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初期キリスト教信仰について④

 先に見た、パウロの年表と新約文書との時間関係を以下の図のように示しました。

パウロと新約文書の関係

 研究者によれば、イエスの誕生はおよそ紀元前4世紀ごろだと言われ、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、その後、神の国運動を展開し、およそ紀元30年ごろにローマ帝国の処刑法(十字架刑/国家反逆罪等)によってエルサレムの郊外で処刑されたという話になっています。

 福音書の記述によれば、イエスは十字架での死後3日目に復活し、復活のイエスは使徒たちを励まし、復活から40日目に天に昇られ、その10日後の50日目(五旬祭の日)に、使徒たちの上に聖霊が降り、その聖霊降臨の日をもってキリスト教会の始まりとして理解します。

 新約聖書の4つの福音書は、細かい部分において異なることはあっても、およそ上記のような流れで物語を綴っており、イエスによる奇跡や教えといった内容を別にして、「大枠では同じ」というふうに考えることができます。

 しかし、4つ福音書と使徒言行録(ルカによる福音書の続編)を通して見た時に、「大枠では同じ」であり、「使徒言行録」は「(厳密にはルカ)福音書の続編」であることから、「キリスト教の初期の歴史」とは、およそ「4つの福音書~使徒言行録」の記述において記されていることが分かるのです。

 特に使徒言行録は、前半部分はそうした十二使徒たちの物語から始まって、途中、サウロ(パウロ)が登場し、回心体験を経て、キリスト者となり、使徒言行録の後半部分の記述は、おもにパウロに焦点があてられています。そのことからすれば、「使徒言行録」は全体として、キリスト教の「信仰のバトン」が「十二使徒たちからパウロの手に渡されていった」という、あたかもそれが「神による救済史の一部」のように、何事も無く物語られていくのを見て、およそわたしたちは「キリスト教の歴史は十二使徒に始まってパウロへと伝えられたのだなあ」と納得してしまうのです。

 ところが先に見た「ガラテヤの信徒への手紙」において、「使徒言行録」では一切語られる事の無かった「パウロとケファ」との信仰的な衝突の出来事(ガラテヤの信徒への手紙2:11~14)を見る時に、「使徒言行録」では仲の良かった(本当は分からない)パウロとケファが、なぜ「ガラテヤの信徒への手紙」では衝突をするところまでなったのか、「まあ、人間、仲が良くても時にはケンカもするだろう」と、この矛盾点について、「(使徒言行録が書き記さない)小さな出来事/取るに足らない出来事」というふうに自分を納得させている自分に気が付いたのです。

 「使徒言行録」にみる、ある種の「予定調和」が、パウロの直筆による手紙においては希薄であり、先の「年表を見ながら考える」時に、たとえば「使徒言行録」には「パウロ(回心時はサウロ)の回心体験」を記述していますが、同様の内容は「ガラテヤの信徒への手紙」にしか出てこず、他の新約文書には記述されていません。また「使徒言行録」の成立よりも、「ガラテヤの信徒への手紙」の手紙の成立の方が20年以上も早く、およそ「使徒言行録」を編集した人は、「パウロの回心体験」について、恐らくは「ガラテヤの信徒への手紙」の内容を知っていた事が考えられるのでは、と思ったのです。

 わたしの疑問は「なぜ、使徒言行録はパウロの回心体験を記述したのか?」というものでした。順当な考え方としては「記述すべき根拠が存在したからこそ、パウロの回心体験を記述した」ということであって、その理由は一体何か、ということがしばらくわたしの頭にありました。

 では、そもそもなぜ、パウロは自分の回心体験をガラテヤの信徒への手紙において記述する必要があったのか? その事を考えた時に、「使徒言行録」を編纂した、当時の初期キリスト教会のおかれた現状が姿をあらわしてきたように思ったのです。

 それは「パウロの使徒性(パウロは自称使徒であった)」の問題であり、パウロは福音宣教等において、各地の教会において、パウロの宣教に反対する人々の働きによって、「パウロは使徒ではない」という事が問題になっていた、という事です。

 パウロはその働きにおいて、「信仰義認」を強く訴え、同時に、慣習的な「割礼」について、「信仰に割礼は無用のものであり、むしろ害悪である」と理解し、その事を様々なところで語りました。

 パウロの「割礼は不要」という教えは、当時のエルサレム教会の人たちからすれば、極めて危険な思想であり、エルサレムにおけるエルサレム教会の人たちの立ち位置を破壊するようなものであったのです。

 そのため、エルサレム教会の人たちは、各地の教会の人たちに対して使者を遣わし、パウロの教えを受け入れないようにと勧めたことが伺えるのです。それは、ガラテヤの信徒への手紙にあるケファたちの取った「態度」パウロの信仰とエルサレム教会の人たちの「信仰との違い」を示しています。

 そして、同時に、パウロはそうした、エルサレム教会からの使者たちによる「パウロ批判」に対して、各地の教会の人たちに「自己弁護」をする必要に迫られたのです。その時に、そうした使者たちによって、パウロについての様々な悪口が語られたのです。

 さて、あなたがたの間面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。(コリントの信徒への手紙2 10:1)
わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。(コリントの信徒への手紙2 10:10)

 こうした教会の人たちによるパウロへの「悪口」は、最終的には「パウロの使徒性」(人々は、パウロは自称使徒であり、本当は使徒ではない)という理解に至ります。

 そのため、パウロは既に自分が一度訪れ、指導した教会の人たちのところに、再度、出向いて、今一度、自分自身が「エルサレムの使徒たちによる公認の使徒である」という、ことを主張する必要に迫られていたのです。

 自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。(コリントの信徒への手紙2 10:18)
 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。(ガラテヤの信徒への手紙2:7~9)

 そうしたことを考える時に、わたしたちがいわゆる「パウロの宣教旅行」と理解する出来事も、場合によっては、「パウロはただ他人の権威について廻り、そこで自称使徒として福音を語った」というような可能性が見えてくるのです。今日的に、パウロが宣教者・使徒として「バルナバやシラスといった弟子を連れて宣教旅行をした」という理解が絶対的ですが、使徒言行録では、いかにも「パウロが宣教旅行を行った」と記されているので、わたしたちは、その事に思考を停止しているのかもしれないのです。

 「使徒言行録」における、そうした「不可思議な点」は次のところです。

32)ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、
33)しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。†
[34)しかし、シラスはそこにとどまることにした。]
35)しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。
……(中略)……
40)一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。
41)そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。

 上記の聖書個所において、「シラス」はエルサレム教会の指導的立場にある人物であり、[]で括った範囲は、「後代の加筆」であるため、『聖書 新共同訳』では本文から外されているものを、わたしが注記したものです。

 ここにおける問題はこの「シラス」という人物が、32節と40節に出てくるのですが、写本によってこの「シラス」は①別人の弟子、②同一人物という「二つの可能性」があるのです。

 『聖書 新共同訳』では、パウロの第2回宣教旅行に随伴したシラスは、「パウロの弟子」ですが、仮に「後代の写本」の場合でいけば、「パウロはエルサレム教会で指導的な立場にあったシラスの付き人として、第2回目の宣教旅行を行った」という事になるのです。当然、この場合の「主役」は、パウロではなく、エルサレム教会が使者として派遣したシラスが、各地の教会に使徒教令を伝えるための旅行に、パウロが随伴したのだ、という事になるのです。そして、随伴者であるはずのパウロが、シラスの見ていないところで「割礼は無意味だ」ということを教えた。そうであれば、これが問題にならないはずはなく、パウロは、当時としてかなり危険な事をやっていた事が伺えるのです。

 もちろん、これはわたしが勝手にそう思っているだけであって、これが正しいかは分かりません。ただ、そうした歯車が嚙み合わない事がところどころにあり、それは、ひょっとすると当時の使徒言行録の編集者たちによる、「真実を読み解くためのヒント」である可能性がある、というところです。

 次回は、そうしたパウロとエルサレム教会との関係についてみていきます。 

 



 



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