでの記述と上記の記述が正しければ、「パウロはバルナバの権威やシラスの権威に便乗する形で、自称使徒として活動した」という事が考えられるというところです。そして、パウロはシラスの目をかいくぐりながら、自分の確信する福音を宣教したのでないか、そうした可能性を感じるのです。
次回、16章から見ていきます。
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