母はしばらく帰りません 11
祖父のアンドリューの家からは、歩いて十分ほどの所に大きな公園があった。その公園と呼ぶにも躊躇われるような広大な敷地の中には、湖あり、サッカー場あり、馬場あり、ロイヤルファミリーのメンバーが住む宮殿もある。
その公園内に、ピーターパンの像があると聞いて連れて来てもらったのだが、想像していたよりずっと小さく、何だか地味だなあ、と輝子は少々がっかりした気持ちになった、
祖父の家に泊まったその翌日のこと、朝食と日課の宿題を済ませて、二人は逃げるように散歩に出て来たのだった。
一緒に行かないかと、母は祖父を誘っていたようだが、
「こんな体だから疲れやすくてねえ。また今度にしておくよ」
と、祖父は遅めの朝食を食べながら、驚くような大きな音で観ているテレビから目を離さなかった。その横でマギーが、掃除や洗濯で忙しそうに動き回っている。何か手伝おうと言っても、
「いえいえ。どうぞゆっくりしててけれ」
と、言うのでせめて自分達の朝食の片付けを、と台所に運んだ皿やカップさえも、
「いいから、いいから!」
と、飛ぶような勢いで洗っていく。
「自分のやり方もあるだろうし、いきなり手伝うって言われても迷惑よね」
と、母は言ったものの、何もしないでいるのも手持ち無沙汰で、身の置き所がなく、家を出て来たわけだった。
「びっくりしちゃったわ、あのマギーさんには」
と、ため息と苦笑の混じった複雑な表情で、母は言った。
「あんなにずっと喋り続ける人、初めて見たわ」
昨夜の夕食のことだった。マギーが作ったマッシュポテトにソーセージという、味は悪くないが、とにかく量の多い、まるで山のように積み上げられた料理を囲んで、マギーはひたすら喋り続けた。
そしてそのお喋りの矛先は、ほぼ母エレノアに向かった。
いつイギリスに帰って来たのか?
いつまでこっちにいるのか? くらいまでは、まだ分かるが、
旦那はいるのか?
なんの仕事をしている?
どれくらい稼いている?
いつこっちに来るのか? どうして来ない?
と、全く遠慮のない質問が、弾丸のように飛んで来る。母は曖昧な表情と言葉で返すが、その度にマギーはキョトンと目を丸くして、
「さあさ、食べなせ食べなせ!」
と、皿にポテトや茹で野菜を盛リあげる。
あくまでイギリス人らしい態度で対応していた母だったが、
「この子はあんたの子かね?」
と、輝子を指差した時には、さすがに苛立ちを顔に出した。
「当たり前でしょう? 誰の子だと言うの?」
美しい人間のあらわな怒りには、周りを気圧する迫力がある。さすがのマギーも、
「そっかそっか。痩せてんのはお母さん似だあな。さあさ、もっと食べるのがいいよ」
と、更なるソーセージを輝子の皿に積み上げた。
不思議なことに、こんな奇妙な食卓でも、祖父のアンドリューは全く我関せず、と言うふうに一言も発さず、黙々と食事を口に運ぶだけだった。母やマギーの方を一瞥することさえしなかった。
もしかして、じいちゃんって耳が遠いのかな? と輝子が思ったほどだった。
「悪い人じゃないんだろうけど、あんなにズケズケ物を言う人、……久しぶりに会ったわ」
と、母が言った。
「その、ズケズケ言う人って誰?」
「うーん、大志さんのお母さん」
「あー、おばあちゃんね。そんな感じだったね」
「悪気はないんだけど、昔の人で、田舎の人だったから、ね?」
と、母は笑ったが、日本で「外国から来た嫁」として、苦労したことも少なくはなかったのだろう。
「でもさー、田舎じゃなくて、現代の人でもズケズケな人、結構知っているよ、私」
「テルちゃんにもあるの、そんな経験? どんなこと言われたの?」
「うーんとね」
輝子はリスに与えるために買った、殻付きの落花生を剥いて、いくつかを自分の口の中に放り込んだ。
「お父さんは社長さんなんだよね、会社なんて名前? とか、お金持ちなんでしょ? とか、えーと、ねんしょう?」
「はい、はい、年商ね。一年間にその会社にどれくらい収入があったかってこと」
「そう、その年商、いくら、とか聞かれたことあるよ」
「えー!」
母は心の底から驚いたようだった、
「そんなことを、誰があなたに言うの? クラスの子とか?」
「うーんと、同じクラスじゃないけど、色々って言うか、忘れた」
と、輝子は言葉を濁した。
「ませた子供がいるのね。今度そんなことがあったら、すぐにお母さんに言うのよ」
「うん」
と、素直な返事をした輝子だったが、勿論そんな気は全くない。「そんなこと」を言って来るのは、ませた子供ではなく、ちゃんとした大人達だからだ。ちゃんとした、の定義が合っているのか、輝子には分からなかったが。
それに本当は、もっと色んなことを、母が知ったら憤死しかねないくらい、遠慮なく聞かれた。
お母さんは外人なんだね。どこの人?
なんでお母さんが外人なの? (これを口にしたのが大人だったことは、ちゃんとした子供である輝子には信じ難い)。
本当のお母さんはどこにいるの?
これは輝子と母があまりに似ていないので、一部では継母と思われていたから、らしい。
本当のお母さんじゃないけど大丈夫? いじめられたら、すぐ教えてね。
勝手に継母だとか、後妻だとか父の連れ子だとか、話を作り上げるのも凄いが、継母は継子をいじめるものだ、と決めつける思考も凄まじいな、と輝子は思ったのだった。
大人って、結構優しくない。
大人って、結構大人じゃない。
と、十歳にして輝子は、世界の秘密の小さなかけらを解読したのだった。
輝子は一定の距離を保ったまま、こっちを観察しているリスに、落花生を投げてやっていたが、勇気を出して近づいて来た一匹のリスに、餌を乗せた手をぐっと伸ばしてみた。よく肥えた灰色のリスは、ビクッと後退りしたが、やがてジリジリと近づいて来て、手の上の落花生を掻っ攫った。小さい手で器用に殻を剥ぎ取り、実を頬張る。
「あはは! 取った、取った!」
一匹が勇気ある最初のラインを踏み越えると、それからは遠巻きにしていた他のリス達も、少しづづ交代で近寄って来て、手の平から落花生を奪っていく。慣れて来ると、調子に乗ったのか、直接紙袋に手を突っ込もうとする、図々しいのも出て来て、
「コラッ!」
と、輝子に怒られて、一目散に逃げて行く。その後ろ姿に輝子は声を立てて笑った。
「あの灰色のリス達ってね、元々はこの国の生き物じゃないの。よその国から連れてこられたんだって」
と、母は唐突に語り出した。
「ふーん、じゃあその前は、ここにリスっていなかったんだ」
「いいえ、いたのよ。灰色よりちょっと小粒な、赤っぽい色のキタリスがいーっぱいね」
「今はいない?」
「いるけど、少ないわね。体も大きくて強い、灰色リスに追い遣られちゃったの。おまけに灰色リスが持って来た病気が、赤毛のリスに広がって、どんどん死んじゃった」
「なんで灰色リスは大丈夫だったの?」
「免疫を持っていたのよ」
「うわあ、すっごい迷惑な奴らだな」
と、輝子は落花生の紙袋を差し出した手を、そっと引っ込めた。何だか急に、フサフサ尻尾と大きな瞳の小動物が、急に可愛い仮面を被った緑色のトロールのような気がして来た。
「そうねえ。だから、外来種って嫌われたり、警戒されたりするのね」
「もうエサあげんの、やめよ」
「でも、この子達が悪いわけじゃないのにね……」
母は輝子の手から紙袋を受け取り、少し離れたところから、こっちの様子を伺っているリス達に、優雅な手つきで落花生を投げてやった。
「後からきたこの子達が、例え先に居た子達を食い殺しちゃったとしても、それはそれで、弱肉強食の、自然界の決まり」