初期キリスト教信仰について⑥
福音書に見る信仰のかたち
既に、見てきたように、新約聖書にふくまれる4つの福音書から、その特徴的な人物を挙げると「洗礼者ヨハネ」と「歴史的イエス」とが主なもので、歴史的イエスの十字架の死後、復活の第一証人として「マグダラのマリア」がいます。また、福音書ではほとんど見向き去れませんが「主の兄弟ヤコブ」という、「ガラテヤの信徒への手紙」に登場する「歴史的イエスの兄弟」にして、初代エルサレム教会の重要人物がいます。
「洗礼者ヨハネ」も「歴史的イエス」も、共に使徒たちによる福音宣教からすれば、既に存在しないので、この二人はどちらかと言えば「歴史的起点」として、「キリスト教信仰」を語る上での「はじまり」と言えるでしょう。そして、「洗礼者ヨハネ」も「歴史的イエス」も、共に信仰的には「キリスト教(この時代、まだキリスト教は定義されていなかった)」ではなく、限りなく「初期ユダヤ教」における「信仰復興運動」として理解されるのです。
4つの福音書に登場する「使徒たち(12人)」は、イエスによって弟子とされた人物であり、およそ「イスラエル12部族」にあやかってか、「12人」の、おもにガリラヤ地域の出身者でありました。ところが、使徒言行録では、これらの使徒たちは「ガリラヤ」(福音書では、使徒たちが復活のイエスに出会うのはガリラヤ)ではなく、「エルサレム」であるという話になっています(「使徒言行録」の第一巻に相当する「ルカによる福音書」では、使徒たちはエルサレムに留まり続けるという設定)。
・それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(マタイによる福音書28:7)
・さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコによる福音書16:7)
・その後、イエスはティベリアス湖畔〔ガリラヤ湖の別名〕で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。(ヨハネによる福音書21:1、なお、同20章では、使徒たちはエルサレムに存在している話になっており、2つの説が共存するするかたちになっている)
~~~ルカによる福音書だけは、使徒たちはエルサレムに居る~~~
・彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(ルカによる福音書24:52~53)
使徒たちは、いったいどこで復活のイエスに再会したのか、マタイ・マルコでは「ガリラヤ」とし、ルカは「エルサレム」とし、ヨハネでは「ガリラヤ」と「エルサレム」の両方を併記するかたちになっているのです。こうした違いも実に興味深いところですが、本論とは異なるのでこれくらいにしておきます。
イエスは何語を話したのか?
イエスの話した言語は「アラム語」だというような説があります。それは、福音書に記された「イエスによる言葉」の幾つかに「アラム語の単語が用いられている」という事に由来するものです。
ただし、最近ではおよそ紀元1世紀前後におけるパレスチナ地域の言語状況というのは、「ユダヤ人=ヘブライ語、異邦人・ローマ人=ギリシャ語」というようなステレオタイプ的では無く、エルサレムであろうがガリラヤ地域であろうが、ギリシャ語もアラム語もヘブライ語も話されていたであろう、ということろが今日的に分かってきていることです。なお、この点についての参考文献を以下に記しておきます。
『イエスは何語を話したか? 新約時代の言語状況と聖書翻訳についての考察』土岐健治・村岡崇光著、教文館
『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』S・サフライ著、カトリック聖書委員会監修、サンパウロ
そうしたことを踏まえ、冒頭に紹介しているわたしの資料では「使徒言行録」における「ヘブライ語を話すユダヤ人」「ギリシャ語を話すユダヤ人」(「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」使徒言行録6:1より)と「ギリシャ語を話す異邦人」という3区分において表現します。そして、この区分に従って考える時、洗礼者ヨハネもイエスも「ヘブライ語を話すユダヤ人」のグループ(初期ユダヤ教)に属していたであろうと考えることができます。
初代エルサレム教会とエルサレムの滅亡
福音書には登場しない、イエスの弟子たちによる「最初の教会」が、キリスト教において「初代エルサレム教会」と呼ばれる集団です。この「初代エルサレム教会」については、「使徒言行録」と、若干パウロの手紙に断片的な情報があるだけで、厳密なことについては分かっていません。なぜ、「初代エルサレム教会」についての情報が無いのかと言えば、そのことの大きなひとつの理由に、紀元70年に起こったローマ帝国とユダヤ州とが対立した「ユダヤ戦争(紀元66~70年)」における「エルサレムの陥落」でした。この戦争によって、エルサレム神殿は破壊され、エルサレムの住民の多くが戦争に巻き込まれて命を落としたのでした。つまり、「初代エルサレム教会」は、エルサレム神殿と共に紀元70年に終わりを迎えたことが考えられるのです。
そして、新約聖書に含まれている4つの福音書の中で、最も早い時期に成立した「マルコによる福音書」は、まさにこの「エルサレム神殿の崩壊」と時を同じにするようなかたちで成立し、これ以後、「マタイによる福音書(およそ紀元80年代)」「ルカによる福音書+使徒言行録(およそ紀元90年代)」「ヨハネによる福音書(およそ紀元100~150年代)」という具合に、あたかも「エルサレム神殿(およびエルサレム)」の崩壊・滅亡と共に、様々なキリスト教文書が成立していったのです。
~~~参考~~~
http://www.earlychristianwritings.com/
つまり、この「紀元70年(エルサレム神殿の崩壊)」の出来事が、キリスト教発展における転換点として、大きな意味をもっていたのです。
以下の資料は紀元1世紀におけるローマ帝国治世下におけるユダヤ人の共同体の存在が確認されている場所をプロットした地図です。
すなわち、バビロン捕囚以後~1世紀の間に、「ユダヤ人のコミュニティ」は、東はパルティア王国やメソポタミア地方からシリア、パレスチナ、エジプト、小アジア、ギリシャ、イタリアといった多くの土地にひろがっていました。
なお、「使徒言行録」2章9~11節に登場する地名について地図上に示すと以下のようになります。(地図中のパルティア、メディアについては入りきらなかったので位置が正しくない)
およそ歴史的に知られている1世紀における「司教座」が存在した都市が、「エルサレム」「アンティオキア」「ローマ」「アレキサンドリア」「コンスタンティノポリス/イスタンブール(時代によって名前が変わる)」の5つであり、当然のことながらこの中で「エルサレム」はイエスの十字架と復活の地であると同時に、他の司教座に勝る「信仰の中心地」であったのです。
ところが紀元70年に起こった「エルサレム神殿の崩壊」は、ただエルサレムだけの問題ではなく、「初代エルサレム教会の滅亡」によって「権威・権力の空白」が発生し、「キリスト教の中心地(権威・権力の中枢)は、次にどこが担うのか?」が、恐らくそうした時代において「発展途上のキリスト教会における大問題」になったであろうと考えられるのです。
当然、ローマ帝国治世下において、「キリスト教の中心地をどこの司教座が担うのか?」、それはおのずと「ローマ」へと集約するかたちで、「ローマ教会こそが、新しい時代のキリスト教会の中心」となるべく、「ペトロ行伝」が2世紀ごろに編纂されるのです。
「ペトロ行伝」は、最終的にはキリスト教の「正典」には採用されませんでしたが、しかし、「パウロとペトロがローマで殉教」したことを伝える聖伝であり、それゆえに「初代教皇がペトロである」ということの根拠になる文書です。また、詳しいことは別に記述するとして、「紀元70年におけるエルサレム神殿の崩壊」が、キリスト教の宣教における転換点であったことを覚えておきましょう。
なお、「紀元70年におけるエルサレム神殿の崩壊」については、福音書にその関連情報を見ることができます。つまり、イエスは生前、「エルサレム神殿の崩壊」を預言しており、まさに紀元70年におけるエルサレム神殿の崩壊こそが「イエスの預言の成就と見た」のです。
『イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」』(マタイによる福音書24:1~2)
「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、(マタイによる福音書24:15)
次回は、使徒言行録を中心に初代エルサレム教会からアンティオキア教会において、はじめて「キリスト者」と呼ばれるようになるまでを見ていきます。
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