初期キリスト教信仰について⑮
問題宣教者アポロ2
使徒言行録18章24節から、「アポロ」という人物が登場します。このアポロについては、使徒言行録とパウロの直筆の手紙である「コリントの信徒への手紙1」にその名前が登場する人物として知られています。以下、アポロについてわたしのブログでも紹介していますので、そちらもご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/yokoya2000/archives/7982998.html
この「アポロ」について、使徒言行録は否定的なことは書いていませんが、しかし、パウロの「コリントの信徒への手紙1」に登場する人物で、このアポロのこともあって、アポロが原因のすべてではありませんが、パウロを悩ませた人物であることは、コリントの信徒への手紙1の本文からも読み取れます。
これはどちらかと言えば「コリントの信徒への手紙1」の内容にかかわってきますが、およそ以下の記述によれば、アポロは、プリスキラとアキラによって、キリスト教信仰の手ほどきを受け、キリスト教の宣教者として、エフェソ教会の人たちから「推薦状」を携えて、「かの地」(明言されていないが、アカイア州・コリントであろう)へと送り出されたとしています。
そして、このアポロがコリントの教会に行って宣教するのですが、結果的に、パウロが自身の「使徒性」のゆえに被害を被ることになるのです。それは、上記の「推薦状」であって、当時の人たちからすれば、パウロはプリスキラ(パウロはプリスカと表記)とアキラと一緒にコリントの会堂等で教えたため、コリントの人たちからみれば「旧知の関係」であると考えたのでないかと思います。
そのため、プリスキラとアキラの「肩書のようなもの」の庇護を受けるかたちで「パウロ」は、同様に「自分も使徒である(ただし自称)」とコリントの教会の人たちに語ったのでないかというところです。
そして、その後、三人はコリントを離れて、アジア州のエフェソに移り、そこで、パウロはプリスキラとアキラたちと別行動になるわけです。
そして、そうこうする内に、アレキサンドリア出身の「雄弁家アポロ」がエフェソにやってきて、アポロを見出し「キリスト教の教育」をアポロに施すのです。
使徒言行録の記述からすれば、アポロは「旧約聖書に精通しており(おそらくはギリシャ語で書かれた70人訳聖書)」「イエスについて知っている」けれども、「ヨハネの洗礼しか知らなかった」(使徒18:25)と記述されています。
つまり、この表現からすれば、プリスキラとアキラがアポロに教えたのは「(イエスの)聖霊による洗礼」(生前のイエスに遡らない、復活後の教え)であり、この点においてのみ、アポロは不完全であったという事になります。
という事は、この段階で、アポロは、プリスキラとアキラとを通じて、パウロとも同じ信仰を持っていたことになります。
そして、二人による教育を終えたアポロは、アカイア州・コリントにやってきて、コリントの教会の人たちを指導するようになります。ここで重要なのは「アポロはエフェソ教会の推薦状を持っていた」という事実です。
そして、アポロの信仰、またプリスキラとアキラたちの信仰を考える時に、上記に示すように、アポロやプリスキラやアキラは、基本的に「同じ信仰」であり、パウロとの違いを考える時に、およそプリスキラとアキラは、ギリシャ語圏を中心に活動する人物であり、それゆえに「離散のユダヤ人」であると同時に、信仰的には「初期の使徒」ではなく、ギリシャ語を主体とするバルナバ、ヨハネ・マルコといった「使徒によって弟子とされた人たち」に位置付けられると考えられます。
そして、アポロも、およそプリスキラとアキラと同じような立場であることが考えられますが、それは一体に何によってかと言えば、「使徒的継承」による、というところでないかと思います。
「使徒的継承」とは、「個人ではなく、複数の使徒たちがその人を任命し派遣する」という形式であって「使徒たちによる祈りと按手」によって行われます。アポロは直接的には使徒たちからの按手は受けていませんが、およそ「エフェソ教会の推薦状」はそうしたものと同様のものと理解できます。パウロはローマの信徒への手紙において「プリスカ(パウロはこう書く)とアキラ」について、「協力者」というふうに説明しています。
つまり、プリスキラとアキラは、共にパウロと信仰を同じにする「キリストの弟子」であり、パウロとこの二人が何が違うのかと言えば、そうした「公認された」という一点にあります。
そして、アポロはエフェソ教会の推薦状を持っていることから、「エフェソ教会公認の宣教者」という肩書をもってコリントの教会へ行ったのです。
しかし、パウロの異邦人宣教によって、各地でパウロの事が知られるようになったのと併せて、そうしたパウロのことを良く思わない人たちによって、「パウロの信仰的な弱点」が、あちこちの教会で広く知られるようになったのです。
それは、「パウロの使徒性の問題」です。およそパウロの直筆の手紙を見ると分かりますが、その中では必ず、パウロがどのようにして信仰を持つに至ったのか、どのように「使徒とされたのか」についての弁明を見ることができます。
つまり、パウロは「必要に迫られて」これらの手紙を書いたのであり、その「必要」とは何かと言えば、「パウロは使徒ではない」(どこからの教会の公認も受けていないし、使徒たちからの公認も受けていない)ということです。
エフェソでの出来事 ~聖霊の信仰のはじまりとは?~
使徒言行録では「聖霊が教会の基礎となった」という理解があるため、わたしたちは「聖霊」についての信仰が、イエスの生きていた時代からずっと信じられてきたかのように理解しますが、実のところ、そこまで自明ではありません。
上記の新約聖書に含まれる文書で、歴史的に最初に「聖霊」が登場するのは、まさに「パウロの直筆の手紙」が最初で、「福音書」や「使徒言行録」は、その後であるということが分かります。
使徒言行録は、およそルカによる福音書と同様の時代に成立したと考えられており、それは年表で言えば2世紀が近い紀元90年代とされています。
つまり、パウロが手紙で「聖霊」を記したのが紀元50年代であり、もっとも早くに成立した「マルコによる福音書(聖霊は4回使用)」が紀元60年代であり、その後、「マタイによる福音書(5回使用)」が紀元80年代、「ルカによる福音書(13回)」および「使徒言行録(42回)」が90年代、「ヨハネによる福音書(3回)」が紀元100年~150年と言われています。
また、イエスは、旧約聖書における「霊」の理解に立っており、イエスの発言に「聖霊」を見ることもありますが、「霊」など、旧約聖書における用例に従うケースがほとんどで、「聖霊」という「固定化されたことば」としては使っていません。(そもそも、聖霊が降るのはイエスの昇天後に実現する)
ところが、パウロの直筆の手紙においては、極めてこの「聖霊」というものが強調されており、いわゆる旧約聖書における「霊」の用法と異なるかたちでパウロは記しているのです。
しかし、わたしたちは、新約聖書の順番で、まず福音書でイエスが聖霊について発言するのを見て、また使徒言行録において、使徒たちの上に聖霊が下ったことによって教会が始まったことを覚える時に、「聖霊」という信仰は「イエスの生きていた時代から、信じられていた」というように理解し、そのようなものとして納得するのです。
その意味で、福音書に登場する、「イエスの聖霊についての教え(聖霊を冒涜する者はゆるされない)」は、「イエスの信仰」というよりも、パウロの信仰的な理解に則った「後の教会の信仰」を、福音書を記した人物が「イエスのことば」にしている、という可能性があるのです。
そのため、パウロがプリスキラとアキラたちと信仰が同じであれば、当然、アポロ自身の信仰とも同じであるはずなのに、使徒言行録の本文では、パウロとアポロとの信仰の違いがあるかのように書かれており、たとえばパウロのエフェソでの以下の記述については、違和感を感じ得ない、というところです。
パウロによる「聖霊信仰」の宣教
さて、使徒言行録19章では、既にアキラとプリスキラはアポロをアカイア州コリントへと送り出し、パウロはアポロと顔を合わせることなく、エフェソへとやってきたという事になっています。
パウロは、エフェソで何人かの弟子たちに出会い、実に奇妙な話ですが「信仰に入ったとき、聖霊を受けたか」と問いただします。
ここで「弟子たち」が何者であるか明示されていないため分かりにくいですが、「信仰に入った」という事があることから、彼らは「離散のユダヤ人」ではなく、おそらく「ギリシャ語を話す異邦人」であると考えられます。そして、面白い事に、彼らは「聖霊を聞いたこともなければ、知らない」と発言しています。
つまり、使徒言行録の記述で言えば、パウロは、プリスキラとアキラと共に使徒言行録18章で、既にエフェソに来ており、その意味では、既にエフェソの教会の人たちも、もうひとつ言えば「アポロ」も「聖霊」について知っているはずであるのです。
しかも、彼らは、パウロの質問に対して「洗礼者ヨハネの洗礼を受けた」と言ったとされています。
この「悔い改めの洗礼」という言い方は、新約聖書では「マルコによる福音書(1:4)」、「ルカによる福音書(3:3)」、「使徒言行録(13:24,19:4)」と、全部で4回出てきます。
となると、プリスキラとアキラとは「洗礼者ヨハネの洗礼」しか知っておらず、そのため、アポロも「洗礼者ヨハネの洗礼」しか知らない、というような話にもなってくるため、話が矛盾します。
ただ、ここではその事はあまり追求せず、ただパウロがエフェソにおいて、「悔い改めの洗礼」「主イエスの名による洗礼」ということ、そして、洗礼を受けた後に、パウロが彼らの上に手を置くと聖霊が下ったという、ことだけを踏まえておきます。
そして、使徒言行録19章21節以下では、エフェソの町において、「この道」(キリスト教のこと。23節)のことで大きな騒ぎが起こり、ケガ人が出るほどであったということです。
使徒言行録は、そうした「キリスト教」がローマの都市であったエフェソにおいて騒動の原因となることがあったことを示しているひとつの例になります。
次回、使徒言行録20章を見ます。
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