初期キリスト教信仰について⑨
「ヘブライ語を話すユダヤ人」の教会と「ギリシャ語を話すユダヤ人」の教会
使徒言行録6章から8章にかけての復習ですが、「初代エルサレム教会」がエルサレムにおいて「初期ユダヤ教」の人たちから迫害を受けるようになりました。そして、「ギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニストと言う)」は、エルサレム以外の町に存在したユダヤ人による会堂へと、自分たちの信仰生活を維持するために広がっていきます。その意味では、これは「キリスト教の布教活動」のように説明されることが多いと思いますが、厳密には「初期ユダヤ教における信仰復興運動の広がり」と言った方が現実に近いと個人的には考えます。この時点で「初代エルサレム教会」は「ヘブライ語を話すユダヤ人」が主体となる集団であり、「エルサレム以外の場所」にあるのは、おもに「ギリシャ語を話すユダヤ人」による集団であることになります。つまり「使徒言行録」が1章から7章くらいにかけて説明するのは、「初代エルサレム教会」に、「ギリシャ語を話すユダヤ人」が加わり、その後、他の地域に「ギリシャ語を話すユダヤ人が主体となるユダヤ人の集団が起こった」(もちろんイエスをメシアと信じる信仰を持つ)という事なのです。
異邦人の上に聖霊がくだる
そして、9章32節~10章39節にかけて、使徒ペトロが、カイサリアにおいて、宣教を行うのですが、ここで「使徒言行録」は「前代未聞の出来事が起こった」ことを伝えます。
・すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」(使徒言行録10:22)
・ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。(使徒言行録10:44~48)
使徒言行録10章では、カイサリアにある「ギリシャ語を話すユダヤ人」の会堂にローマ帝国の百人隊長でユダヤ人ではないコルネリウスという人物が登場します。
このコルネリウスは信仰的にも行いにおいても、カイサリアのユダヤ人の会堂に尽くしてくれていた人物であり、カイサリアのユダヤ人たちによっても良く知られていた人物でした。しかし、コルネリウスは「割礼を受けていない」という一点において、この会堂の「メンバー」には受け入れられなかったのです。
ところが、使徒ペトロによる教えを受けている最中に、このコルネリウスと家族の上に「聖霊が降る(すなわち、神の業)」という出来事が発生し、そこに居合わせた「ギリシャ語を話すユダヤ人」たちは大いに驚いたのです。なぜなら、「聖霊」が「ユダヤ人の上に降る」というのであれば、律法との関わり、言い換えれば「神の契約」に基づく、自由な、神による霊の注ぎということで、対象が「ユダヤ人」なら、過去にも類例のある事として納得できるものでした。
ところが「百人隊長のコルネリウス」は「ユダヤ人ではなく(無割礼)」、「ギリシャ語を話すユダヤ人」でも「ヘブライ語を話すユダヤ人」でもない、つまり「律法(の遵守)」とも関係の無い、それまでおよそ「信仰」と考えられるいかなる接点をも持たない人物であったのです。つまり、「無割礼/割礼と関係なく」「律法の遵守とも関係なく」「ユダヤ人でもない」という、およそ信仰と無関係の人物の上に「聖霊が降った」というわけです。
おそらく、ここでコルネリウスと家族のことについて誰も何も言わず、無視していたら、この出来事は大きな問題にはならなかったでしょう。
しかし、使徒ペトロはここで、そこに居合わせた「ギリシャ語を話すユダヤ人」、あるいは「ヘブライ語を話すユダヤ人」の人たちを前にして、コルネリウスとその家族(当然、全員がユダヤ人でない)に洗礼を授けるという失態(永野による評価)を犯してしまうのです。
使徒ペトロによるコルネリウスたちに対する対処の失敗
なぜ、この時、使徒ペトロはコルネリウスたちの上に聖霊が降ったという出来事に直面して、うかつにも洗礼を授けてしまったのか? もちろん、キリスト教の立場から言えば、これは極めて歓迎する出来事であるのですが、ペトロが冷静であれば、①コルネリウスを始めとして、男性家族に割礼を施す。②コルネリウスと家族をユダヤ人として会堂に迎え入れ、③その後に、コルネリウスと家族に洗礼を授けるべきでした。
これによって「カイサリアの会堂」は、「無割礼」という理由によって、会堂に迎え入れることのできなかったコルネリウスと家族とを、「無割礼であるにも関わらず、洗礼を受けた事実」によって、それまでギリシャ語を話す「ユダヤ人による会堂」というシステムが綻び、「カイサリアの会堂」はこうしたエルサレム以外の地域で最初に「ユダヤ人以外の異邦人が会堂に所属する例」になったのでした。
・さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。(使徒言行録11:1~4)
使徒ペトロが、カイサリアの会堂において、無割礼の人間に洗礼を授けたといううわさは、たちどころにしてユダヤ州や「初代エルサレム教会」の使徒たちの耳に入りました。上記の使徒言行録11:1~4では、ペトロがエルサレムに帰って来たときに、それが大きな問題となり、使徒ペトロは他の使徒たちに弁明することになったのでした。
ただし、これはキリスト教の観点から言えば実に当たり前のことであって、何の驚きもない事かもしれませんが、この時代における「初代エルサレム教会」や「初期ユダヤ教」の人々にとっては、極めて重大な問題であったということです。
・こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。(使徒言行録11:17~18)
使徒言行録の記述によれば、結局、パウロは「神が聖霊を注ぐことを、どうして自分が妨げることができただろうか」と、少し論点をずらすかたちで人々を説得し、また、それを聞いた人たちも「異邦人が神に悔い改めた(コルネリウスは本当に悔い改めたのか?)」と、何となくこの出来事を丸くおさめるしかなかったような印象を受けます。
アンティオキア教会の躍進
使徒言行録11章19節以下には、使徒フィリポや使徒ペトロによる宣教とは異なるかたちで、「ステファノの事件」を機に、エルサレムから遠くに逃れてきた人たちによって、「アンティオキアの会堂」に福音が伝えられるようになりました。ただし、先の「カイサリアの会堂」と同様に、基本的には「ギリシャ語を話すユダヤ人」に限定されていたため、これらの「初代エルサレム教会」から逃亡してきた人たちは、あくまでも「ユダヤ人限定」のものとされていたのです。
ところが、キプロス島やキレネからやってきた人たちがいて、これらの人たちが、「ギリシャ語を話す異邦人」に対して福音を語るという出来事が起こり、このアンティオキアにおいて、それ以前には無かった新しい「教会のかたち」が生まれたのでした。
すなわち、「初代エルサレム教会」も「カイサリアの会堂」も基本的には、「ユダヤ人中心の会堂/どちらかと言えば限りなくユダヤ教」であったのに対して、そうした「ユダヤ人/律法/割礼」といった要素とは無関係のかたちで「アンティオキア教会」が成立したのでした。
そして、そのうわさを耳にした「初代エルサレム教会」の使徒たちは、同じキプロス島出身のバルナバをアンティオキア教会へ派遣し、アンティオキア教会を指導するようになったのでした。
・ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。(使徒言行録11:19~24)
パウロ登場
使徒言行録の記述では、既に9章のところでパウロが回心し、その後、エルサレムに上って使徒たちと面会を果たし、その後、「カイサリアを通じてタルソスへ出発させた」ということで話は終わっています。
使徒言行録11章では、その続きになり、アンティオキア教会の指導者となったバルナバは、次にサウロを捜しにタルソスへ行き、アンティオキア教会へと連れ帰り、丸一年を通じてアンティオキア教会を指導した、とされています。そして、いわゆる「キリスト者(クリストゥアノス/キリスト野郎の意)」と呼ばれるようになった点において、歴史的に「キリスト者」という名称はここから始まったという事になります。
・それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。(使徒言行録11:25~30)
およそ、1世紀において「アンティオキア」は司教座のひとつとして知られており、それだけにアンティオキア教会が、キリスト教の歴史においてはひとつの権威となっていたというところです。
そして、このところに「ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた」とありますように、いわゆる「パウロの宣教旅行」は、「宣教」が目的ではなく、もともと「ユダヤに住む兄弟たちに対する支援」が目的であり、そのため、各地の教会を回って献金を募り、エルサレムに持っていくという働きであり、その一環としての宣教であった、ということです。
しかし、時を前後し、「初代エルサレム教会」に対する迫害はより厳しくなります。その原因が、カイサリアにおける「無割礼者への洗礼」によるものであるのか、それ以前からの「初代エルサレム教会」の活動によるものかは、使徒言行録の記述からは分かりません。ただ、このとき「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」の「兄ヤコブ」が処刑されます。
・そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。(使徒言行録12:1~5)
・また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブ(主の兄弟)とケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。(ガラテヤの信徒への手紙2:9)()は永野による注
なお、使徒言行録における「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」という記述は、パウロがエルサレムに上った時の「ヤコブとケファとヨハネ」(ゼベダイの子ヤコブの死後)と記していることに共通するために、時間的にパウロがエルサレムに上ったのは、当然「使徒言行録12章の記述の後の時点」にならなければならず、その点を考えると、パウロが記述している時間の流れと、使徒言行録が記述する時間の流れとには時間的な差がある、という事が言えます。
ただし、この後、使徒ペトロは処刑を逃れ、(マルコと呼ばれる)ヨハネの母マリアの家へ行き、自分が助かったことを伝えると、最終的にどこかに逃亡した(ただし、再び15章の教会会議/公会議の場に登場する)と理解されています。
・ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことを(主の兄弟)ヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。(使徒言行録12:17)()は永野による注
なお、新約正典に含まれなかった2~3世紀に成立した「ペトロ行伝」では、ペトロは最後にローマで逆さ十字のかたちで処刑・殉教したとされています。そして、使徒言行録12は、最後、バルナバとサウロがエルサレムへと献金を届け、その時にヨハネ・マルコを連れて帰ったとされています。
・バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。(使徒言行録12:25)
次回は、使徒言行録13章からを見ます。
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