アキラ、プリスキラとの出会い
使徒言行録18章では、パウロがコリントに来た時に、パウロよりも早く、既にローマでキリスト教信仰を伝えていたアキラ、プリスキラ夫妻と、コリントで出会い、意気投合します。
ポントスとはトルコ北東部の黒海に面する地方で、こうした地域の人がローマに仕事で移り住むというような交流が当時すでに存在していたことを示しています。
当然、このアキラとプリスキラは「ギリシャ語を話す離散のユダヤ人」であり、しかもパウロとは別のルートで、既にキリスト教信仰を有していたということから、おそらくはバルナバなどと同様に、使徒たちの次の世代のキリスト者であり、「初代エルサレム教会」の信仰に「準ずる信仰」の人たちであったと考えられます。
さて、「クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令した」(使徒18:2)とありますが、ガイウス・スイトニアス(スエトニウス)の著作に、クラウディウス帝の時代に、そうしたローマからのユダヤ人の追放についての記述があり、およそ紀元52年頃の事として理解されています。
これは「ローマから全ユダヤ人が追放された」という事ではなく、「扇動した主要人物が追放された」ということであり、およそローマを追放された主要人物の二人がアキラとプリスキラであったということです。
そうしたことから、恐らくは「初期ユダヤ教」の信仰と「アキラとプリスキラ」の信仰においては違いがあり、それがローマにある「離散のユダヤ人の会堂」で問題になったことが考えられます。
なお、使徒言行録では「アキラとプリスキラ」としていますが、パウロの手紙では「プリスカとアキラ」(ローマ16:3,〔2テモテ4:19、パウロの直筆でない〕)という風に書かれる場合、「アキラとプリスカ」(1コリント16:19)という表記があり、単純に表記が違うだけのことなのか不明です。
ただ、使徒言行録では「アキラとプリスキラ」と夫が前に出てきますが、パウロの手紙では「プリスカ」が前に書かれることがあり、案外、「プリスカ」が、その首謀者のひとりとして知られていたのかもしれません。
また、『聖書』新共同訳では「テント造り」とありますが、この「テント造り」に相当するギリシャ語の単語は、新約聖書中で、ここにしか登場しない単語のため、実際にこれが何を指すのかは「諸説あり」で決着はついていません。
コリントにおけるパウロの宣教を見ると、パウロはおよそ「離散のユダヤ人の会堂」で説得をしていたとあるように、恐らくはその土地の「ユダヤ人の会堂」において、「イエスがメシアである」ことと同時に、「律法の順守〔特に割礼〕は不要(信仰義認)」ということを語っていたのだと思われます。
また、この出来事が、使徒教令の発布後の出来事であることを考えると、このコリント教会(家の教会)が、アカイア州におけるパウロの信仰を受け入れた教会として、「ティティオ・ユスト」という名前を挙げているのでないかと思います。
ただし、使徒言行録は、パウロとアキラ、プリスキラの関係性については、あまり多くを語っていません。パウロの「ローマの信徒への手紙」では、パウロは「ローマの教会のメンバーとして、アキラ、プリスキラ(プリスカ)」の名前を挙げており、そういう意味では、パウロが「ローマの信徒への手紙」を書く時点では、「アキラとプリスキラ」は「ローマに再び戻っていた」という事が考えられます。
なお、「使徒言行録」18章では、「シラス」と「テモテ」が後からやってきて、パウロの経済的な負担をしたと書かれていますが、先の「初期キリスト教信仰について⑬」で触れたように、「シラス」の名前については、「後付け」のような印象が強いです。
テモテが、パウロの弟子として、極めて重要であったのはパウロの直筆の手紙において、テモテの名前が度々登場することにあるのですが、しかし「シラス」については、パウロは直筆の手紙の中では一言も触れていません。
つまり、「シラス」という「パウロの同行者」は、「使徒言行録」に限定して登場する人物であって、パウロは「シラス」については、何も書いていないのです。
以下、参考までに、ゲルト・タイセンが『イエスとパウロ』という著書において、アキラとプリスキラについて、以下のように記述しています。
これまでの記述を整理すと、パウロはバルナバとともに、第一回目の宣教旅行に赴き、そこでエルサレムに住む兄弟たちのために献金を募っていた。
それと前後して、アンティオキア教会において、異邦人に対する「割礼の奨励」がエルサレムからの使者によって伝えられ、その事を初代エルサレム教会の使徒たちと協議するために、パウロとバルナバは、献金を持ってエルサレムに上り、そこで献金を手渡すと共に、異邦人教会の割礼は不要であることの合意を取り付けた。
このことをきっかけにして、ローマの離散のユダヤ人の会堂にまで、そうした「異邦人に割礼は不要」であるということが伝わり、そのことにアキラとプリスキラが関係していた。
その後、ローマを追放されたアキラとプリスキラは、コリントでパウロと一緒になり、アキラとプリスキラはパウロを支える働きをした、というところです。
問題宣教者アポロ登場
パウロの第2回目の宣教旅行と、時を同じくして、アレクサンドリア生まれの雄弁家アポロが、エフェソへとやってきます。この時点で、パウロはアンティオキア教会に戻っており、パウロとアポロとはエフェソでは会うことは無かったのですが、パウロの後、アキラとプリスキラは、このアポロを指導して、アポロの希望通り、アカイア州(コリント)に渡ることを希望していたので、エフェソの教会の人たちはアポロに「推薦状」を持たせて送り出すのでした。
そして、アポロがコリントの教会で、色々と問題を起こすことになります。アポロの問題については、コリントの信徒への手紙1で記されていますが、およそコリントの教会が分裂する直前までに至ったようで、そうした知らせを受けたパウロがコリントの教会の人たちに対して書き送ったのが、「コリントの信徒への手紙1」になります。
なお、「使徒言行録」は、アポロについて、パウロの「コリントの信徒への手紙」にあるような問題については、触れておらず、ただコリントの教会の人たちを「大いに助けた」と高く評価していると共に、信仰的にパウロと衝突したということについては、「使徒言行録」は一切触れていません。こうした「初期のキリスト教会における問題」を、使徒言行録は「神の救済計画の中で、予定調和のように丸く収まった」とする傾向が見て取れます。
次回は、19章をみていきます。